2009年11月15日日曜日

安息日を守るために(出エジプト28)

第28回 出エジプト記31章1~18節(2009年11月8日)

「安息日を守るために」

***神はモーセに仰せられ、天幕を作るための技術者を任命された。また、話の最後に、安息日を厳守するように仰せられた。***


18節にある「二枚の板」。これは聖画にもよく登場しますが、「十戒」が書かれているものです。今まで、山の中で、モーセと神の話がどのように進んできたのかを学んできました。天幕の作り方について。また、その御用をする祭司の装束など、事細かに神は示されました。天幕は、高価な材料を用いて大変荘厳な造りにするように書かれています。

今日の個所の前半では、その技術者として素晴らしい人を任命しています。これは、現代でいえば、棟梁と副棟梁のようなものだといえます。

後半では、「安息日を守れ」ということを語り、そこで話を終えて、モーセは下山し、民のところへ帰っていきます。安息日の厳守が、神の最後の言葉でした。

安息日を守るとは何か。それは、休め、という神の命令です。その理由として、17節に「主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたから」とあります。

現代風にいえば、こうでしょうか。「日曜日は必ず休むように。休まなかったら死刑だ」と。そんな会社はありません。収益のために、出来れば日曜も出勤してほしいというのが本当のところでしょう。しかし、必ず休まなければならないのは、考えてみれば当たり前のことです。なぜなら、休まないなら、次の仕事が出来ないからです。

日本人は、働くことが一番大事だと教えられてきました。月月火水木金金といわれたように、休みは10日に1回でよい、いや、15日、1ヶ月に1回で良いのだと言われていました。日本人の牧師も、なかなか休暇をとれないということがありますが、これは、神の命令に背いて罪を犯しているということになります。なぜなら、休むということは生きるということだからです。

健康のために適度な運動をするように、と医者に言われると、毎日一生懸命やってしまう。それでは、体を壊してしまいます。また、記憶というものは、眠ることによって整理が出来るといいます。今、アメリカの教会学校では、睡眠の仕方について教えるそうです。教育上、睡眠がとても大切だというのです。ドイツには、眠りの神学という分野もあるそうで… とにかく、休むということがどれほど大事なことで、それをしなければ罰が与えられるのだと神が仰せられるのです。

休むとは、一体何でしょうか。安息日とは、どう関係しているのでしょう。私たちはこれまで、安息日とは神にささげる時間だと学んできました。安息日、すなわち礼拝を捧げるということは、動物などを捧げて殺し、自分の罪を赦してもらうという儀式であり、神にまみえる時でした。休むことと安息日の関係は一体何でしょうか。

マルコ12章には、やもめの献金についての記事があります。当時の最小単位であるレプタ2枚(今でいえば数十円でしょうか)を捧げた女性について、イエスは言われました。「この貧しいやもめは誰よりもたくさん献金しました。皆は有り余る中から入れたが、この人は自分の持っているものをすべて入れたからだ」と。

ここに登場するのは、貧しいやもめ、イエス、弟子たち、金持ちたち。当時、多くの献金が捧げられると、ドラを鳴らして賞賛するというような風習があったようです。イエスは、ここで、金持ちを悪く言っているわけではありません。やもめが一番たくさん入れたと言っているだけです。これは、彼女が、彼女自身の命をかけるものをそこに見つけていたということです。

献金は、額が問題なのではありません。私たちは、自分の命をかけるものに財を投げ打って捧げます。私たちがお金を一番かけるところが、私たちの命をかけているところだといえます。このやもめは、神に命をかけることを決断したのです。その日のもの全てを捧げました。神に期待し、全てをかけていくという姿勢がそこに表れているのです。

「平安と喜びを得るためにはどうしたらいいでしょうか」と問われたら、どう答えますか。お金をたくさん得ること。健康であること。どれも大事ですが、それだけでは足りないことを私たちは既に知っています。日本では、年間の自殺者が三万人を超えています。一方、アフガニスタンでは自殺をする人は一人もいません。明日生きていられるかわからないギリギリの日々の中で、自ら死のうという人はいないのです。日本では、生きていくのに困るということは殆どありません憲法で私たちの最低限度の生活は保障され、生活保護を受けることもできます。そのための市の職人がたくさんいます。自殺をする人の殆どは、普通の生活をしている人々です。

一つ言えることがあります。命をかけて何かを始めるなら、周りにあるものは見えなくなるのではないでしょうか。私たちには、それがあるでしょうか?世の人々に問うなら、命をかけるまでのことは、おそらく殆どの人が、ないと答えるでしょう。やもめは、神に命をかけました。だから全部を捧げました。彼女にも生活はありました。しかし、神が自分の今日、そして明日をになってくださると確信し、その証としての献金だったのです。

安息日とは、命をかけてそれを守るという確認のための礼拝です。神が私を造られました。私にしか生きられない人生を私が生き生きと生きることで、周囲の多くの人に良い影響を与えることができるよう、神がそのように私を造られました。どんな仕事でも、立場でも、何歳でも、何人でも、あなたがそこにいるということが、どれほど意味があって重要なことかということを知らなければなりません。

人生が上手くいかない。それは、神を拒絶して生きてきたからです。神に立ち戻り、自分にしか生きられない与えられた人生を生きるということ、それを安息日の礼拝で確かめるのです。だから安息日、礼拝はいのちそのものなのです。

ユダヤ人も、このときはまだ分かっていませんでした。だから、「安息日を守らないものは殺されなければならない」と神はいわれました。民数記には、安息日に焚き木を拾いにいってそれが見つかり、死刑になった人について記事があります。「だから、私たちはそこまでして礼拝を守らなければならない」…と読むなら、方向を間違えてしまいます。神は、命かけるものの確認のために、私たちに礼拝を備えて下さったのです。

本当の平安を持つためには、命がけのものを持つことです。自分を造ってくださった方を知り、その方と共に歩むということです。私たちの命がなくならないために、神にまみえよ、と主は仰せられるのです。

休め、と神が仰せられるのは、単に仕事を休んで寝て休む、ということだけではありません。もっと大切なのは、どう生きるかを確認することをしなければ、次への力とはならないということです。礼拝はいのちそのものであると、理解し続けていくのです。それは、右向け右で一気に分かるものではありません。少しずつ、本気で、理解していくこと。そのために祈り求めていくこと。礼拝のいのちそのものを味わっていくこと。出エジプトで学んでいるのは、それをユダヤ人たちは40年もかけてやってきたということです。私たちも長い時間をかけて、人、神との関係の中で、それを学んでいくのです。

2009年11月14日土曜日

神と共に働くもの(出エジプト27)★

第27回 出エジプト記29章1~25節(2009年11月1日)

「神と共に働くもの」


後日作成します。

2009年11月13日金曜日

選ばれた祭司(出エジプト26)★

第26回 出エジプト記28章1~30節(2009年10月25日)


「選ばれた祭司」


後日作成します。

2009年11月12日木曜日

神に感謝し捧げる(出エジプト25)

第25回 出エジプト記25章1節~22節(2009年10月18日)

「神に感謝し捧げる」


***神はモーセに告げて仰せられた。「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心からささげるひとから、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」そしてどのような奉納物を受け取るか、詳細に定められた。***


ここでは、神を礼拝する場所である「幕屋」の設計図が詳細に示されています。一見して、つまらないと感じられる個所かもしれません。しかしとても大事なことなので、大きくスペースを割いて書かれています。

途中に出てくるケルブとは、ケルビムの単数形であり契約の箱を守るものです。この幕屋とは一体何なのでしょう。現代に生きる私たちにとって、どんな意味のあるものなのでしょうか。

新約聖書ローマ人への手紙15章4節「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」ヘブル人への手紙9章23節~「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。・・・」

幕屋とはまず一つ目に、神と出会う場所でした。「会見の幕屋」と言われます。二つ目に、至聖所であり、十戒とアロンの杖の保管場所でありました。3つ目には、いけにえを捧げる場所でした。このようにして、神に礼拝を捧げる場所が幕屋でした。

実は、もう少し意味があります。先ほどのヘブル人への手紙には、イエスは模型の聖所に入ったのではなく、
天そのものに入られたのだとあります。旧約聖書の時代、イエスはまだ現れていませんでした。幕屋は、それそのものが、神の「影」でした。影とは、本物は別にあって、それが映っているものです。影を見ると、本物があることが分かります。

幕屋で行われることを見て、人々は、神がおられることが分かったのです。多くの大事なことは目に見えません。しかし、その実体を知るために、人は神を求め、教会につながります。「見えれば安心する」ということでは無いと、ユダヤ人たちは分かっていたのでしょう。奴隷状態だったエジプトから出てきて、たくさん物を持っていたら安心出来るということではないのだと。出エジプトという出来事を通して、神がいることこそが安心なのだと教えられていきます。

テレビで、ある評論家が、現代アジアの状態をこのように言っていました。日本人は、お金や物がたくさんあったら幸せというのは幻想であると既に気付いている。韓国は、分かり始めているけれど、突っ走っている。中国は、まだそれに気付いていない。

ユダヤ人は、本当に信頼できるのは物ではないのだということを、40年かけて学んでいきます。影を見て、神がおられると分かっていったのです。たびたび、民たちは神に不平、文句を言います。しかし、神は姿をあらわされません。人や物事を通してご自分を示されました。しかし、まだまだ足りないと人々はつぶやきます。

幕屋は、影です。25章の最初で、奉納物について神は「心から捧げる人たちからとれ」と言われました。影を見て生きる人が、捧げて造るのが幕屋でした。これは強制ではありません。物やお金ではなく、神がおられないならダメなのだと知った人が、捧げて影を造ること、そこから始めましょうと聖書は言っているのです。

信じるということは、私たちが捧げるところから始まります。約2000年前、イエスが来られて十字架にかかられたのは事実です。キリストの影は、教会です。教会がある以上、キリストは今もおられ、生きて働いておられます。

それぞれの人生には艱難があります。しかし、その中で神が何を教えようとしておられるかを知り、生き生きと生きることが出来るなら、イエスがその人におられる証拠であり、それは影となります。

礼拝を捧げるということ。その時間を聖別しようとしてきた人たちによって世界は成り立ってきました。日曜に、礼拝に行くよりもアルバイトをして稼いだ方がいいかも、と私たちは思うかもしれません。しかし、杉原千畝さん、新渡戸稲造さんなど、それぞれの立場でクリスチャンとして大変良い働きをされた方々がおられます。田中正造さんがクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼がいつも聖書に親しみ、マタイ伝に生きたということは知られています。

学問や医学など、もともとは、全て教会から、捧げるというところから始まりました。人生を主に捧げた人々から始まっていったのです。人生を主に捧げるとは、キリストの思いで生きるということです。

ユダヤ人は、幕屋から始めました。最上のものを捧げるために、とても細かく決めごとをしました。教会のミッションは、礼拝、交わり、学び、奉仕、宣教に献身していくことです。幕屋には、全てそれが集まっているものです。捧げるとは、私たちがより少なくなることではありません。受けるより与えることが幸いであるとイエスは語りました。私たちにはキリストが住んでいます。キリストの影を、私たちが、生き生きと生きることで、世に対して良い影響を与えることが出来ます。

幕屋は、大きな出発点でした。同じように、私たちの教会も出発の原点です。そこで生き方を教えられ、私たちの日々の現場で、周りの人々が変えられていくことを体験して行きましょう。


2009年11月11日水曜日

シナイ山への準備(出エジプト24)★

第24回 出エジプト記24章1~18節(2009年10月11日)

「シナイ山への準備」


後日作成します。

2009年11月10日火曜日

神の約束を学ぶ(出エジプト23)

第23回 出エジプト23章10~33節(2009年10月4日)

「神の約束を学ぶ」

***引き続き神は、安息年、安息日、祭り、また違反に対する警告などの定めについて語られた。***


休むということは大切です。私たちが「休めない」と感じる時、それは、不安から来ているかもしれません。仕事をしなければいけない、休んでいる場合ではないと自分をせきたてるのです。

聖書は、6日間働いて1日休むように勧めています。7分の1は休めということです。昔は、半月または一月に1日休みということが一般的でした。神は私たちに「休め」、また約束として「大丈夫」と語られるのです。しかし人間側の心としては、「本当に休んでいいものかどうか」「新婚旅行から帰ったら机が無いのではないか」などと不安に思うものです。

14節から、年に3度の祭りを行うようにとあります。1つ目は種を入れないパンの祭り。これは、過ぎ越しの祭りともいわれ、モーセとユダヤの民が災いから守られ出エジプトしたことを記念して行われます。2つ目は初穂の刈入れの祭り。これは現在のペンテコステ(聖霊降臨)を指しており、時期としてはイースターの後に行われます。3つ目は収穫祭。これらの祭りに、大麦、小麦、ぶどう・オリーブをそれぞれ献げよといわれました。17節「男子は主の前に」とありますが、男子とは代表の意味です。

祭りというと、献げものをして、収穫を祈るものだと考えるかもしれませんが、逆です。収穫を下さってありがとう、というのがその意味です。「大丈夫」というのが最初なのです。大丈夫、あなたはお祭りが出来るようになる。祭りの意味は、その都度、感謝することが出来るように、ということです。「何も持たずに前へ出てはならない」というのは、「収穫の多いのに気付きなさい」ということなのです。それは、こんなに沢山与えられていたのだという発見です。

祭りとは、「礼拝」と考えることが出来ます。礼拝とは、聖書のお話を聞くことが全てではありません。1週間それぞれが歩んできて、物質的精神的に、どんなに神に支えられ愛されてきたかを確認し、感謝を献げる、それが礼拝です。7日に1日休んで礼拝を捧げよというのは、心の休みをとりなさいということです。人間はすぐ何でも忘れてしまいます。週に一度集まって、礼拝を献げ、聖書を読み讃美歌を歌うときに、それを確認することが出来るのです。

結婚式でするお話ですが、今まで主語が「私は」だったものが、「私たちは」に変わる、それが結婚です。クリスチャンもある意味そうです。イエスに出会ってから、「私たちは」に変わり、それが礼拝の姿です。キリストに愛されている「私たち」、その感謝をささげるのです。

19節、「子ヤギを、その母親の乳で煮てはならない」とあります。これは、異教の習慣だったようです。私たちは、習慣・文化の中で、それが普通と思いこみつつ、実はとんでもない方向へ走っていくということがあります。カルトにのめりこむ人々は、自分ではその異常さに気づくことが出来ません。普通と思っているのです。スイカ割りをするときに、目隠しをされて歩こうとすると、自分ではまっすぐ歩いているつもりが、とんでもない方向へ向かって行くようなものです。

礼拝を献げるということは、私たちの感覚がともすれば狂ってしまうのを、安定させる役割もあるのです。20節、「わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」1週間のうち1日の礼拝。それは、世の人には大変なことだと映るかもしれません。しかし、主は、物質的・霊的・精神的に祝福すると明確に約束して下さっています。だから、安心しなさいと語られるのです。

とはいえ、どんなに主イエスを思っていても、外れていくということはあります。それがサタンの仕事です。クリスチャンでなくても、素晴らしいことが出来る人はこの世に大勢います。そうなると、イエスが神であると信じる必要がどこにあるのか、と思えることがあるかもしれません。私たちが外れていくとき、その外れ方はとても微妙なものです。「これもいいのでは?」と、人間の判断で少しずつ外れ、狂っていくのです。しかし、その時に神から問われます。外れないために、私たちを造った方は何と言われるのか、十字架のイエスが何といわれるかを私たちは聞かなければなりません。その方を知り続けることをしなければ、私たちは簡単にサタンの誘惑に陥っていくでしょう。

32節、他の神々と契約を結んではならないと語られます。主なる神は、私たちを必ず祝福すると約束されました。ただ単に、これをしてはダメだ、と言われたのではありません。ユダヤの民は、世界中どこにいても、毎日同じ聖書の個所を読み続けています。それを4000年の間も続けてきたのです。神は、約束なしには、言葉を発せられない方です。全てのことに意味があり、また、主の約束がそこにあるのです。


2009年11月9日月曜日

正義に生きよう(出エジプト22)

第22回 出エジプト記23章1~9節(2009年9月27日)

「正義に生きよう」

***引き続き、主の掟について。訴訟において、権力者に偏るのも、貧しい人を特に重んずることも良くないとされるなど、事細かに定められた。***


主はルールを定められました。それは、民が一つの方向へ向かうためにとても大切なことでした。1節、「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」とありますが、これは一体、法律なのか、それとも情けに関わってくるものなのか、と思いませんか。前回、殺人罪についての規定から学びましたが、今回は訴訟についての学びです。

証人とは、法律用語です。悪意とは、相手を陥れてやろう…という意味もありますが、「意識してなくて」という意味も入ります。故意過失という言葉があり、良く分からないのにいい加減な証言をしてはいけないということも含んでいるのです。そのいい加減さが、相手を不利な立場に陥れていくからです。

たとえば、最近問題になっている痴漢冤罪など。本当はその人はやっていないのに、まるで見たかのような気になっていい加減な証言をするということがあります。交通事故で万が一加害者になったら、事故現場にいって一日考えることが大切です。本当のところ自分はどうだったのか、信号は青だったのか赤だったのか。でなければ、もしかして自分に過失がないところまで、流れによって及んできてしまう可能性があります。このように、悪意だけでなく、「いい加減さ」も大変困ることです。

2節、「悪を行う権力者の側に立ってはならない。」とあります。普通に考えるなら、権力者側に付く方が良いからです。なぜなら、権力者に対して私たちはNoと言えません。ともすれば悪を行う権力者の側に立ってしまう、そうなりかねない私たちだから、聖書はこう書くのです。人気のある指導者であったとしても、偏ってはいけません。日本の政治でいえば、あの小泉人気は一種の集団ヒステリーであり、異常でした。

3節、「貧しい人を特に重んじてもいけない」とあるのが、聖書のすごいところです。当時の法律にこういう文言はありません。情として、貧しい側に立ちたいとも私たちは思ってしまいます。ここで教えられるのは、聖書が教えるのは、「公平」ではなく、「公正」だということです。

公正とは公に正しいと書きますが、それは神が真ん中にいるかどうか。神の発想で物事をとらえられるかどうかということです。私たちの概念は常に「公平」です。ところで、公平とは、そんなに良いことばかりでしょうか?個性、環境、男女、国籍、全てにおいて違いばかりの私たちです。同じ教育を受けたとしても、それぞれ結果には差が出るのです。聖書では、実は公平という概念はあまり出てきません。

神の発想とは何でしょうか。4~5節、「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」とあります。敵の牛やろばです。起こしてやりたくなくても、起こすのです。「それは自己責任だから、私は知らない」と言うなら、それが神の目に正しいかどうか?その人物を憎んでいたとしても、そのロバは神の作品であり、それを管理しているその人がいる、ということ、それが神の発想です。ロバの気持ちを代弁するなら、「私も神の作品だから、大切にして下さい」というところでしょうか。

読み進んで行くと、土地も休ませるようにと、聖書は連作を禁止しています。ここでは、「土地が叫ぶ」という言語が用いられています。

世の中は動物愛護の風潮が高まっています。同じ哺乳類でも、牛は食べても良くて、イルカは食べてはいけない。何故かといえば、牛は馬鹿でイルカは頭がいいからと言います。聖書によれば、そもそも全ての動物が草食でした。そしてある時、食物としてこれを与えると神が宣言されました。人間はその頭として、動物は大切にしなければならないが、同時に管理することが許されたのです。神の正しさの中で、動物を大事にし、また、食べても良いとされたということです。

イルカは頭が良いから食べてはいけないという考えは、公平の概念から来ています。能力のないものは食べても良い、平均値より低いのだから、という考えです。平等とは私たちにとって大事ではありますが、公平と公正その両方を分けて考えなければなりません。公正、つまり神の言葉を基準に考えるのです。

6節~8節は、正しい裁判についての記述です。賄賂がどんなに世の中をダメにしているでしょうか。出エジプトして、何百万の人が共に一つの目的に向かうとき、こういったことが一番悪いことです。それは単に、ルールを守ったら良いという問題ではありません。こういうこと、つまり、神の言葉をおきざりにし、人間中心主義ヒューマニズムに陥っていくことが、実はとても怖いことなのです。

ある教会では、ヒューマニズムを大切にし、社会活動に専念するところもあります。しかし、真の意味で私たちが生き生きと生きるためには、神の公正がこれであるとはっきり伝えていくことの方が大事です。人間中心ではなく、神中心だという、その公正です。

自分の正しさ感で、貧しい人や権力者に偏るのではなく、常に神の方だけに向いていきましょう。神の言葉に身を置いて、一つ一つのことを生活の中で、神が何を言わんとしているかを問い続けていきましょう。


2009年11月8日日曜日

弱きものを苦しめないために(出エジプト21)

第21回 出エジプト記22章21~31節(2009年9月13日)

「弱きものを苦しめないために」


***次に神は、人道的律法について仰せられた。寄留者、寡婦や孤児を苦しめてはならないこと、また貧しい者に対して高利貸しのようになってはならないことなど。祭儀的律法として、収穫と葡萄酒の奉献、初子をささげることなどについて仰せられた。***


在留異国人、すなわちユダヤ人でない人についてどう対応すべきかを書いています。外国人を助けるようにと神が命令しているのです。かつて戦時中、日本はフィリピンなど東南アジアの人々を酷く扱いました。シンガポールには、その記念館などもあるそうです。この個所は、フィリピン人が日本を、日本がフィリピンを理解するような感じかもしれません。以前は殺しあうほど憎み合っていた関係です。

中国では、人種が違うということで問題が起きています。地域文化の違いが諍いを生むのです。マタイ23章には、世の終わりの前兆として民族同士で対立し抗争が起こるとあります。ソ連が崩壊した時には、民族がこんなにも憎み合っていたのかと驚かされました。

在留異国人、それは、ユダヤにとってやっかいな存在だったでしょう。彼らは、神を持っていませんでした。しかし、彼らを苦しめてはならないと神は語ります。なぜなら、「あなた方もかつてはそうだったから」と。やられたらやり返す、というのが人間です。虐待の連鎖というものが、親子関係で何代にも渡って続きます。人間にはそういうものがあるのです。「苦しめてはならない」という言葉、そこからは、私たちの中にそれが元々あるのだと読み取ることが出来ます。

ある実験結果があります。ロールプレイで、裁判する側と、される側をそれぞれが演じます。刑の執行の場面で、あるラインを越えたら死んでしまうと伝えてあるにもかかわらず、裁く側にたった人は、それをやってしまうのです。自分が優位に立つということは、そういう心理を生みます。

「外国人を守りなさい」とは仰せられませんでした。「苦しめてはならない」という言葉は、二重否定です。立場が違うときに、私たちは相手を苦しめたくなるという性質があります。それが私たちの罪です。私たちは、虐げる側になっていきやすいということを神がご存じで、自分の罪に目を止めるようにという意味があるのでしょう。

今、あるグループで、「ユダヤ式教育法」について学んでいます。」ユダヤ人と他の民族の違いは何か、というようなことから学ぶのですが、ユダヤ人の人口は現在1400万ほど、世界全人口の0.3%ほどです。ところが、ノーベル賞受賞する全体の20%が、ユダヤ人だというのです。

この「ユダヤ式教育法」という本は、ユダヤ人の国連大使が書きました。彼は言います。日本人は優秀だが、ユダヤ人との決定的な違いがあると。それは、ユダヤには旧約の時代から義務教育があり、親の義務としてそれをしていたことであると。その教育とは、神が子らにどういうことを望んでいるかを教えることであると。それが分かったなら、子供たちは、学問・芸術に興味を持ち始めるのです。数学一つとっても、神の力がどう働いているのかを、その中で知ることが出来るのです。

「苦しめてはならない」。私たちも、先祖も、苦しめられてきました。私たちの中にも、周りの人を苦しめてしまう性質があります。その罪を認めること。そして、主により頼んで、生き生きと生きるということについて勉強していきましょう。ユダヤ人たちは、それを200年とか1000年とかのスパンでやってきたのです。

神がどんなに人を愛しているかを知る。また、私たちには罪があって、愛することが出来ないこと。だからこそ神に頼っていけばいいのです。

24節、高利貸しのようであってはならないとあります。利息をとってはダメだと。新約聖書でイエスは「金を貸すより、あげてしまいなさい」と語られます。これは当時としては特異な教えです。ハムラビ法典では、利子をとれと書かれていました。聖書がこう言うのは、利息をとるということ、こういったことから社会が崩れていくからです。

28節、神をののしってはならない、あなたの民の代表者を呪ってはならない、とあります。新政権となりましたが、人間のやることである以上、それほど期待できるわけではありません。しかし、神を理解し、信じて、リーダーを信じて邁進していくとき、それぞれが祝福されるのだというのが律法の教えです。何々してはならない、というのが律法の趣旨かのように誤解されていますが、違います。神が守るという約束が、律法なのです。


2009年11月7日土曜日

私たちの中にある罪(出エジプト20)

第20回 出エジプト記22章1~17節(2009年9月6日)

「私たちの中にある罪」


***引き続き、神は、人間同士の財産について言及された。盗難事件をどう裁いたら良いか、その所有者の責任については、など。***


私たち人間には、規律が必要です。だから法律が存在します。今日の個所では、しち面倒くさいことが書き連ねられています。羊や牛など、所有する財産が盗みにあったり、殺されたりした場合はどうしたらよいか… 1節、「盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけれれ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。しかし太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある」とあります。太陽が昇っているなら…と、どうして変わってしまうのでしょうか?

こうした条件が、聖書以外の所でどんどん細かく制定されていって、律法が作られていきます。ここでは、まだ、刑法と民法、また道徳観念などがごちゃ混ぜになっています。学問が進んでいくにつれ、さらに細かく制定されることになっていきます。

そのように、法律がたくさん出来ていきます。それでも解決出来ないから、また更に増えていきます。しかし、「こうしたら上手くいくから、こうせよ」ということが趣旨なのではありません。神の規定した大切な部分とは何でしょうか。私たちは、争いが起きたらどうしたらいいのか。争いを起こさないためには、どうしたらいいのか。そもそも、争いとは何なのか。どこから来るのか。それを学ぶ必要があります。

太陽が昇っている時と、昇っていない時、と聖書にありますが、これをどんな視点で見たらよいのでしょう。聖書は、その環境がどうだったかを考えています。結果だけをみて良かった、悪かったというのではないのです。起こっている問題だけをピックアップするのではなく、その背景、環境を見るのです。

私たちは、自分が被害者でも加害者であっても、そのような視点で見たいと思います。神は私たちを、そのように見て下さるのです。それが、聖書の生き方です。

私たちが通常抱くイメージとして、神という存在は、裁判でいうなら、検察官だというものです。それは間違っており、神は弁護人です。イエスは私たちを弁護して下さり、そのために十字架にかかられました。やってはいけないことを分かっていても、それをやってしまう自分。やらなければいけないことを、やれない自分。それが罪ですが、そんな私たちの罪について、イエスは分かって下さるのです。そして、自分の力ではどうしようもないそのことについて、神が共にいて成して下さるのです。

私たちは、神に弁護されています。そして、私たちの相手もまた、神に弁護されているということです。私たちは、「ひょっとしたら、自分が間違っているかもしれない」と考えることが必要です。それは、自分の感情とは別の次元で、自分の罪を認めるということです。私がやっていることを、私は分からないからです。そのようにしていくことで、人間関係が造られていきます。

私の側に、間違いの可能性があるということ。それが分かるように、律法は造られています。そうでなければ大変です。科学の世界に、ピタゴラスの定理というものがあります。これは、きちんと証明できたので有名になりました。ピタゴラス学派というものがありますが、殆ど宗教団体です。ピタゴラスは、自分の言う事をきかない弟子たちを容赦なく殺しました。1と2の間に1.5というものはあるが、πなど割り切れないものはないのだとし自分の学説の矛盾を指摘する弟子たちを殺したのです。

ピタゴラスが、自分には間違いがあるかもしれないと考えていたとしたら、もっと良い仕事が出来たかもしれません。数学の世界でさえ、そういうことが起こります。ましてや、私たち生身の日常、感情において、上手くいくはずがないのです。自分の間違いの可能性を認めることなしには、ありえません。主が、私たちの改めるべきところを改めさせて下さいます。

しかし、結局のところ、私たちの中にある「間違い」は、私の責任ではないということも知っておく必要があります。なぜなら、もともと罪というものは、アダムとエバが善悪の知識の実を食べたことによって人類に入ってきたものです。彼らに責任があるのであって、私たちにはその責任はないのです。

私たちの中にある罪によって、私たちは死ぬまで苦しい思いをしなければなりません。しかし、こうも考えられます。私たちは確かに罪を持っています。同時に、別のものも、たくさん持っています。多くのものに満ちています。目が見えるということ一つとっても、それは、神に与えられた賜物です。

与えられたその中で、私たちは生きています。感謝して生きるのです。罪も与えられた物と考えることができないでしょうか。私たちは、十字架の血潮により、完全に赦されました。赦された後、私たちの中にある罪をどう理解したらよいか。これと共に、どう生き生きと生きられるか。たしかに、自分でコントロールできないことは、たくさんあります。しかし、教会、そして家族と共にそれをコントロールしつつ生きていくときに、生き生きと生きることができ、能力も上がっていくのです。

コントロール出来ないことにぶつかったら、戦うのです。一緒に戦いましょう。罪と戦いながら、私たちは成長していくことが出来ます。そう考えると、罪も、そう悪いものではないと思いませんか。

罪の結果、たとえば殺人など、そういったことは止めなければなりません。しかし、罪そのものは受け止めましょう。続く23章には、弱い人への対応について書かれています。「共に生きる」ことの学びです。自分の罪を認めなければ、それをすることは出来ません。認めるとき、素晴らしい成長が待っているのです。



2009年10月26日月曜日

これまでの生き方からの脱出(出エジプト19)

第19回 出エジプト記21章12~25節(2009年8月23日)

「これまでの生き方からの脱出」


***神が人に与えられた契約の続き。人を死なせた場合は死刑に処すること、けがをさせた場合はどのように罰せられるかなどの規定。***


前回、奴隷について学びました。今回は、死刑についての契約です。この後、財産についてなど、神が民に与えた契約が続いていきます。

考えてみると不思議です。今までユダヤ人たちは、一つになって戦ってきたのではなかったのでしょうか。殺人について規定しなければならないような大変なことがあったのでしょうか。たしかに、250万人もの群衆です。いろんなタイプの人がいたでしょう。殺人を犯した犯人は殺されなければならないという、こういった法律は、当時既に、ハムラビ法典、シュメール法典などが存在し、当然の規定でした。

何故、殺人犯は殺されなければならないか。それは、神の作品を殺したから、という理由です。17節、父、母を呪うものは死刑、とあります。あなたを養い育てた父母を呪うことは、霊的、精神的に殺すという意味が
あります。肉的に殺すという意味ではなくても、聖書では「いのち」を、体だけではなく、心、霊的なものを含めて、いのちと捉えているのです。

一つになったユダヤの人々。何故このような規定を定めなければならない状態になったのでしょうか。

創世記には、罪が入ってきたその時に、人類初の人殺しが行われたとあります。罪とは、善悪の知識の実を食べたことから人類に入ってきましたが、これは、良い悪いの判断を自分でやるということでした。自分の持っている価値基準。これは、ある年齢以上になると、そうそう変わるものではありません。タリバンの現場、彼らの価値基準においては、子供が自爆して死ぬのは、最高の死に方とされます。彼らの善悪、価値基準ではそうなのです。人間の価値基準で物事を進めるなら、争いが起こるのは当然です。

私たちはいつも定型的に考えます。自分の人生、そう生きてきた、と。それで人を傷つけるのです。エジプトを脱出するために、あんなに一致した人々でした。神の業を共に見て感動した人々でした。しかし、人間関係の多くの問題が起こったのでしょう。父母を打つものは…とありますが、親子関係は、今でもそうであるように、相当に難しい問題です。

定型的な発想を変えてみるのはどうでしょうか。仲の悪い人を思い浮かべて、普段自分が思う言葉を、今、変えてみるのです。出エジプトというものが、まさにそうでした。奴隷だった民は、こんな生活は嫌だと当然思っていたでしょう。でも、そういうものだとして生きてきたのです。だから、脱出させたのです。

出エジプトは、旧約聖書の中で心臓部分といわれます。脱出、一歩踏み出すところから全ては始まるのです。発想を転換しましょう。言葉から変えてみるのです。私たちは仲たがいするとき、最終的には、相手を殺したいというところまで行ってしまいます。私たちは、一対一の正面向き会った時にそれを相手の問題だと思っていますが、聖書によれば、これは、自分の中の罪と私たちとの戦いだというのです。そこへ発想を転換し、脱出するのです。

お互いを自分の感覚で、良い悪いと判断しているだけです。聖書は、全ては罪との戦いだと言っています。奴隷だったユダヤ人たちは、その状態が彼らにとっての普通でした。エジプトを出ることは、むしろ苦しみだったのです。相当の神の働きがなければ、そこを出るということは不可能でした。イエスを救い主だと信じることも、一つ脱出しなければ出来ないことです。

「目には目、歯には歯」とあるのは、同態復讐法として知られているものです。これは、目をやられたら目でとどめておくように、というそれ以上の余計な戦争をさせないためのものでした。イエスは、これさえ乗り越え、脱出されました。「あなたの敵を愛せよ」と言われたのです。

仲たがいしている相手であっても、その相手を興味をもって研究するとき、神の作品であるとの発見に至れば、憎む必要がなくなります。それは、今までの発想からの脱出です。赦しの発想、それは、今のところから脱出し、相手を、自分を、そして全体を新しく理解できるようになることです。全てをどのように捉えるかが、私たちの人生を決めていくのです。


2009年10月25日日曜日

謙遜な人として生きる(出エジプト18)

第18回目 出エジプト記21章1節~11節(2009年8月9日)

「謙遜な人として生きる」


***奴隷についての規定。奴隷は、7年目には自由の身として無償で去ることが出来ること、また、奴隷が結婚した場合のことなど、神は、詳細に定められた。***



20章では、十戒について学びました。21章では、社会生活に関しての神の約束が書かれています。かつてエジプトの地で奴隷だったユダヤ人たちは、当然のことながら、知恵や知識が十分にはありませんでした。もちろん、仕事の技術や、彼らの人間関係については分かっていたでしょう。しかし、出エジプト後、どうやって生きるべきかなどについては、考えられなかったでしょう。

有名女優の覚せい剤使用が大問題になっています。覚せい剤は、一度手をつけたら最後、もうやめられないといいます。病院で治療したとしても、大変難しいものであると。中国では、覚せい剤を持っているだけで死刑です。そのため、知らない間に、後ろから鞄にそっと入れられて陥れられるということもあるそうです。

彼女は、これほどまでに大変なことだと分かっていたのでしょうか?とても軽く考えていたのではないでしょうか。こういったことについて教育される機会が今までなかったために、そうなってしまったのではないかと思います。

社会生活について規定があるということは、大変重要な意味があります。一人で生きていく、というのなら、技術さえあれば何とかなるのかもしれません。しかし、社会の中で生きていくということは、そこには必ず、人間関係というものがあります。

ユダヤの民は、奴隷状態だったところから出てきて、荒野を歩いています。2節、「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合」とありますが、これは契約関係です。担保にしたいが、お金もないので働かせてくれ、という具合です。「6年間仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる」これは、その奴隷に借金があったとしても、主人は彼を自由にしなければならないというものです。

レビ記には、ヨベルという規定があります。これは、50年で全てがチャラになるという神の約束です。ヨベルの年が来たら、6年間たっていなくても奴隷の身から解放されるというのです。これは、大変奴隷に対して甘い規定ではないでしょうか?

3節、独身なら独身のまま、結婚しているなら妻も一緒に去る、とあります。やはり、雇う側に対して厳しい律法だといえます。通常、社会的には、貧乏人よりも金持ちの方が良いに決まっています。雇う側である金持ちの言うとおりの条件で、雇われるということも起ります。

そのため、法律で規制をかけるのです。日本では、労働法によって、アルバイトでも組合を作ることが出来るようになっています。雇うなら、雇われる人を大切にしなければならないと決められているのです。神は、旧約の時代から、それを定められていたのです。

社会的な人間関係についてこのように学ぶことは、社会全体がダメになるかどうかを決めるほどのことといえます。麻薬や覚せい剤が、どんなに危険なものであるかということを教えなければいけないように、神は、十戒を与えられた後すぐに、「雇うなら、人を使う立場になるなら、相当に気をつけなさい」ということを語られ、教育されました。なぜなら、立場が上になると、どうしても自分の思い通りにやろうとしてしまい、それが社会をダメにしていくからです。

レビ記25章には、土地にも安息を与えること、奴隷、外国人に対してのことなどが、神により規定されています。神は、これらの規定を通して、民に対して、自分が奴隷であったところを救い出された神を思い出すようにされました。

ここで、謙遜について学ぶことができます。謙遜な人とはどういうことでしょうか。特にリーダー、人の上にたつ者には必要な学びです。自分の中にある傲慢さをどうしたらよいのか、人とうまくいかないのは何故なのか・・・

「わたしたちは、かつて奴隷状態だったところから導かれた」これを考えるのが謙遜です。どうしたらいいかという方法ではありません。自分が解放されたということを意識することが謙遜なのです。人間は解放された存在です。不安からの解放。いろんなものに束縛されているからです。私たちの昔ながらの文化によって、ガチガチに縛られています。それに気付かせ、解放して下さる方がおられるということ。それが出エジプトのテーマです。

それについて、理解し続けていくことが、謙遜への道です。自分がどういう存在か。どんなに束縛されているか、そこから解放されていくことが謙遜なのです。

今の社会が良くなるために、政治家や公務員の方々が、そのような思いで働いてくれるならどんなに素晴らしいだろうと思います。彼らが謙遜な人々であったらと。ただの人気取りであるなら、いつかは化けの皮が剥がれます。

田中正造という人は、日本で最初の公害問題と戦った人です。彼が亡くなった時、ポケットにはマタイ伝のちぎったものが入っていたそうです。彼がクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼を動かしたのは、キリストの生き方でした。聖書を読みながら、イエスキリストそのものに感銘を受け、彼もそのように生きようとしたのです。人気がどうとかそういうものとは全く関係のないところで、彼はイエスに学び、謙遜に生き、それが社会を変えました。

謙遜に生きるとは、解放された自分自身の発見です。当時の世界的な奴隷制度から見るなら、考えられないような対応を神は規定されました。私たちは、いつでもキリストのところに戻って、自分が解放されたものであることを知り、どんな生き方をしていくかを考えていきましょう。


2009年10月24日土曜日

民たちの畏れ(出エジプト17)

第17回目 出エジプト記20章18節~21節(2009年7月5日)

「民たちの畏れ」


***雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した民は、たじろぎ、遠く離れて立ってモーセに言った。「どうか、私たちに話して下さい。聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」モーセは民に言った。「恐れてはいけない。神が来られたのはあなたがたを試みるためだ。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためである。」***



雷、いなずま、角笛・・・民はたじろぎ、恐れたとあります。民たちの、神に対する恐れは、ここで初めて生じたものでした。「おそれるということ」を初めてここで知ったのです。しかし、エジプトを出る直前に目の当たりにした様々な災い、幼子が殺されていったあの事件について、民は恐れたのではなかったのでしょうか。しかし、「おそれる」という言葉の出エジプト記での記述は、ここが初めてです。

私たちは、「おそれること」についての学びが必要です。生活の中で、多くのことに恐れを抱きます。経済がこの後どうなっていくのか、年金は、健康は、ウィルスは・・・と数えればきりがありません。ユダヤ人たちは、十戒を与えられ、そして雷を目撃したときにたじろぎ、恐れました。それは、神から直接言葉をかけられたことへの恐れでした。今までは、モーセを通して神の業を見てきた彼らでした。それに対しての奇異な感じ、不思議さ、はあったでしょう。しかし、恐れという感覚は初めて持ったのです。

ある大学院で、恐れについての研究をしたそうです。アヒルのひよこを、1羽は高層マンションで、もう1羽は地上で飼います。そしてある程度育ったら、それぞれをガラスの板に乗せるのです。高層マンションで育ったアヒルは、全くへっちゃらですが、地上で育ったアヒルはパニックになって、右往左往してしまうそうです。マンションで子供が転落する事故が度々起こりますが、高さに慣れてしまってつい不注意になるということがあるのかもしれません。

「おそれ」には、正しい「おそれ」と正しくない「おそれ」があることを学ばなければなりません。私たちに必要なのは、恐れを無くすことではないからです。

正しくない恐れとは何でしょう。19節、民は、神が自分たちと話すなら自分たちは死んでしまうのではないかと恐れました。20節で、恐れてはいけないとモーセが語ります。民たちは、神に対して、「自分たちの失敗に対して罰を与えるのではないか、神の気分を害するようなことをしてしまったのではないか、自分は大丈夫なのだろうか」という感覚をもったのでしょう。2度と悪いことをやらないから許して、というような、悪いことを親に見つかった子供のような恐怖心です。

しかし、神は、そのような方ではありません。出エジプトを通して、導き、与え、愛するということを示してこられました。これを学ぶなら、あなたは生き生きと生きられる。本当に良かったと思える人生を生きられる。そのために、神の言葉を聞く必要があると語るのです。ところが、民たちは、そのような聞き方をしませんでした。~~しなかったら酷い目にあわされる、というような感じで、びくびくしています。

今の環境が変わったらどうなるのか、自分は大丈夫なのか、という恐怖はあるかもしれません。それは良い恐れです。いろいろと都合の悪いことが出てくるかもしれない、と。それは、神と自分のギャップに対する恐れです。しかし、そういうものはだんだんと消えていきます。日々、神と共に歩むときに、その中で少しずつ学ぶとき、最後には平安が与えられていきます。

何が起こるか分からない、怖いかもしれないが、一歩踏み出してみよう。神が共におられるから。神に従いながら歩んで行こう、という、これは正しい「おそれ」です。

神の言葉とは、実際おそろしい言葉です。聖書を一人で読むとき、それはもろ刃の剣となりえます。カルト集団は、聖書を自分たちの良いように解釈して読んで、殺人さえ聖書の教えだとして行うことが出来てしまうのです。一人で読むのではなく、教会で、愛・期待の中で共に読んでいくときに、人生を切り開く剣となっていきます。

神が、完全に愛する方だと理解して、聖書を読むのです。必ず神が導かれるという大前提のもとで聖書を読むとき、私たちがいだく恐れは、正しい「おそれ」です。

ユダヤの民は、ここで初めての「おそれ」を学びました。カトリック教会では、ある場所に柵が設けられていて、そこから先は、信徒は立ち入ることが出来ません。聖職者だけが入ることが出来ます。聖俗を分け、俗の人は、神の聖さに触れては罰を受けるとされています。しかし、旧約聖書の時代から、神は、約束に愛を含ませて与えておられました。正しい「おそれ」なら、持って歩んで行って良いのです。

この先、十戒に付随する規定が細かく書かれていきます。モーセは、「正しいおそれの中で読むなら大丈夫」、だから「おそれてはならない、恐れる必要はない」と語っているのです。


2009年7月23日木曜日

神をあがめる姿(出エジプト16)

第16回目 出エジプト記20章1~17節(2009年6月28日)

「神をあがめる姿」

*** …十戒の続き…(6)殺してはならない。(7)姦淫してはならない。(8)盗んではならない。(9)偽りの証言をしてはならない。(10)隣人のものを欲しがってはならない。***


前回は、人間から見た十戒を学びました。以前、私達と神との契約は双方向の片務契約だという話をしました。神が私達を一方的に愛して下さるという契約を結んでくださり、私達も神を一方的に愛するのです。

今日は、神から見た十戒を学びます。十戒の分け方ですが、20章2節を第1戒ではなく、前文とみなします。第4戒までは神のため、そして第5~10戒は人間同士のためのものです。1~3を神のため、4~10を人間のためと見る分け方もあります。伝統的には、1~4、5~10の分け方が指示されているので、今日はその上で話をします。

結婚式で読まれる聖書の箇所は、第1コリント13章。愛の章と呼ばれるところです。書かれていることを一つ一つやろうとするなら、こんなに出来るだろうか?と思います。一つでも間違えたら、罰せられるのだろうか?と。十戒の4番目は、日曜に仕事をしてはいけないとあります。「罰せずにはおかない」と。5戒は父母を敬えとありますが、もし敬わないならどうなるのでしょう?

アートバイブルを見ると、十戒は2枚の板に書かれています。1枚は神、もう一枚は人間のために。契約書とは、二者がお互いに結ぶものですから、決まって2枚あります。両方のために契約書は存在します。この1~10戒を、私達はどのように読んだらよいのでしょうか。

まず、神の側として考えて見ましょう。最初に、一番大事なものから与えるのではないでしょうか。1戒は一番大事なものです。ハングルで聖書の神とは、「ハナニム」ですが、これは、唯一の神という意味です。「ハナニム」といえば、すぐに聖書の神と分かるのです。日本語は、神も神々(偶像)も同じ字を使うため、その違いが分からなくなることがあります。これは、私達の生き方に深く係るほどの違いです。

創造主なる神。それは人生の土台です。私達が信じるべきお方であり、それ以外はそうではありません。比較宗教学という分野がありますが、聖書の神以外に「天地万物を造った」と宣言するものはありません。天理教は創造神といいますが、それが人間の人生や、愛、結婚制度に至るまでを作ったとはしていません。私達人生そのものを造ったとは言わない点で、聖書の神とは全く違います。

進化論的考えでは、人間を優劣で分けます。人間の中で価値あるものとそうでないものを分けるのです。神によって全てが造られたという前提が無いからです。そこから、いじめなどの問題が出てきます。

十戒が重層構造だとすると、1戒は土台です。これがないと、社会がダメになります。私達はいろんな場面で、「造られた」のだと考えるクセをつけましょう。イスラエルは40年かかってその訓練をされました。それがイスラエルという国の強さになったのです。そうして、2戒に繋がっていきます。

5節、「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」神の契約とは、Give&Takeで無いのではなかったのでしょうか?まるで因果応報であるかのように受け取れる言葉です。実は、新改訳聖書で「ねたむ神」とあるこの箇所は、新共同訳では「熱情の神」と訳されています。救うということについて、熱情を持っておられる神なのです。

イスラエルの家族は、集団の家族でした。その長は大きな力を持ち、家族をリードしていく責任があります。全体のリーダーはモーセですが、家族単位のリーダーは父であり、子らには徹底的に父に従わせました。父の責任はとても大きいです。なぜなら、父が間違ったら、家族全員が間違うからです。リーダーである父の間違いが与える影響がなんと大きく、長く続くことか。それが、三代、四代にまで及ぼし、の意味です。

リーダーの考え、価値観は、グループ全体に影響を及ぼします。リーダーが狂ったら、三代四代にまで、その影響が及ぶのです。イルカは自殺のような行為をすることがあります。群れがリーダーについていくのですが、間違って陸に上がってしまうために、群れ全体が陸に打ち上げられて死んでしまうのです。

反対に、リーダーが神と共に歩むなら、その恵みは千代にまで及ぶというのです。リーダーが導いたように、群れが導かれます。そうだとしたら、第3戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」は、リーダーが勝手な方向へ行かないようにという教えです。イエスは、「先生と呼ばれる人は裁きが大きい」といわれました。

みだりに唱えるとは、神について、簡単に言ってしまうことがないようにという意味です。あまりにも神の御心について簡単に断定してしまうことは、とても危ないことです。だからこそ、第4戒では、安息日を守って礼拝を捧げ、その歩みが狂わないようにと主が教えておられるのです。

安息日については、新約の世界に生きる私達にはこの限りではないと理解することが出来ます。なぜなら、イエスが来られてからは、聖なる日と聖でない日という区別が無くなったからです。パウロは、全てが聖いといいました。食物規定が無くなったのです。イエスは聖と俗を打ち壊されました。しかし、日曜に礼拝が捧げられないなら、どこかで代わりに神の言葉を聞きましょう。それが第1戒からの積み上げだからです。

5戒以降は、殺すな、偽証を立てるな、欲しがるな・・・と続きますが、これは、「殺さなくてもすみますよ」「偽証たてる必要がなくなりますよ」「欲しがることもなくなりますよ」というニュアンスで語られています。

私達はそれぞれ固有の生き方をしています。それぞれが主にあって、積み重ねていくなら、父母を敬わないということはありえなくなります。昔から、両親を敬うというのは難しいことでした。もし出来たとしたら、どんなに素敵な家族でしょう。しかし、土台から一つ一つ積み上げていく中で、それは出来ていくのです。これは主の約束です。「~しろ」と上から言っているのではなく、「それが出来るようになります」という約束なのです。

姦淫することも、盗むことも、することがなくなりますという、主の約束です。少しずつ変えられていくのです。ユダヤ人が40年かかって訓練されたように。十戒が私達に与える影響を、日々の信仰生活の中で見ていきたいと願います。

多少の修行も、少しは意味があるかもしれません。しかし一番大事なのは、神がどれだけ私達を愛しているかを知ることです。人生は、一朝一夕にコロっと変わるわけではありませんが、いつの日か、本当に良かったと思える日が来ます。それを楽しみにしつつ歩んでいきたいと願います。


十戒を守る(出エジプト15)

第15回目 出エジプト記20章1~12節(2009年6月14日)

「十戒を守る」

***神はこれらの言葉を仰せられた。(1)わたしの他に神々があってはならない。(2)自分のために偶像を造ってはならない。(3)主の御名をみだりに唱えてはならない。(4)安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。(5)あなたの父と母を敬え。…続… ***


十戒として大変有名な箇所です。キリスト教の三要文(さんようもん)として、十戒、使徒信条そして主の祈りの3つは、伝統的教会においてはとても大切にされてきました。改革派の教会では、これらを全て暗唱しているそうです。十戒、これは、知識として大事なだけではなく、私達の人生に大きく係る事柄です。

20章の3節が、第1戒。4~6節「偶像を造ってはならない」が第2戒、7節「みだりに唱えてはならない」が第3戒、8~11節「安息日について」が第4戒、12節「父と母を敬え」が第5戒、引き続いて13節が6戒、14節が7戒、15節が8戒、16節が9戒、17節が10戒、とするのが一般的ですが、十戒ではなく、全部で十二戒とする教会もあるようです。これは聖書のどこで区切るかの解釈の違いです。

4戒までは、神に対しての事がらで、それ以降は、人間同士の事がらです。絵画などでは、十戒は2枚の板に書きしるされ、一枚に1~4戒まで、もう一枚に5~10戒が載せられています。しかし、この分け方も教会によって違う場合があり、ローマ教会(カトリック)などは、1-3、4-10で分けています。ロシア正教会などもそのようです。

十戒といいますが、本来なら、「10の言葉」と訳すべきものです。これは「戒め」ではありません。戒めというと、これらを守らないなら神から罰せられ、呪われるのでは?と思ってしまいます。

今日の箇所では、第5戒「父母を敬え」までを入れました。これらは、強制的な戒めでしょうか、それとも自発的であることを主は求めておられるのでしょうか。20章3節には、「他の神々があってはならない」とありますが、罰則規定はありません。4節には、「偶像を造ってはならない」とあり、ここにはいろんな説明がついています。偶像とは、魚や木を神として拝むことですが、「わたしはねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・」とあります。厳しい処罰が待っているかのようです。ということは、これは、強制的なものなのでしょうか。であれば、あまりにもおぞましい戒めです。

この後、律法が出来上がって来ますが、この十戒は特に重要なものでした。契約の箱に入れられ、モーセがそれを持って歩きました。申命記にも再び出てきます。さて、これが、今の私達にとっては、どういう意味を成すのでしょう。

19世紀まで、出エジプトは「モーセが書いた書ではない」と言われた時もありました。創・出・レビ・民・申命記といわれる、旧約聖書の最初の部分は、モーセ五書と呼ばれ、モーセが書いたと今ではされています。しかし、預言者以降(BC200年位)に書かれたのではないかと言われた時期があったのです。このように緒論あること自体が、聖書を認めているといえます。

十戒とは、神に対するあなたの態度を指し示しています。社会的なことは出てきません。自分と神、自分と家族、自分と周りの人、という対象です。預言者の時代には、イスラエルという国を意識しているため、社会性が色濃く出てきます。そのため、やはり、預言者の時代よりもかなり昔に書かれたものではないかと思われます。

神は、ユダヤ人たちを訓練しようとするとき、いきなり上級者コースを与えられませんでした。まず与えられたのは、「計画」です。ユダヤ人を基にして、世界に広がっていく。それは、神の作戦であり、戦略でした。漸進的であり、少しずつ登っていきます。頂上はイエスです。頂きに登れば、全部見渡せて理解できるのです。少しずつ成長させ、前進させる。その中で、見えないところもあると分かりながら、前進していくのです。

20章2節、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」「主である」という、この言葉が中心になっています。ユダヤ人にとって、「私を解放した主」がテーマでした。よく分からないけれど、従ってみるという姿勢。これは、強制でもなければ、自発的ともいえない、中間くらいのもので、どちらも含んでいます。「信頼すると決めたのだから、主の語られることを受け止めてやってみます」というのが、信仰のスタンスと言えるでしょう。

3戒として、「主の御名をみだりに唱えてはならない」「罰せずにはおかない」とあります。英語の表現として、「畜生!」というような意味で、「OhMyGod!」「JesusChrist!」など叫ぶ場合があります。これらは、主の御名を軽くしているといえます。そして、こういったことが、やがて私達の生活を滅茶苦茶にしていきます。私達は、気をつけなければなりません。自分がやること、言う言葉が、神の御名を傷つけていないかどうか。

安息日厳守、というのは、たしかにこの時代、強制的であり、罰則の感覚がありました。安息日に焚き木を集めていて殺された、というような記述も聖書にあります。それは、この訓練の時期には、必要なことだったからです。

礼拝とは、とても厳粛なことです。私達を造られた方を礼拝するのですから。それが、内側から出てくるかどうかが問われています。遅刻していいのか、休んでいいのか、献金をけちっていいのか・・・それは、神とはどういう方で、その方に対してどうあるべきかという私達の姿勢です。それが、心の内から湧き上がっているかどうか、それが私達の人生を変えます。

民族紛争の戦時下、自分を守るために邪魔な民族を皆殺しにするということが繰り広げられる毎日を過ごしていると、子供たちは死体を見慣れているため、とても楽に殺人が出来るようになっていきます。私達には、それはある種の訓練を受けなければ、とても出来ないことです。神を本気で畏れるということも、培っていかなければ出来ないことです。

神のなさることに対応できなくなる時もあります。それが神の愛であり、訓練であっても、それに気付けない。信仰から離れ、試練を乗り越えることを諦めることも。しかし、神を私達がどう捉えるかで変わります。あらゆる瞬間に、それを味わうことをしなければ、私達の信仰生活は豊かにならないのです。

十戒は、社会性というよりも、私達の信仰の土台としておかれています。何よりも、神を第一にしたいということで教会が一致したいと願います。午前中の礼拝にどうしても出席できないという場合は、牧師が対応します。どこかで時間ないですか、と相談してください。共に、神の大きさを理解して歩んでいきましょう。共に、神を畏怖することを学んでいきたいと思います。


2009年7月4日土曜日

神を畏れる者として(出エジプト14)

第14回 出エジプト記19章1~25節(2009年6月7日)

「神を畏れる者として」

***イスラエル人はシナイの荒野に入り、宿営した。主は山からモーセを呼んで仰せられた。「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の中でわたしの宝となる。」「三日目、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来られる。山に触れる者は誰でも必ず殺される。」***


19章は一つの区切りとなっています。出エジプト記18章までと19章以降は、契約が違ってくるからです。19章では、今までにないような厳しい言葉が並んでいます。「神が降りてくる。山に触ってはいけない。」民は主をその目で見たいと思ってぞろぞろ歩いていこうとします。しかし主は、それはダメだと厳しく言われます。

新約聖書と違って、旧約ではいろいろと厳しいことが書かれています。山に触れる者は誰でも殺されなければならない、などと書いてあると、神は愛だと思っていたのに、一体どういう方なのか?と思うかもしれません。

19章以降は、「シナイ契約」と呼ばれる契約について書かれています。20章は、あの有名な「十戒」についてですが、これは本来「10の言葉」という意味であり、戒めという発想はもともと無いのです。創世記・出エジプト・レビ記・民数記・申命記の5つは、モーセ五書と呼ばれ、モーセが殆ど書いたものです。出エジプト20章から申命記全般を通して、シナイ契約について細かいことが書かれています。

では、その他の契約とは何でしょうか。アブラハムに与えられた契約をアブラハム契約、ノアに与えられたのはノア契約、同じように、ダビデ契約、と呼ばれる様々な契約があります。アブラハムは、突然神が現れ、「わたしの示す地へ行け」といわれて旅に出るわけですが、それは、何か彼が良いことをしたとかいうわけではなく、突然選ばれてそうなったのです。神はいつも一方的に選びをされます。そのような、一方的な、神から人々へ与えられる恵みがアブラハム契約でした。

シナイ契約の始まりである19章5節には、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。」とあります。何かしたら、これをしてあげる、というような書き方で、これはまるで、人の側の責任も問いつつ選びをするよ、というような、まるで選びは条件つきなのだという感じを受けます。

ずっと後にはエレミヤ契約というものも出てきますが、聖書は契約のことばかり書かれていて、まるで法律の勉強のようです。以前学んだように、片務契約といって、ただ一方的に選ばれ、恵みを受けるというのはアブラハム契約でした。シナイ契約からは、双務契約に変更されたのでしょうか。いいえ、実はこれも片務契約です。

ここまで人類を導き、出エジプトを導くにあたって、ここまで民を愛していると主は示しておられます。その上で、主に従うかどうかは、あなたが決めてよいと言われているのです。「いや、私は結構」という人も中にはいるでしょう。しかし、その上で、今度は自分が主を一方的に愛するかどうかを学ぶ期間に入ったということです。主は、私たちの成長の段階をふんで、契約を与えられるのです。

私たちの人生もそうです。何かのきっかけで聖書に、そしてキリストに出会います。それはアブラハム契約であり、一方的な主の恵みです。そして人生を歩む中で、ふと振り返る時に、神はこんなにも私を愛し導いてくださった、さらに主と共に歩んでいきたいと「決断」し、洗礼を受けるということがあります。契約には順序があるのです。双方の片務契約だと学びましたが、神の方が先に私たちを愛して下さいました。それを見て、今度は私たちが一方的に神を愛するかどうか。それが救いの完成へと繋がっていきます。実際、それを拒絶する人は多いのです。イエスが、招かれる人は多いが、救われる人は少ないといわれた通りです。

ルカの福音書で、イエスが語られた種まきのたとえがあります。1番目の種は、道端に落ちました。踏み固められた硬い土地では、種は根も芽も生やすことは出来ません。2番目は、岩地に落ちました。少しくらいは成長しますが、すぐにダメになります。3番目は、イバラの中に落ちました。イバラとは、この世的な発想であり、享楽などを意味しています。4番目は、良い地に落ち、何百倍、何千倍の実を結んだとあります。神は一方的に与えてくださるのですが、私たちがどのように受け止めるかが問題なのです。

神へどのように応答するか。神はとてつもなく大きな恵みを与えて下さっています。何よりもまず、神を畏れるということが大事です。イエスは、私たちを友、兄弟、と呼んでくださいました。そのように下へと降りてくださいました。しかし、イエスは神です。私たち人間の世界でも、師に対して尊敬したり、畏敬の念を持つということは大切なことです。

第1コリント7章7節で、パウロはこのように言っています。「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに生き方があります」私たちは、それぞれ与えられた賜物の中で生きています。だからバラバラの生き方です。それは、それぞれに役割があるということです。人間同士でも、先生を尊敬するという礼儀は大事です。まして神に対しては、どれほど私たちは畏れなければならないでしょうか。神を信じて生きるとは、神の領域に入ってはいけないということです。それは、「私たちが死ぬといけないから」と、一方的に神が命じているのです。

私たちがここにあるのは、神の一方的な愛によります。どんなに愛されているかを日々発見します。信仰生活を振り返るとき、人生のどんな場面、どんな細かいところにも、確かに神はそこにおられたと発見するのです。神は、私たちを造られた方であり、全てを知っておられます。神に対して畏れをもっていなければ、神のいうことを聞くということは出来ません。畏れるということなしに、神の言葉は分からないのです。いいかげんに扱ってしまいます。

「ユダヤ人と日本人」という本を書いたイザヤ・ベンダサンという人がいます。ヨーロッパのキリスト教は父性的であり厳しさがあるが、日本に入ってきたとたんに母性的になり、優しくなると彼は書いています。何もかも赦すという教育は子供をダメにするように、厳しさは必要です。神は厳しい方なのです。

これは、私たちの生活に直接関係します。全てを善意で受け止める訓練をさせられます。様々に起こってくることに対して、神が何か意図していることだと考えつづけていく訓練です。それは、人間関係にも適用出来ます。人間同士の全ての事柄を善意に解釈などしたら、裏切られるのではないかと心配になるかもしれません。しかし第1コリント6章7節でパウロは、「そもそも互いに訴えあうことがすでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」と語ります。むしろ、だまされちゃえと聖書は語っているのです。

人間不信になり、こんちくしょう!と問題になる。しかし、聖書は「だまされなさい」といいます。善意で解釈しようという姿勢が大事なのです。相手のことを神に祈りつつ、善意で解釈していきましょう。もちろん、何でも言いなりになっていなさいということではありません。聖書には、「保証人にならない方がいい」とも書いてあります。

神を畏れるということから、神の方法を学び、また人間関係を善で解釈しつづけるということ、その上でもし騙されるということがあるなら、神がそこにも御手を置いてくださることを信じて歩んで行きましょう。それをしないなら、人間関係は崩壊していきます。シナイ契約は、善意で解釈するということを教えてくれます。悪いと思ったらごめんと言う、ごめんと言われたら必ず赦す、ということを、私達の教会のモットーとしたいと思います。


2009年7月2日木曜日

立つべき場所に(出エジプト13)

第13回 出エジプト記18章1~27節(2009年5月24日)

「立つべき場所に」


***モーセのしゅうとイテロがやってきた。モーセが、イスラエルのために神がなさった全てのことを話し、イテロは喜んだ。翌日、朝から夕方までさばきのためにやってくる大勢の民をみてイテロはモーセに助言をした。民の中から誠実な人を見つけ、リーダーとするように、そして、小さい事件は彼らが裁き、大きい事件のみをモーセが裁くようにと。モーセはしゅうとの言われたとおりにした。***


モーセには、チッポラという妻がおり、今日出てくるイテロは、その父です。モーセはミデヤンに家族をおいて、1人でエジプトに行きました。それが命がけの仕事になるとわかっていたからです。出エジプトから数ヶ月たち、旅の群れはミデヤン近くを通ったため、イテロが娘チッポラや孫たちを連れてモーセに会いに来て、語らいの時をもったのでした。神がイスラエルを守るために、海を分けられたこと、苦い水が甘くなったこと、岩をたたいたら水が出たことなど・・・イテロはさぞかし驚き、また喜んだことでしょう。

18章のテーマは、13節以降です。250万という群集、それは名古屋市全体の人口にも相当しますが、それだけの人々が出エジプトの旅を共にしています。モーセはそこで「裁きの座」についていたとありますが、これは、カウンセリングのようなことをしていたのです。また、刑事、民事の両方において裁きをしていました。

14節、イテロは、「なぜこんなことをしているのか」と言います。20節では、「あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい」と語ります。これは、教会の礼拝、また、説教と同じで、みことばから学びつづけることが大事だということです。どう生きたらいいかを民に教えよというのです。

17節、しかし、あなたが全てを裁くのは「良くない」と語ります。別の方法があるよ、と。千人の長、百人の長、50人の長、10人の長、つまりリーダーをたてよといいます。これは、行政を指しています。市、件、国、それぞれリーダーを立てるのはとても合理的です。聖書には、現在の行政や法律に通ずることが書かれているのです。

モーセは、イテロに言われるまで、何故このようにしていたのでしょうか。牧師として分かる気がします。自分がやらないとダメだと思ってしまうのです。自分で全てをやらないと治まらないと。人に任せるには、信頼することが必要ですが、それが難しい。そういうことが強くなっていくと、独裁主義に陥っていきます。ヒトラーは、誰をも信頼することが出来ず、どんな細かいことでも報告させたといいます。

人に任せず、自分で全てをやる方が、楽だという面があるのです。しかしそれは、いつか破綻します。モーセはここで、自分の使命は何かと教えられました。私たちは目の前にあることを片付けたいと思います。しかし、どこへ向かうためにそれをするかを分かっていなければ意味がありません。約束の地に人々を連れていくことがモーセの使命でした。しかし、現状の彼は、目の前のことに追われていたのです。

あなたの使命は何かを考えること。それは、一番大切なことは何か?を問われているということです。結婚カウンセリングで、結婚の決心がつかないという女性に出会ったことがあります。彼の言動を見ていると、自分と結婚したいのかが分からないと。しかし大事なことは、「自分はどう思うのか」です。

一番大事なこと、それをモーセは問われました。それは、民を連れていくこと、それを通して民が神を見、知っていく、分かっていくことでした。そして、モーセのえらいところは、しゅうとの言うことをすぐさま聞き入れたことです。

出エジプトは人生の旅と同じです。神を見るために仕事が与えられており、人生も与えられています。せっかく旅をしているのだから、その中で神の恵みを発見していけた方がいいに決まっています。私は実は、新婚旅行のことを何も覚えていません。運転するので精一杯だったからです。これはとてももったいないことです。運転しながらも、景色を味わうことが出来たら良かったのですが。同じことで、神を知るために仕事は与えられているのです。仕事そのものは、目的ではありません。家族すら、そうです。家族を通して、神を知らせていただくのです。

モーセは大切なことを忘れていました。民もそうです。モーセにただ付いてきただけの彼らは、いつも不平不満で満ち、神を分からないでいました。奇跡を見ても、すぐ忘れ、それどころか、もっと見せろという。しかしここで、民たちは役割が与えられたのです。同時に責任も与えられました。神の業に参加をし始めたのです。そうして初めて神を見ることができるのです。私たちは人間関係において、相手のことが分かったら、これをやってあげる、と考えます。しかし、本当は反対です。まず、相手のためにやってあげること、そうすれば、だんだんと相手のことが分かってくるのです。リーダーは七転八倒しながらも、神が見えてきます。奉仕をしていくなかで、新しい動きが始まり、主に出会うのです。民たちは、そのような、神をみるきっかけを与えられたのでした。

彼らは艱難の中で主を見ることができるようになります。神の働きのために業をしていくなかで、さらに見えてくるのです。私たちがどのように人生を歩むか、それを出エジプトから学ぶことができます。仕事、家族、人間関係、赦せないと思う人々との間でも、神を見ることが出来ます。私たちが立つべき場所は、「神をみるための旅人」だということなのです。


2009年5月30日土曜日

解放と自由と(出エジプト12)

第12回 出エジプト17章1~16節(2009年5月17日)

「解放と自由と」

***シンの荒野から出発した民は、旅を重ねてレフィディムで宿営した。そこには飲み水が無く、民は渇いてモーセにつぶやいた。モーセが主に叫ぶと、主はモーセが岩を打つとそこから水が出るようにされた。さてアマレクが来てイスラエルと戦った。モーセが手をあげているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になった。***



民は、「何故自分達をエジプトから連れ出したのか」と、何度もモーセにつぶやきます。エジプトにいれば、こんな長い旅に出て歩くことも無く、生きていられたのに。余計なお世話だ、自分たちは奴隷のままでよかったのだ、と言わんばかりです。

現代の教会も、外から見れば、余計なことをやっていると思われてある意味当然かもしれません。人間は自由を求めて生きています。自分の思うとおり、自由に稼いでいきたいという、資本主義はその歴史でした。一方で、社会主義とは、このままでいいのだという歴史だったといえます。神が民にされたのは、「奴隷のところから解放する」ことでした。神は、「自由にしてあげる」とは言っていません。

ところで、奴隷とは何でしょうか。それは今の社会でも存在します。共依存といって、夫のDVを受けてもついていく妻などは、夫の奴隷状態にあるといえます。また、アフリカで行われていたアパルトヘイトなど。南アフリカ共和国では、それが廃止された後、黒人が自分たちのことを白人と同じ人間だということがどうしても理解できなかったとか。それは、長い間、自分達は動物同様に扱われてきたからです。同じ人間であることを理解させるために白人のストリップを見せたということもあったそうです。

自分が奴隷であることが分からないことが問題です。何の奴隷になっているのか。共依存の夫婦の話ですが、法律的には問題がありません。なぜなら、お互い自由で、妻本人がどんなに夫からDVを受けようと、それで良いといっているのだからと、具体的には何も出来ません。そこでどうするかというと、止む無く法を犯すという手段をとります。妻を隔離してカウンセリングするのです。

問題なのは、迫害を受けていること事態ではなく、自分が奴隷状態であるということが分からないことなのです。民たちも、自分が奴隷であったことに気付いていませんでした。それに気付くために、何度も何度もこういったことが繰り返されていきます。それが第1の目的です。エジプトより今の方が苦しいかどうかは、神にとって問題ではありません。奴隷から解放することが出エジプトの目的なのです。

救いとは、恵みの全てではありません。奴隷であったことを知ること、そこからの解放が大きなことです。パウロは、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています(ローマ8:19)」といいましたが、それが罪の奴隷です。罪とは、神から離れていることです。そして神の発想が出来ない状態のことです。何を思うにしても、よく考えてみると、全て自分中心であることに気付きます。神がどう思うかは、考えることが出きるとしても、思考の半分くらいでしょうか。

細かいことを決めて、これはダメ、これは良いと、律法的に判断することも罪の奴隷です。ある教会学校の中高生担当教師が、生徒から性的な悩みを告白されたそうです。そのような場合、教師としてどのように子供を導いたらよいのかと彼は悩んでいました。どのような問題でも、苦しむことが大事といえます。どうしたら余計なものをコントロールして、神が祝福される結婚の大切なものを自分のものにしていけるか。何でも自由でいいのだというのではなく、主が共にいて、一緒に苦しんで、道を開いていってくださる、それが解放です。

私たちは、どこまでいっても自分中心の罪の奴隷であることを発見します。主はそこから解放してくださるのです。悩みは多いでしょう。だから、これからは神と一緒に悩んでいこうと決断することが大切です。礼拝はそれを学んでいく場です。民はそのようにして、いつでも文句をいいながらも、自分が奴隷であったことに気付いていくのです。私たちは、安心して、自分が罪人であると発見していきましょう。決して落ち込む必要はありません。私たちが弱いからこそ、主が導かれると分かるのですから。

後半は、アマレク人との戦いです。ヨシュアが初登場しています。モーセが手を挙げている間はイスラエルが優勢だったとあります。モーセの手が疲れて降りてこないように、アロンとフルが支えたとあります。

ここを霊的に解釈するなら、アマレクとの戦いは罪との戦いです。そして、私たちにはサポーターが与えられているということです。あなただけの戦いではないのです。手をあげつづけるなら自動的に勝つということではなく、支える人も主は与えて下さっているということです。

神の導きに従っていく歩みは、解放の人生です。それは自分のやりたいようにやるということではありません。神に従う歩みこそ、もっとも美しく、また強いところを歩いていくことができます。解放された人生とは、生き生きと生きられ、生まれてよかったと実感できる人生です。イエスは私たちを招かれるときに、共にくびきを背負うと言われました(マタイ11章)。解放された人生を、兄弟姉妹と共に生き生きと歩んでいきたいと願います。



2009年5月18日月曜日

神の試み(出エジプト11)

第11回 出エジプト16章1~36節(2009年5月10日)

「神の試み」

***エリムを出発した民は、シンの荒野に向かった。彼らはモーセとアロンに不平を述べ立て、「エジプトで死んだ方がましだった。あの時は肉やパンを腹いっぱい食べられたのに、ここで飢え死にしなければいけないとは。」と言った。夕方になると、うずらがとんできて、朝には宿営の周りに露が降り、それが渇くと薄くて壊れやすいものが残った。それは主が彼らのために食物として与えられたパンで、マナと呼ばれた。主は民に命じて、必要な分のみ毎日それぞれが集め、6日目だけは7日目の安息日のために二日分集めるように言った。主の命に従わずに余分に集めたマナは翌日には虫がつき、臭くなった。***


シンの荒野へと向かった民。出発してから1ヶ月ほどたっています。疲れきってへとへとだったことでしょう。なにしろ、250万人という大群衆です。昼は雲の柱、夜は火の柱でもって主が導かれ、その後をついていったのですが、そのような異常事態、奇跡的状況の中を、ただひたすら歩いていきました。

1ヶ月前に、海が分かれる奇跡も目撃した彼らです。しかし、ここでもまた、リーダーにつぶやいています。エジプトで死んだ方がましだったとさえ言います。何しろ、この旅はこの先40年続くことになります。40年かけた引越しですから、ストレスがたまるのも当然です。

ある程度、この辺りの地理を把握していた彼らは、主の導きに対して、どうしてこんな場所を通らなければいけないのかと不安になり、そして不信仰になっていきます。神が何といおうと、自分はもうこれ以上行きたくない。エジプトに帰りたい、と。

私たちは、自分の人生には選択権があると感じて生きています。しかし、聖書を読み始めてみると、神が一番良い道を備えて下さるのだと分かるようになります。神を信じないのであれば、今の人生ではない、違う生き方があるのかも、と思っても当然かもしれません。

神は、彼らに食事を与えました。4節、「試す」とありますが、これは大事なことです。人生に試みが無ければ大変つまらないものになります。試験がなかったら、何も勉強しようとしないでしょうし、ノルマや責任があるからこそ、チャレンジしようという意欲が湧くものです。日々のいろんな問題は試みと理解することができます。才能が無いから苦労するのだと思うでしょうか?全く違います。「試みる」と神が言ったのです。それは、私たちが成長するために必要なことでした。

食べ物が無い!と民が不満をぶちまけたときに、主はウズラとマナを与えられました。この辺りの海岸には、ウズラの集団がよくやってくるのだそうです。そしてその肉は、250万人の腹を満たしました。これは神の業です。自然界の法則を用いつつ、神の力でそれをなさるのです。

私たちは、人生を諦めないことです。自分の、この小さな力で、一体何が出来るのかと思うかもしれませんが、今やっていることを止めない方がいいです。なぜなら、それは絶対できるようになるからです。以前、マルコの福音書で、5000人の給食の話を聞きました。男だけで5000人ですから、女性や子供含めて1万数千人はいたでしょう。たった5つのパンと2匹の魚をもって、イエスは彼らを満たしました。最初にイエスは、「持っているのは何か」と問われ、それをされました。主は、それを何億倍にもされる方です。

私は、これがやりたい。これを持っている。その時に、主よ、あなたを信じてやってみます、と歩み始めるときに、そのような人生が送れるのです。私たちは、全てのことを自分の力だけでやろうとします。そしてそれがダメなら、自分の才能が無いからだと落ち込みますが、本当はそうではありません。ユダヤの民は、このようにして訓練させられていきました。主がおられる、主が守ってくださるということを知るための徹底的な訓練です。

1日分のマナだけ集めよ、と主は言われました。6日目には、次の日の分もとってよいとされました。しかし、多く集めて残しておくと、それは腐ったとあります。その日その日の分を与えられて、その日を生きるということです。明日のことは、全て主に委ねるのです。もちろん、貯金することは大事なことではあります。しかし、人生そのものについて考えるときに、明日について確実な約束はありません。病気か、事故か、生死さえ明日については分かりません。貯金は悪くありませんが、それだけでは、人生そのものが大丈夫ということにはならないのです。神に頼るという訓練、「神が私たちを養う」ということを心においておくということです。

7日目は安息日で、働かなくても良い日です。1週間に一度休もうというのは、ここが始まりです。十戒、シナイ契約の原形です。週に一回は仕事を離れ、神を思い、全てのことをおいておく日とするということです。神は、民に実際にそれをさせて覚えさせています。ある医者の論文によれば、7日に1日休むことが、体には一番良いとのことです。昔日本では、30日に1日、良くても10日で1回、あるいは休みなど無いということもあったのです。西暦が入ってきてから日曜休みが定着するようになりました。それは体に良いということもありますが、もう一つの大事な目的は、「神を覚えるため」です。

この日、と決めておくことは大事です。そうでなければ忘れてしまうからです。この日に母に会いに行くのだと決めておかないことには、自分は、あれほど私を愛してくれた大切な母に会いに行くことを忘れてしまいます。人間とはそういうものです。1週間に1回、神に出会い、忘れないでいこうということ、それをここでは主ご自身が教えているのです。

13節、各自食べる分だけ集めるようにとあります。人間は、備蓄に安心します。他の動物は備蓄をすることはありません。今の分だけ食べます。それは、人間が罪人だからといえます。自分の力だけに頼ろうとするがゆえです。私たちが健全であるなら、すなわち、礼拝を大切にしていくなら、人生はそれだけで変わります。今は分からないかもしれませんが、礼拝にとにかく来てみることです。最初は分からなくても、そのうちに、それがどれだけ深いものかが分かってきます。

ユダヤ人は、現代においても、とても強い民族です。その能力を生かし、様々な分野で大変活躍しています。歴史的には、迫害を何度も受けてきましたが、しかし強いのです。それは、1週間に1度、神から頂く恵みの時をもつという決断をしているからです。神は、祝福を私たちが受けるために、私たちを訓練してくださいます。

礼拝では、寝てしまうかもしれません。それでもOKです。ここに呼ばれたこと、主に心を向けていることが大切なのです。その中で祝福を受けていきます。「集まることをやめないで」と聖書にはありますから、ここから、始まるのです。

33節、モーセは1オメルのマナを保存しました。それは、後世に伝えるためでした。子供たちに私たちの宝を伝えます。その宝とは、「生き方」といえます。心理学でこんな実験があるそうです。何万人と働くようなある大きな仕事場で、1人の人が抜けるとどんな影響があるのか調べたのです。私たちは、自分1人くらい抜けても何も変わらないと思っています。ところが、何万分かの1であるその人が抜けただけで、全てに影響があり、全体が変わっていくというのです。1人が変わったら、全てが変わっていきます。その影響は大きいのです。次の代に、そのような「生き方」を伝えていくなら、どんなに世の中が変わっていくでしょうか。

「神の試み」すぐには、よく分からないかもしれません。しかし、やってみることです。ユダヤ人は、それを何千年と続けています。この1時間で、何かが変わっていくはずです。



2009年5月17日日曜日

契約が与えられて生きる(出エジプト10)

第10回 出エジプト記 15章22~27節(2009年5月3日)

「契約が与えられて生きる」

***葦の海から旅立った民は、荒れ野を三日間進んだが、水が無かった。マラに着いたがそこの水は苦くて飲むことが出来ず、民は「何を飲んだらいいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水は甘くなった。***


民はマラという場所にやってきました。そこでは、水が苦くて不平を言ったとあります。つい先日まで、神の素晴らしい業を目の当たりにした民です。海が分かれて、渇いた地を歩くという、信じられないようなことを経験したのです。自分達は助けられ、エジプト軍は海の藻屑と消えていきました。この経験を通して、神によって守られるということを分かったはずの民でした。

しかし、現実にぶつかりました。水が無いのです。マラ、また葦の海の辺りは、湿地や川の水は飲むことの出来ない悪いものだったようです。生きていくために大切な水がないという現実。民は絶望しました。神様によって導かれているなら、とんとん拍子に上手く事が行っても良さそうなものなのに。今までは上手く行きました。だからこれからも上手くいくというのが大前提になっていたのです。

24節、民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った、とありますが、これには「どうしてくれるんだ」という強い意味があります。そこでモーセが主に叫ぶと、主はある木を示されたとあります。フロリダやペルーには、水を浄化する植物が実際にあるそうです。備長炭などもそうですね。その木を水に沈めると、水が甘くなったというのです。

水が無いということは、確かに死を意味するでしょう。しかし、砂や石を使って水を浄化する方法があるということは、この当時既に知られていました。なのに、彼らはパニックになってしまったのです。今の、豚インフルエンザについてもそうです。そのことしか見えず、他の角度で見ることが出来なくなってしまうのです。神の契約を疑うようになります。「本当に守ってくれるのか?」といいたくなってしまうのです。

25節、神は、もう一度契約を民と結びます。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」 何かをしないと罰を与える、というものではありません。この契約は、一方的に祝福を与えるというものです。

人同士の契約には、種類があります。一つは双務契約。お互いが義務を負う、Give&Takeの関係です。もう一つは、片務契約といい、片方が一方的に義務を持つものです。相続などがそれで、相続させる方のみその義務を持っています。神の契約とは、この片務契約です。しかし私たちは、契約といわれると全て双務契約と考えてしまいます。

結婚を含め、人間関係を全てGive&Takeで考えます。人間同士の契約としては、そういうものになってしまうと思います。しかし、聖書的に言うなら、夫婦は片務契約なのです。片方が一方的に義務を持ちます。夫婦だけでなく、親子関係もそうです。双方の、片務契約です。何かをやったからではなく、~であっても愛する、というお互いの片務j契約で成り立つものなのです。

双務契約で人間関係を捉えるとき、ダメになっていきます。この時、民たちは信仰をそのように考えていたのではないでしょうか。神が自分達のために働いてくれるのは当たり前だという発想だったのかもしれません。しかし、あなたがどんなものであれ、愛し、助ける。正しい道をわたしは示す、だから諦めるな、と神は言われるのです。

一方で、私たちは、神が何をなさろうと、愛するということです。神の導きに、一方的に身をおくのです。そして、神も、私たちがどうあろうとも愛してくださいます。片務契約で関係を捉えることが、最大の平和、最大の愛です。全ての人間関係において、何かをしたから、やってもらって当たり前という考え方は、神の示す愛ではありません。

27節、エリム(安らぎの地)につきました。そこには12の泉があったとありますが、12とは完全数で、本当の平安を意味しています。神の契約は、一方的な愛です。私たちがどのような問題があろうとも、愛して下さる神を信頼するとき、平安に歩んでいくことができるのです。


2009年4月23日木曜日

主の喜ばれることを(出エジプト9)

第9回 出エジプト記15章1~21節(2009年3月8日)

「主の喜ばれることを」

***モーセとイスラエル人は主に向かってこの歌を歌った。アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手にとり、女達もタンバリンを持って踊りながら彼女について出てきた。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」***


ミリアムとは、モーセの姉です。ここは、出エジプトの中ではとても詞的であり美しい箇所といえます。とんでもないと思えるような神の業を目の当たりにし、溢れんばかりの感動に満たされている様子が伝わってきます。しかし、出エジプト全体から見るなら、この直後にイスラエルは神に対して文句を言いつづけるという現実があります。

イスラエルの何が問題だったのか?それを考えるのはいいことかもしれませんが、むしろ私たちはそれをどう捉えるべきかを考えていきたいと思います。

葦の海とは「紅海」のことです。エジプト軍から逃れたイスラエル人たちが、紅海の渇いた地面を渡り、岸辺に上がったと同時に海の水が戻って、多くのエジプト人が死に絶えました。それを確認の意味でもう一度記述しながら即興の歌を歌っています。タンバリンをもって、踊りながら、大変な喜びを見せています。助けられたこと、救われたことが土台であり、その中心は「神は偉大」という言葉です。

ある学者は、この箇所を1~6節、7~11節、12~16節の3つに分け、17,18節はエピローグだと主張します。それぞれ特徴があるからです。1つ1つに比喩やテーマが見えます。1つ目は、パロに対する神の圧倒的な力、優位性、強さです。2つ目は、自然や敵に対する支配性、そして3つ目は主の御手の大きさと聖なる方であること。統一しているのは、神はなんと偉大で、自然やあらゆる問題を支配し、聖い方であるかということです。それは、日本人の持ってきた信仰感とは違います。

日本人は、「問題が良きに変えられますように」と願い、その問題が解決した時には「ああ良かった」となり、どんな場合も中心にあるのは自分です。罪とは自己中心のことを指しますが、アダムとエバが善悪の実を食べた結果です。自分にとって都合がいいかどうかがテーマなのです。

出エジプト記に見るようなユダヤ人のリーダーたちにしても、新約聖書のリーダーたちにしても、どんな祈りを捧げているかを見るときに分かります。彼らはいつも、「神は偉大な方、全知全能」というところに持っていくのです。神が全能であるから、全てを解決してくれると理解してよいでしょう。

身の上に起きた事柄について、いいことであるなら「万歳」、悪いことなら「神は一体何をしているのか」となるのが日本人ではないでしょうか。今ある現状について、良いか悪いかではなく、ここに働く神の力を見ようとすること。それが今日のところに出てくるのです。

民はこれから成長していきます。この賛歌は神によって与えられ、神が語らせて下さいました。それは、単なる「助かって良かった」ということではなく、「神はなんと素晴らしい方なのか」というところです。

16節、「買いとられた」とは「贖われた」の意味です。贖(あがな)いとは、契約に基づく行為です。神が約束に基づいて、それに従い、民を買いとられたのです。それは奴隷から救い出すという意味であり、また、神のものとしたからにはずっと大事にするよという意味もあります。

ここで突然出てきたような話ではありません。長い歴史の中、アブラハムの頃より神と人間との契約があり、それは更新されてきたのです。「必ずあなたを救う」と。神の単なる気まぐれではなく、約束に基づいて成されたことでした。

3節、「主はいくさびと」とあります。これは神の戦いでした。詩篇など旧約聖書のいたるところに、万軍の主という表現が出てきます。神を「軍隊」としてとらえるのです。神は戦って下さっています。それは、私たちを取り戻すために。

私たちは神とつきあっているのです。結婚カウンセリングをするとき、お互いのどこが好きなのかという話になりますが、お互いのことなど何年つきあっても本当には分からないものです。しかし、つきあううちにどんどん分かっていきます。結婚は、全部分かった上でするものではありません。夫婦になって、少しずつ分かっていくのです。

神は、私たちを選び、奴隷状態から救い出された、そういうことを学ぶのです。イスラエルも少しずつ理解していきました。私たちは、相手がいい人か嫌な人かで決めて遮断してしまいます。どういうつきあいをしたらいいか分からないのが人間関係でも、相手がどういう人か理解していくことが大事です。

助かった、万歳!だけではなく、この方がどういう方なのか、その側面が見えたということ。そしてここから、いろんな試練が始まって行きます。その都度、神がどういう方か更に分かっていくのです。

もう一つの側面は、私たち自身が神の戦いに参加していけるということです。神の戦いであるということは、自分が中心ではありません。「あなたの人生をわたしが戦う」と神が言われるのです。それに私たちが参加するのです。神が困難も喜びも成し遂げられます。人間関係はある意味戦いです。しかしそれも神が成し遂げてくださるのです。

この世では、おまえが自分で考えて何とかしろと言われます。しかし神の戦いなのですから、人生の主役は神です。人間関係に悩むとき、どうして聖書の言葉を守れないのか、だから上手く行かないと思うことがあるかもしれません、しかし本質は、どうやったらそれを守れるかではなく、どうしたら主が喜ばれるかです。

「律法が守れない」と相手や自分を裁きます。それは、皆さんが主役になっているからです。自分を疎外する相手をなぜ?と思い、裁きます。しかし神が主役であるなら、その主役を喜ばせるために、自分は何をしたら良いのかを考えられるのです。そして、裁くのではなく、探ることが出来るようになります。

律法をどう守らせるかを教えるより、それを守る喜びを教える方がいいに決まっています。その喜びを伝えることが教育です。ユダヤ人は、今日の箇所で、神は偉大であり人生の主役であることを表明しました。神は何を喜ぶかを考えること、それが私たちの人生を生き生きとさせるのです。

人生は確かに大変な重労働です。学ぶことも働くことも、生きることそのものが大変です。しかしそれは、自分が主役でなければならないと思っているからです。一歩引いて、神が主役であり、「神様、何か手伝うことがあったら行ってくださいくらい」の気持ちでいた方がいいのかもしれません。

神が成してくださる人生。また、「自分に何が出来るか」という姿勢。それがキリストの体である教会が成長するために大切なことです。キリスト者の人生は脇役に徹することです。神の脇役に徹することがどんなに素晴らしいことかということを学んで行きたいと願います。


2009年3月7日土曜日

困難は主の戦い(出エジプト8)

第8回 出エジプト記14章1~31節(2009年3月1日)

「困難は主の戦い」

***イスラエル人が逃げたことを知らされるとパロは考えを変え、軍勢を率いて彼らを追跡した。臆することなく出て行ったイスラエルだったが、エジプト軍が迫っているのを見て彼らは非常に恐れ、主に叫んだ。モーセが杖を上げ、手を海の上にさし伸ばすと、海が分かれ、海の真中の乾いた地をイスラエル人が進んでいくことが出来た。エジプト人は追いかけてきて海に入ったが、主は水がエジプト軍の上に返る様にされ、残されたものは誰もいなかった。***


とても有名な箇所です。映画「十戒」を観た人なら、その場面を思い浮かべることが出来るでしょう。解放されたばかりの奴隷たちは、どんな思いで旅の始まりを迎えたのでしょうか。「主はモーセに告げて」と、何度も出てきます。いつも主が語って下さり、モーセに告げて仰せられました。あなたの判断でやれ、とは殆ど言われませんでした。

語ってくださることをどう聞くか、が私たちの姿勢です。その中でいろいろ考えるのです。主は私たちに理由やチャレンジを与え、その中で考え、行動せよと言っているのです。

2節、主は民に引き返して、海辺で宿営せよと言われました。なぜでしょうか?3、4節、イスラエル人が道に迷っているとパロが思い、彼が民の後を追えば、パロとその全軍勢を通して主が栄光を現し、エジプトは主を知るようになる、というのです。8節、イスラエルは臆することなく出て行きました。それは、ここに至るまでに、パロに対しての神の力を繰り返し見てきたからです。エジプト全土で初子の命が取られる中でもイスラエルが救われるのを目の当たりにして、神がおられ、自分たちを導かれることを確信していました。

しかし、10節。その確信は一転、非常に恐れた、とあります。私たちも、安心して日々を送っていても、何かの拍子に急に不安に陥るということがあります。絶えずゆらゆらしており、信仰とは何かと思うでしょう。この時、そのゆれ幅は大きくゆれているように見えますが、神に向かってだんだん小さくなっていきます。もし全く揺れないとしたら、それは「洗脳」です。私たちは罪人なので、揺れるのは当たり前のことなのです。自転車のハンドルは揺らした方がいいといいます。状況にあわせながら、神を中心にして揺れている間は前に進むのです。諦めてしまったり、人間がやることが全てなのだと思うなら、倒れてしまいます。

恐れに満たされた民は、言わなくてもいいことを言ってしまいます。11節、「エジプトには墓がないのであなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか」言葉で神とリーダーであるモーセを呪っています。これは責任転嫁です。しかしこれは、まだ彼らが成長してないからなのだと理解できます。

エジプトを脱出したのは、彼ら自身が決断によるものです。それを認めなければいけません。しかし責任転嫁をする。これは成長の段階です。このような場合、神と格闘し、祈ったら良いのです。主の怒りを買うこともありますが、私たちは出エジプトのどこも非難できません。それは、この中で民が確実に成長しているからです。

12節、エジプトにいた方が良かったと民は言います。その民に向かってモーセは、あなたがたのために行われる主の救いを見よと言います。これは、1つ目の訓練です。私たちの心がざわつくとき、「恐れてはいけない」という神のことばを合言葉にしたいと思います。アブラハム、モーセ、そしてヨシュアにも主がそのように語ったではないかと思い出すのです。

2つ目は、「主があなた方のために戦われる」ということです。ダビデがゴリアテと戦ったとき、それは神の戦いだとして戦い勝利を収めました。主が守られるのです。今の困難は神が戦ってくださる戦いなのです。

3つ目、「だからだまっていなければいけない」ということです。言いたいことを言っていいのです。主は何でも聞いてくださいます。しかし、どこかで黙る訓練も必要です。「黙って待つ」ことも教えて下さいます。

エジプト軍の戦車600台。もし、60進法を用いていたとしたら60は完全数ということになり、莫大な数という意味になります。世界で最も強い軍隊であるエジプト軍が、編隊を組んで追ってきた。イスラエルは絶望しますが、それと共に神の言葉が与えられました。現実は絶望的に見え、その状態が変わることは絶対にないように見えます。しかし、神の言葉はたしかにあるのです。現実だけがあるのなら、私たちは諦めてしまうか、自暴自棄になって犯罪を犯すかでしょう。しかしそこに神の言葉があるから、迷うことが出来ます。

「なぜ叫ぶのか、前進するように言え」と主は言われ、民は海の中を進めというのです。現実は変わらない。迷う。しかし、神の方向へ進めといわれたのです。「神が栄光を現すのを見るだろう」という言葉のみがあるだけでした。そこには決断しかありませんでした。

人生は決断の連続です。バプテスマを決断するということもそうです。現実を見、神の言葉に信頼して歩んでいくとき、主の確かな守りに気付いていきます。

Wet&Dryという言葉があります。不安でどうしようもないという時は、先を見ない方がいいのです。詩篇103篇では、未来を見るより過去を見ようと言っています。過去に主が何をして下さったか、どんなに良くしてくださったかを思い返すのです。たくさんの恵みと祝福を思い出し、落ち着くことができます。

Wetとは現実の雨です。一旦家の中に入って乾かして、また出て行くのです。乾かして落ち着いて、また準備をしましょう。未来のことばかりではなく、過去のことを思い返すときに、それは私たちの力になります。

全てのことは、神の栄光が現される方向で動いていきます。迷い苦しむ中、主の良くして下さったことを思い出して、改めて出て行くとき、そこに主は栄光を現されます。25節、「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられる」エジプトはイスラエルに勝てるわけがないと知りました。その艱難は、人でしょうか、環境でしょうか。物でしょうか。何であれ、それとの戦いは、背後におられる神が戦っておられるのです。神がそこに働いたと分かるということ、それが栄光を現すの意味です。私たちは主の栄光を現すための器です。

豊田みのり教会は、この地で6年間の開拓伝道を行ってきましたが、それはもう感謝以外にない6年間でした。人々が、みのり教会を通して、神の業を見てくださったこと知る時に大きな感動を覚えます。私たちが生活していくだけで、周りの人々に神を感じてもらえるようになっていくのです。

30節、「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」どんな気持ちで民はそれを見たのでしょう。まさか、ざまあみろというような気持ちでは無かったでしょう。エジプトが神をもっと早く知っていたら、こんな失敗はしなかったろうに。私たちはこうならないようにしよう。そのように思ったのではないでしょうか。これは、ざまあみろというようなレベルの事柄ではありません。ここから私たちは、どのように主の栄光を現すかということを学んでいくのです。


主は力強く私たちを導かれる(出エジプト7)

第7回 出エジプト記13章1~22節(2009年2月22日)

「主は力強く私たちを導かれる」


***主はモーセに告げて仰せられ、モーセは民に言った。「イスラエルで生まれる初子は人であれ家畜であれ、主のために聖別せよ。」「奴隷の家であるエジプトから出てきたこの日を覚えていなさい。この月に、種を入れないパンを食べて、主が私たちにしてくださったことを覚え、後にそれを息子に説明しなさい。主が力強い御手であなたをエジプトから連れ出されたからである」***



エジプトを出る、準備の時を迎えています。私たちは、学年が新しくなったり、就職や進学、新年度を迎えるときにどんな助言が欲しいと願うでしょうか。毎朝、一日が始まる時に、一番最初に聞きたい言葉は何でしょうか。それは、「大丈夫だよ」という言葉ではないでしょうか。また、私たちは、結論を聞きたいと思うのではないでしょうか。

2節、神がモーセに告げられます。40年続く旅の最初に語られた神の言葉。それは、「あなたがたの初子を聖別せよ」ということでした。最初に生まれたものは家畜でも人の子でも、聖別、つまり捧げなさいということです。それは、「神のものとして歩んでいきましょう」ということです。

9節「主が力強い御手で、あなたがたをエジプトから連れ出されたからである」このフレーズは何回も出てきます。力強い御手が既に準備されている。だから大切なのは、その神に頼ることだということです。せっかく力強い御手があっても、それに頼らないなら全く意味がなく何にもなりません。

「初子を捧げる」とは、その表明です。神を信じる決断として、その子を見るたびに、神にこの子を捧げたと思い出すためです。神の導きを信じ、その御用のために用いてやってください、この地上において、神のため人のために仕える人としてください、ということです。

信じるという行為、それは、自分の表明をしなければなりません。その決断、表明に対して、大きな祝福と憐れみを受けるのです。一般的にも、一つの決断をしたなら、これをします、と表明します。ここでは、「捧げることを覚えよ」といわれているのです。

決して強制ではありませんが、例えば礼拝で捧げられる献金について。収入が入ったら、一番最初に献金をそこから取り分けること。初子とはそういう意味です。また、1週間のうち日曜は礼拝の日として捧げること。これも一つの決断です。それら一つ一つの決断を確認するため、この準備の時に、「初子を捧げよ」と神は仰せられたのです。それは、信じ続けるという点でとても大切なことです。

ノアの洪水が起こったとき、神は契約のしるしとして虹を示されました。虹を見るたび、主の約束を私たちが思い起こすためです。今、旅の準備をするにあたって、神を信じるためにイスラエル人たちがやるべきことを主は示されたのです。それを見るたびに思い出すためにです。今の私たちでいうなら、それは献金であり、日曜に礼拝を捧げることにあたります。

そして主は、順序を与えられました。17節、神が導かれた道すじについて書かれています。地図をみると分かりますが、カナンに向かうには通常3本の道があり、いずれもとられませんでした。川沿いか、内陸を通ってか、南へ下るか。神の示された道は全く違う道でした。それは、民がエジプトに引き返すといけないからです。海沿いには、エジプトの要塞、関所のようなものがあり、兵隊が多く駐在していました。長いこと奴隷だった彼らには、エジプトと戦う力はありません。何も教えてもらっていないからです。戦い方も、統制の知恵もありません。また精神的にも弱かったのです。

教育には時間がかかります。その成長の過程で、焦ってはなりません。信仰をもった後の自分の人生を見るときに、せっかく聖書に出会ったのに全く成長できていないではないか、と思う必要は無いのです。クリスチャンでなかったときは、奴隷状態でした。自分はダメな人間だと思い込み、そういう価値観でがんじがらめになっていたのです。今、そこから解き放たれて、自分自身を神の作品として見つめ、自分だけの人生を生きることが出来るようになったのです。「なのに、なぜ夫婦喧嘩ばかりしているのか・・・」などと思うかもしれません。しかし、まだ出始めです。ようやくこれから解放への道へと歩きだしたところです。もし劣等感がよぎったとしたら、「昔の自分はそうだった」と思えばいいのです。今からは違います。エジプトから出たのですから。

神の業が始まるとき、準備があり、順序があります。多治見にはカトリックの修道院がありますが、宣教200年計画というものがあるそうです。それくらい長い目で見ることも大切です。私たちは少しずつ成長していきます。最後に完成しますが、今の段階ではまだ見えていません。しかし、聖書の中の預言によって、それは約束されているのです。

14節、後になって子供たちに尋ねられたらこのように言え、とあります。「どうして教会に行ってたの。どうして信仰もったの」と子供たちに聞かれたら、「神は力強い御手で精神的霊的に奴隷だった私を連れだして解放したのだ」と子供たちに伝えるのです。まだ、ここでは、経験していないことです。しかし、約束されているのです。だから大丈夫、歩き続けなさいと主は言われます。それが、この恵みに与る一歩一歩になるのです。

26節、具体的な例として、雲の柱、火の柱のことが書かれています。今の私たちにとっては、教会であり、礼拝、祈りであります。小さな祈りで良いのです。これを与えて下さったと確認し、今日も使命を頂いていると確認、そして今日も守ってくださったと確認する、それが雲の柱、火の柱です。イスラエルがみことばに1つになっていったように、私たちも今日あたえられた御言葉「力強い御手で導かれた」を心に留めて歩み、将来子供たちにも伝えていきましょう。


2009年2月13日金曜日

主の与えられる裁き(出エジプト6)

第6回目 出エジプト記11章1~10節(2009年2月8日)

「主の与えられる裁き」


***ナイル川を血に、カエル、ブヨ、アブを大量発生させる、家畜の疫病・・・ここまで主は9つの災いをエジプトに対し行ってきた。あいも変わらず頑ななパロに対して最後の災いを行われる。エジプトの初子は、王の初子から家畜の初子に至るまでみな死ぬと主は仰せられた。***


10番目の災い、それは、王の子から家畜の子にいたるまで、最初に生まれたエジプト人の子供の命をとってしまうというものでした。この事件が、ユダヤ人がエジプトを出て行く分岐点となります。

9つの災いについては、エジプトの季節にあわせた順番に起こったのではないかという学者がいます。ナイルに藻が発生する季節だったのではないか、また、11月には雹が降ったということが実際にあることなどからそう言われます。主はそのようにして、自然のなりゆきを用いつつも、エジプト人に対して警告を行ったのです。

今までの災いは、モーセとアロンの杖を用いて成されました。しかし今回は違います。神ご自身が出て行って、エジプトの初子の命を絶つということをされたのです。

モーセの杖が蛇になった。しかし、エジプトの呪術師も同じことが出来ました。しかしそれは、途中までのことです。ある時点以降は、そんな不思議合戦も出来なくなって行き、エジプト人たちはだんだん追い込まれていきました。この、追い込まれていく順番にも意味があります。

アニミズムといって、岩、木、など自然のどこにも力が宿っているという概念があります。それが神とされ、いつしか神の顔が出来、人格神となっていく。その一つ一つである、カエルやブヨを断罪していったのです。これは、人間の愚かさの一つです。何か不思議なことがあると、それを神に仕立て上げ、その顔色を伺いながら生きていこうとするのです。

10番目の裁きは決定的でした。主自ら出て行ってそれをされたのです。9番目までは、警告でした。私たちは、トヨタなど企業のことを含め、今の時代の中に「警告」を読み取らなければなりません。エジプトの繁栄のさなか、奴隷であるユダヤ人たちが突然いなくなるなどということを、エジプト人たちは考えたことがあったでしょうか。突然、200万以上の奴隷達が一挙にいなくなって、一体エジプトの経済はこれからどうなるのかと思ったのではないでしょうか。

主の警告。それは既に起きており、結果は必ず出ます。つい先日、カトリック司祭の猥褻事件がありました。仏教のお坊さんもそういった事件を起こしたことがありますが、「なんだ、キリスト教も同じか」と思われるかもしれません。実際、プロテスタント教会でも、大変なことが起こっています。

日本での「弟子訓練」第一人者である、Bという韓国人宣教師がいます。現在、彼の、女性信徒への猥褻疑惑でキリスト教メディアを騒がせているという、大変情けない事件が起こっています。10年前、ある集会で彼の講演を聞きました。Bは言いました。「教会形成のためには、牧師のために死ねる信徒を作らなければならない」そのフレーズは、講演会の中で何度も出てきました。当時神学生だった私は、質疑応答の際に、「牧師のためにではなく、イエス様のために、の間違いではないでしょうか」と聞きましたが、ひどく反論され、説教をされたものです。

既に結果が出ています。ここに至るまでに、警告は何度も与えられてきたはずです。おかしいものはおかしいと気付いた人たちがいたでしょう。彼の事件は、私たちの責任でもあります。何故止められなかったのかと考えると、涙が出るほどイライラし、夜眠ることも出来ないほどです。相談できる人はいなかったのでしょうか。教会の信徒たちは皆、「B様、B様」といって、カルトを作ってしまったのです。これが、日本の教会全体にとって、どんなに負となっているか。私たちも悔い改めなければなりません。

出エジプトに戻ります。ここまで見ると、パロとモーセだけの関係のように見えますが、エジプト人とユダヤ人に対しての主からの警告であると分かります。パロは、何故それを理解できなかったのでしょう。今の経済状況も同じです。こうなるまでに、警告があったはずです。つまり、私たちの責任もあるということです。企業のために、国家のために、上司のために、私たちはもっと祈るべきでした。

神を畏れないことへの警告。悔い改めと反省は違います。悔いて涙し、神の方向を向いて戻るときに、赦されます。そしてそのチャンスはいつでも与えられているのです。パロはここで悔い改めるべきでした。

3節、エジプトの家臣たちは、この艱難の中でモーセを理解し始め、好意をもつようになっていたようです。パロのみ、聞く耳を持っていませんでした。神の言葉を聞こうと思うとき、教会や家族のことを省みて振り返るべきであることに気付きます。そして自分は、本当にそれらのことを理解していたかと省みるのです。

「何故こんなことになってしまったのか」パロにとっては最後のチャンスでした。主による断罪の中、ユダヤ人たちは約束の地へ向かって旅立ちます。一方パロたちには、絶命という悲惨な最期が待っていました。真実な悔い改めがあるなら、主は必ず赦してくださいます。前提として完全な赦しがあり、私たちがどのようにあるべきかを知ることが出来ます。

ここは、出エジプトの最大の山場です。今は隠されていても、その大きな罪はいつか必ず明るみに出され、社会をズタズタにします。しかし、主は、赦しの御手をもって、いつも待っていて下さっています。これを伝えていくことが、どんなに大切でしょうか。

イエスの十字架の意味が、出エジプトにも大きく係わっています。社会を見つめ、自分を見つめる。クリスチャンとして見つめ、個人として見つめ、悔い改めるべきことを悔い改めるなら、変わります。一人一人が変わっていき、そして、企業の上の方の人々にも伝わっていくでしょう。どんな小さなことでも食いあらめる姿勢をもって歩んでいきましょう。そうするなら、この社会が変わっていくのです。


2009年2月5日木曜日

主の守りを知らない民(出エジプト5)

第5回目 出エジプト記7章1~25節(2009年2月1日)

「主の守りを知らない民」


***主は、パロに、イスラエル人をエジプトから出て行かせるように告げるよう、モーセに仰せられた。また、パロの心をかたくなにし、しるしと不思議を多く行うとも言われた。その言葉どおり、主による様々なしるしが行われたが、パロの心はかたくなで、モーセらの言うことを聞き入れなかった。***


エジプトを脱出する前のところです。神は、モーセとアロンを用いて、パロに対してユダヤ人解放に至るための第1の災いを起こしました。(災いという言葉をここで使うのは抵抗がありますが、今日はそこには触れないでおきます)

出エジプトに至るまでに、10の災いが国を襲います。その1つめ、ナイル川が血になったというところです。これに続いてこの後に、カエル、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、雹、いなご・・・と、災いが続いて行きます。

パロ王の下でユダヤ人は奴隷の民としての扱いを受けていました。そこに、神が、民をエジプトから脱出させ、約束の地カナンへ連れて行くというのです。パロの心は揺らいだことでしょう。彼にとって、奴隷は財産です。奴隷は、エジプトの経済活動そのものを担っていました。

10節、モーセが主の言われたとおり、杖をパロと家臣たちの前に投げると、それは蛇になりました。しかし、同じことを、エジプトの呪術師たちもやってのけたために、「だから何だ」とパロは心を開きませんでした。そこで主は、ナイル川を血に変えてしまいました。本当の血だったのかという疑問もあります。赤潮だったのではないか、または赤色の藻が大発生したのでは、という説もあります。いずれにせよ、真っ赤に染まったナイル川のために大変困った状態になり、パロの心は揺らぎます。この先行われる災いに耐えかね「もうたくさんだ、出て行け」といいますが、その災難が無くなると、また頑なになるという繰り返しでした。

ところで、この場面を、現場ではなく、違う角度で見てみましょう。10の災いが起こっているとき、神の伝達訳としてモーセとアロンがパロと対峙しています。この時、民たちにフォーカスしてみたとしたらどうでしょうか。この間も、民たちは生きています。彼らの思いはどうだったのでしょう。聖書には出てこないので推測しか出来ません。民たちには全く知られないところで、モーセとアロンが死を覚悟でパロと対決していたのかもしれません。

モーセとアロンは、この時まだそんなに強くはありませんでした。パロに殺されても仕方が無い状況の中、「神がおっしゃることだから」それを告げたのです。そして民はそれをどのように見ていたでしょう。彼らの働きによってかえって自分達の苦役が増し加わり、モーセたちは民に疎まれ、あまり推挙されるということはなかったのではないでしょうか。

モーセは、パロと民の両方からプレッシャーを掛けられていました。神に従うということは、こういうことになることがあるということです。モーセは神の言葉を伝え、実現しなければなりませんでした。神は、わざわざパロの心を頑なにされました。神が直接パロの心に語りかけられたとしたらどんなに簡単に事が済んだでしょう。しかし、これはモーセたちがリーダーになっていくための訓練の一つだったのです。

キリスト者は神の言葉を聞くものです。日本でクリスチャンは1%もいません。この社会を見、立場を見、その上で、神の言葉を聞き、どう生きるかが私たちには問われています。ある時は誤解を受け、無駄に思える努力をしなければいけない時もあるでしょう。キリスト者が聖書の言葉を頂いている存在だとしたら、モーセとアロンと同じような立場にあるとはいえないでしょうか。

そして、私たちは、同時に「民」の立場でもあります。昨日と変わらない生活を今日も普通に送り、モーセとアロンが何をしているか見ていません。しかし、エジプトに対する災いは、見て体験しています。エジプト全体に様々な災いが起きているが、自分たちの生活がそうそう大きな変化があるわけではない。しかし、主の導かれる方向に確実に向かっているのです。実際、この先に民たちはエジプトを出て、40年間の旅に入っていきますが、この時点では、何も分かってはいません。

私たちは、海外でパスポートを無くしたり強盗にあうなど、何か問題が起こったときに、日本大使館に行きます。それは、「日本人」だからです。本来、日本人だからという理由だけで、日本という国によって完璧に守られているのが私たちです。民法は、人と人の関係を扱うもの。刑法は、国が私を守るもの。そして、憲法は、国から私たちを守るもの。憲法によって、日本人であれば誰でも絶対に守るという保証がされているのです。

神の恵みは、これと同じです。人間として生まれた私たちは、その時点で完全に主の恵みに浸っているのです。それが分からなくて右往左往してしまうのです。御言葉、そして教会にかけこむとき、神の完全な守りに気付きます。それはクリスチャンになる前からそうです。守られているのに気付かないだけなのです。

民は、昨日も今日も同じ生活をしていますが、モーセによって確実に準備が成されていきました。今、100年に一度の経済危機といわれ、特にこの豊田の地は、多くの方からご心配を頂いていますが、私たちのために祈って下さっている多くの方々がいることを覚えたいと思います。祈りは積み上げられています。何もないように思えるかもしれませんが、私たちは恵みの中に浸りきっているのです。大変なことが始まっていると、ユダヤ人も思ったことでしょう。その時水面下では、主の働きが始まっていたことに気付き初めていたのではないでしょうか。

皆さん一人一人には、人生のプロになっていただきたいと思います。学習曲線というお話を先日しましたが、私という人生のプロになるのです。神にある生き方を学びつつ、私にしか出来ない人生を私がやるのです。モーセとアロンによる、何度かの交渉の末に、最後にパロが「ユダヤ人出て行け」と、出エジプトをするに至りました。気の弱い、小さな存在だったモーセですが、コツコツとやりつづけたことが大きな動きへと繋がったのです。

マイナス要因しか見えないかもしれません。しかし、今やるべきことをやりつづけましょう。大失敗のように見えたとしても、すでに働いている神のご計画があることを覚えて歩んでいくなら結果も与えられます。キリストにある生き方を学び、実践して行きましょう。


2009年1月31日土曜日

総力を用いて生きる(出エジプト4)

第4回目 出エジプト記4章10節~17節(2009年1月25日)

「総力を用いて生きる」


***エジプトに戻って民を導くよう主なる神が仰せられたのに対して、モーセは自分には力がないから他の人を遣わしてくださいと言った。しかし主は、「誰が人に口をつけたのか。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」と仰せられた。***


ユダヤ人にとって、「第1の預言者」と言われるモーセ。生まれてからの40年間エジプトの最高の教育を受け、その後の40年は、野の中に逃げて羊飼いとして生活しました。今やモーセは80歳になっています。そのモーセに、主なる神が、「エジプトに戻り、ユダヤ人たちを引き上げて来なさい」と言われたのです。

モーセは答えます。10節「ああ主よ、私はことばの人ではありません。口が重く、舌が重いのです」世の中には、弁舌の巧みな人もいれば、話ベタな人もいます。モーセは後者だったのです。だから、ユダヤ人を導き出すなど出来ないというわけです。

しかしこれは、おかしな応え方ではありませんか。ユダヤ人を導き出すということを、話上手でなければ出来ないことだという前提がモーセにあるので、こういう応え方になるのでしょう。

私たちは、何か起きたときに、すぐ反応します。自分の常識の中で、物事を判断するのです。「あなたが○○が上手いから、○○の技術が必要だから、それを練習して行け」、などと主は言っていません。「連れ出せ」の一言のみです。それに対してのモーセの応答は、「自分は言葉の人ではない」でした。

主は仰せられます。11節「誰が人に口をつけたのか。誰が口を聞けなくしたり、耳を聞こえなくしたり、あるいは目をあけたり、盲目にしたりするのか。それは、このわたし、主ではないか」

主は、「大丈夫、あなたは弁舌が巧みになる」と言われたのではありません。あなたを造ったのは誰だというのか。あなた以上にあなたを知っているのは、このわたしだ。口下手というのなら、言うべきことはわたしが教える(12節)といわれたのです。

モーセは、そこに劣等感を持っていたのでしょう。そこで抗弁するのです。「だって、○○が出来ません。」「○○にいたのですから」しかし、神は言われるのです。「わたしはあなたに、最高のものとして与えたはずである」と。そして、それを「使え」とは、一言も言われなかったのです。

生きるとは、総力戦です。私たちの身体は、目だけで仕事をしませんし、足だけでもしません。身体全体を使って、全てのことをしています。偏頭痛がどのように起きるのかを愛知医大の先生に聞いたことがあります。私たちの見ているものが、歩く度に揺れているとしたら気分が悪くなりますが、その上下運動を脳がパソコンのようにプログラミングし、いつも揺れないでいられるように制御されるため、まともに歩けるのだと。偏頭痛は、その機能が弱くなると起きるといわれました。私たちは歩くとき、足のみでなく、目、脳などフルに使って、その視点の位置を定め、バランスをとって、やっと一歩を踏み出せるというわけです。その1歩に、身体全体の総力をあげているのです。

200万人から250万人もの、奴隷の民。奴隷という身分の彼らには、アイデンティティはありません。どうせ俺達は・・と、全てを諦めてしまっている人々です。彼らを導いて一国を造ろうというのは、どれほど大変なことでしょうか。

国を造りあげるために、教育は大切です。万里の長城は、莫大な金と人夫によって造られましたが、番兵の教育を忘れました。そのためにやすやすと穴をあけられ、国が滅んでいきました。モーセはこの後、40年間、民を教育しつつカナンへ導くことになります。

13節、「どうか他の人を」と懇願するモーセに対し、主の怒りが燃え上がります。ここだけを見ても、モーセは「第1の預言者」と呼ばれるにふさわしい、神々しいひとでも偉大な人でもありません。でも、主は見捨てられませんでした。口達者でないことが自分のウィークポイントだと言うのなら、あなたの兄アロンがいるではないか、と言われます。

決して「アロンを遣わす」とは言われません。主が選んだのは、あくまでもモーセです。モーセに足りないところがあれば、アロンにと、しかもアロンはモーセの兄です。ここで、主の言葉が、「あなた」から「あなたがた」へと変わりました。

私たちは、才能が無いからといって嘆きます。才能が無いから出来ない、というのです。しかし、大切なことは「約束の地に入ること」です。そして、「私たちは」という主語を使うことです。

「私が」幸せになりたい、と言っている間は、決して幸せにはなれません。「私たちが」と、主語が変わるときに、結婚や家庭が上手くいくのです。モーセを選んだ主の言葉、「あなた」から「あなたがた」とその主語が変わったのは、「ユダヤ人全体」という意味です。この後、エジプトに戻ったモーセは、様々な戦い、葛藤の中におかれます。モーセの働きは、主とユダヤ人の取次ぎのようなものでした。そこに徹したのです。群れが群れとして生きていくとき、個人がどこに徹するかで、その群れが変わります。自分がどこに徹するのかは主によって語られ、教えられます。

250万人もの人々の、40年の荒野での旅が始まろうとしています。「私が」という主語ではなく、「私たちが」さらには、「あなたが」が多くなっていくことが大切です。それを学ぶためにモーセはリーダーにさせられ、人々をまとめて行きました。総力で生きる。私たちは、一人で生きるのではなく、交わりの中でどう生きるか、です。その視点に立ったときに、がんじがらめの価値観から解き放たれます。奴隷からの解放です。皆さん一人一人が、解き放たれて、生き生きと生きるということが「解放」なのです。


2009年1月26日月曜日

神のご計画を受ける(出エジプト3)

第3回目 出エジプト記3章1節~22節(2009年1月18日)

「神のご計画を受ける」


***ミデヤンの地で羊飼いとして生きていたモーセに主の使いが現れた。ホレブの山で、燃えているのに焼き尽きない柴の中から主がモーセを呼ばれ、モーセがこれからユダヤの民をエジプトから脱出させるために遣わすといわれた。***


100年の一度といわれる経済不況。それに過剰に反応して、真実が見えなくなるとしたら怖いことです。松下幸之助という人は、どんな不況下でも一人もクビにしなかったそうですが、今現在実際にあるのは、合理的な考えによる派遣切り、そして前に進もうとする企業の姿。しかし、本当は別の道、考え方があるのではないでしょうか?ある法則に従って、こういうことが起きたら会社がダメになる、この人は良くて、この人はダメだと、私たちは決め勝ちですが、それは進化論的発想が土台になっています。弱い人は自分の責任で死んでいってくださいと言っているようなものです。

出エジプトを読むとき、人間の弱さを見ます。登場する人物が何と弱いのか。モーセは殺されるべき赤ちゃんでした。それがなんと王女に拾われてエジプトの王子として育てられ、しかし殺人を犯し、ミデヤンに逃れました。この主人公が何と弱い存在かと思います。しかし神は見捨てませんでした。モーセは神と共に成長しました。あらゆる艱難を通り、「あの預言者モーセ」と現代のユダヤ人にもいわしめる存在となりました。

新約聖書に、乗り越えられない艱難は無いのだとありますが、出エジプトでもそれを見ることができます。40年エジプトという大都会で、最高の学問、文化文明を享受したモーセが、今度は40年間、大自然の中で羊飼いとして放牧の暮らしをしました。今日の箇所では、モーセは80歳になっています。ところでモーセの態度が、以前とは変わってきているのではないでしょうか。2節、主の声が柴の中からし、「あなたのくつを脱げ、ここは聖なる地である」と言われます。ユダヤでは、聖なるところでクツを脱ぐという文化がありました。クツを脱ぐとは従うという態度を示します。

裁き司のようだったモーセが、この40年の間に変わったのではないでしょうか。自然の中で、従わなければならないということを学ばされた。所謂いいとこのボンボンだった彼は、傲慢だったかもしれません。傲慢になるのは、自然の中で生きてこなかったからです。自然には何をもってしても勝つことが出来ません。かつてチェルノブイリで原発事故があった後、1万年または数万年、そこは死の世界となり命は育たないだろうと言われました。ところがあれから100年もたっていないのに、草が生え、自然が戻ってきているというのです。自然とは何と強く偉大でしょうか。

モーセはミデヤンでの40年の間に、徹底的に学ばされたのです。「従うべきこと」そして、エジプトにいた40年は、「従わせる」ことを学んだのかもしれません。どちらも、リーダーとして学ぶべき大事なことです。私たちは、親として子を従わせなければならないのと同時に、会社では従わなければならないからです。従うことを学ぶのは、同時に従わせることを学ぶことでもあります。

6節から、主は、自分が誰であるかをモーセに話して聞かせます。また、モーセが捨ててきたユダヤの同胞たちを自分はずっと見ているよと言われたのです。モーセはどんな気持ちだったでしょう。自分を受け入れなかったユダヤ人を恨んでいたかもしれません。また、ミデヤンでゆっくりと余生を送りたかったかもしれません。しかし、苦しむ同胞を導くために、あなたを選んで遣わすと主は言われるのです。

モーセは40年間、神を忘れたわけではありませんでした。しかし、最悪な状況のなか、命からがら逃げてきて、今になって主にそのように言われたからといって、すぐに従えるはずもありませんでした。「私はいったい何者なのでしょう。」そのような立場ではないのだと訴えます。

主は、「私はあなたと共にいる」ということを柴が燃えることで示されました。14節、「わたしは『わたしはある』というものである」と言われました。ユダヤ人は神という言葉を発しません。それは彼らにとってあまりにも畏れ多いことだからです。「あってあるもの」それは、過去、現時、未来も、同時にいる、ということです。神の普遍性を示しているのです。人間は誰も、今しか生きていません。時間は一定に流れています。しかし、時間というのは実は一定ではないといいます。一人一人流れ方が違うのだと。それは心理学的に違うということでしょう。小学校の6年間と、中高年の6年間は、まったく違う感じ方になります。12年間生きてきた中の6年間は人生の半分だから長く感じるでしょうし、60年生きたなかの6年はたった1割です。

神とは、そういった時間の概念から全く外れたものです。そして、ここにも、あそこにも居られます。私たちには理解できません。理解できたとしたらその人は「神様」でしょう。時間にも場所にも束縛されないで、全てを統治される、それが神です。「わたしはある」それは、あなたがたとは次元の違う方であるということを言え、ということなのです。

そして、主は、エジプトで何が起こるかを順番にモーセに話します。まず長老たちに会って、パロ王のところへ行け、しかし王はなかなか民を行かせないだろう。わたしはそのことをよく知っている、と。預言、というか、神のご計画を語られたのです。そして、エジプトで民が働いた分だけはちゃんと持ってこいと言われました。

モーセはこの時、80歳。エジプトで40年、ミデヤンで40年。そしてこの後、出エジプトを通してまた40年間の旅をするということになります。そしてイスラエルという国家が出来ていきます。一人で終るならそれまでですが、たくさんの人が集まって組織となり、そして国が出来るのです。単に集まれば出来るということではありません。一つの国民として協力していくとは何かをこれから40年間かかって教えていくのです。大切なのは、歩きながら、ユダヤ人が一つの国になるということを学ぶこと。そして、その40年はモーセが本当のリーダーになるための学びでありました。

モーセを励まし、時には叱咤しながら、神が彼を選ばれたということは、「大丈夫、わたしがいつも共にいる、リーダーになっていける」と主がいわれているのです。神のご計画とは、今だけを見ても全然わかりません。しかし、何か意味があるのです。それは、いつか何かが良くなるというレベルのものではなく、この期間を通してあなたが大きく成長していくことが出来るという約束です。奴隷だった民が、国家を作るということ。国を作るとは本当に大変なことでしょう。家族一つまとめるのさえ大変なのですから。

今まさに引退しようとしているモーセを用いて、神は国を造ろうとされます。しかも奴隷である人々を導いて・・・奴隷とは、言われたとおりしかやってこれなかったのですから何もかも未熟な人々です。しかし、イスラエルは今や世界一民主主義的な国といわれる程に成長しました。彼らは自分の国を誇りとし大切にしています。

この試練の中、期待していいのです。主にあって、最高のことになっていくでしょう。その経緯を通して、人生そのものが変えられるという希望を持っていいのです。モーセは、今まで奴隷としての発想しか出来なかった人々たちを変えて、大いなる強い国にし、今なお残る国家としていくため用いられていきます。

モーセを読むとき、同じように私たちも期待され、聖書を通して主が語りかけてくださっています。モーセを見よ。どれほど神に守られ、成長し、強くなっていくことか。それはあなた自身の人生でもあると。モーセを通して主が私たちに語りかけてくださっているのです。

2009年1月17日土曜日

備えられた人モーセ(出エジプト2)

第2回目 出エジプト記2章1節~25節(2009年1月11日)

「備えられた人モーセ」


***あるレビの家で男の赤ちゃんが生まれた。母は、3ヶ月その子モーセを隠していたが、隠しきれなくなりカゴにその子を入れてナイルの岸の葦の茂みに置いた。パロの娘が水浴びをしようと降りてきてカゴを見つけ、その子をあわれに思い、自分の息子として引き取った。モーセが大人になって、同胞ユダヤ人の苦役を見、あるエジプト人が一人のヘブル人を打っているのをみて、義憤にかられ、そのエジプト人を殺して隠した。あくる日ヘブル人同士が争っているのを見て止めに入ったモーセにヘブル人が「エジプト人を殺したように私も殺すのか」と言うのを聞いて恐れ、パロもそれを聞いてモーセを殺そうとしたため、モーセは逃れてミデヤンの地に住んだ。そこで祭司の娘であるチッポラと結婚した。***


連日、イスラエルのガザに対する攻撃について報じられています。この戦争の背景には、はるか遠い歴史が深く関係していることを覚えなければなりません。その昔エジプトにいたユダヤ人たちがエジプトを脱出し、長い旅の末に約束の地カナンにたどり着きました。そういった歴史的な流れを理解することは、今を理解するためにとても大切です。政治的、社会的にしか普通は捉えられませんが、彼らの中に、聖書の神の理解、不理解があり、それがうごめいているのです。一時は、仲良く暮らしていた時期もありましたが、政治的におかしくなっていきました。覚えておかねばならないのは、彼らの救い主の概念は違っても、両者とも同じように神を慕っている民族であるということです。

2章は、モーセの誕生、そしてミデヤンに逃れるところまで記されています。物語としてとても早い展開です。レビ族の赤ちゃんとして生まれたモーセ。ここで父の名が記されていないのは、彼が普通の人だったからでしょう。(6章を見ると家系について書かれており、アムラムという名前だったとわかります。)モーセが生まれたとき、ヘブル人の男の赤ちゃんは皆殺せという命令が出ていたため、母は3ヶ月も隠していました。しかしとうとう、カゴに入れてナイル川に流します。誰かに拾ってほしいという願いを込めてそうしたのでしょう。そしてパロ王の娘、つまり王女にモーセは拾われ、王家の子として成長することになります。

使徒7:22を見ると、40歳になるまでモーセはエジプトにいたと分かります。エジプトのあらゆる技術を学び、最高の知恵、学問を頭に入れ、体で経験していったのです。
ある時、エジプト人が一人のユダヤ人をいじめているのをみて、義憤にかられたモーセはそのエジプト人を殺してしまいます。悪いとは思わなかったでしょう。同胞ヘブル人を迫害するとは何事かと。モーセはそれを隠蔽しました。翌朝、ヘブル人同士が争っているのを見て和解させようとしたところ、「おまえはエジプト人を殺した」といわれ、恐れ、逃げます。

モーセは、それを犯罪とはわかっていたでしょうが、道義的に悪くないと思っていたのでしょう。それをヘブル人に責められ、ショックを受けました。ここでは、モーセは単なる「殺人者」です。同時に、同胞へブル人からも嫌がられ疎まれる存在でした。なんと波乱万丈な人生でしょうか。もともと殺されるはずの赤ちゃんが、王女の息子として素晴らしい生活を40年送り、しかし今は犯罪者となり、身をかくすしかないというのです。

ミデヤンの地は、イスラエル人の故郷です。そこでモーセは祭司の娘チッポラと結婚します。40年間、エジプトの最高の文化、学問を自分のものとしてきた彼は、今度は40年間ユダヤの文化を自分のものとしました。そして、80歳になってから、「出エジプト」のためにエジプトへ戻り、ユダヤの民をカナンへと導くことになります。

ユダヤ人にとって、尊敬するユダヤ人はと聞かれれば、ダビデ、第1の預言者は、モーセと答えます。この2人は確かに偉大な人たちですが、人間以上の何者でもありません。日本人は、よく人間を神格化します。たとえば、イチローについて日本のメディアやファンはまるで神のように取り扱います。カルトではないかと思うほどです。聖書は正直に、偉大な預言者ではあっても、彼が一人の犯罪者であったことを包み隠さず書くのです。しかも、出エジプトした後40年間かけて約束の地カナンにいざ入ろうとするとき、モーセは入れないのです。彼の人生は波乱万丈ですが、その人生だけ見るなら、実は私たちとあまり変わりません。

才能と賜物。違いは何でしょうか。賜物とは、聖書でよく使われる言葉です。創世記にある、バベルの塔についての記述。人間は、やろうとしたらそれを止めることは出来ない。だから神が降りていってその言語を乱したとあります。人間は、やろうと思えば、何でも出きるというのです。学習曲線というのがあって、縦軸が能力、横軸が時間です。最初のうちはずっと長いこと「わからない、出来ない、もうやめようか」というところを時間だけが過ぎていくのが、ある地点でグン!と能力が伸びるといいます。もうだめだ、ここで諦めようと思って本当に止めてしまうならそこまでですが、もう2,3頑張れば、グンと伸びる地点へ辿りつくのです。ある家族がアメリカから帰国して、4,5歳の娘さんはそれまで英語ばかりの環境で育ってきたものの、両親の会話を日本語で聞いていたはずなのに、帰国したとたんに一言もしゃべらなくなったそうです。3週間して、急に堰を切ったようにしゃべるようになったといいます。その3週間の間、ずっと周りの会話を聞いていて、そのうちに頭の中で地図が出来ていき、突然しゃべれるようになったのでしょう。

そのように、仕事でも学問でも、ある地点でグンと上がるのです。問題は、そこまで頑張れるかどうか。ピアノでもなんでも、天才というのは無いということです。どれだけやったかの違いです。プロの料理人とお母さんの違いは、回数だといいます。才能があるとすれば、その地点まで続けること、もうだめだというところを乗り越えることが出きる才能があるかどうか。

一方、賜物は全く違います。それは、与えられているものです。才能が、低迷期を乗り越えればグンとあがるものだとすれば、そうしている間の環境も全て含めて「賜物」です。低迷期を一緒にサポートしてくれる人々、励ましてくれる環境そのものが賜物なのです。それは、家族であり、教会であり、祈りあう兄弟姉妹であり、生きているというそのものが「賜物」です。お互いの一人一人が「賜物」です。

才能といえば、せばめられ、あるかないか、になります。しかし賜物は、発見の連続です。与えられた環境の中で、励まされながら、自分の成すべきことも与えられていく。モーセはそういう賜物の中で生きたのです。法律的には殺されなければならなかった赤ちゃんのモーセを、かわいいからと殺さずに川に流した母の存在。カゴの中のモーセの行く末を見届け、王女に対して、その言葉でモーセを救った姉の存在。モーセが、40年間エジプトで学んだことは、出エジプトの時に役立ちました。犯罪を犯してしまったが、ミデヤンという彼を受け止める場所があったことも賜物です。

人間は、連続性の中で生きています。全てを「賜物」として理解するとき、今ここに自分がいることが、何かの準備だと分かります。モーセは、全てが出エジプトの準備だったと分かったのです。80歳。普通なら、既に引退している年代です。しかし、今まであったこと全てを含めて、自分がいることそのものは、その準備に向かわされていたということだと理解したのです。

誰でも、あなたでなければならない神のご計画があります。モーセだけスポットライトをあてるなら、普通の人にすぎないのですが、環境を含めた賜物の違いがありました。何か大きな働きをするための準備。主が、選んで、私たちをここに置いてくださっているのは、賜物に目覚めさせ、その大きな働きの準備をさせるためなのだと理解ができるのです。

2009年1月5日月曜日

新しい旅立ちの準備(出エジプト1)

第1回目 出エジプト1章1~22節(2009年1月4日)

新しい旅立ちの準備

***ヤコブと息子達は自分の家族を連れてエジプトへ移り住んだ。時代は流れ、その時代の人々はみな死に、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。王はイスラエルの民を賢く取り扱おうと考え、過酷な労働を課した。また、ヘブル人の助産婦たちにヘブルの女が出産するとき男の子なら殺すように命じた。しかし助産婦たちは神を恐れ男の子を生かしておいた。王が彼女達を呼び寄せて問い詰めたが、ヘブル人の女はエジプト人と違って活力があり助産婦が行く前に産んでしまうのだと答えた。神は彼女達の家を栄えさせた。王は全ての民に、生まれた男の子を全てナイル川に投げ込まなければならないと命じた。***



今年は1年をかけて、出エジプトを学んで行きます。今、未曾有の経済危機といわれるその真っ只中にあって、私たちが豊田に置かれた意味が何なのかを神様が示してくださっているのではないでしょうか。

しばらく前の中日新聞に、中国の地下教会について書かれていました。大変な状況にあって中国の人々は神の言葉を求め、教会を頼るようになったとありました。要らないものが削ぎ落とされたとき本当に必要なものが見えてくるということがあります。豊田市もそういう時なのかもしれません。持っていたものが無くなっていくときとても心配になります。どうしたらいいのか、不安定な状態になります。それは人間だから仕方がないことです。しかし、そういう場合に、頼るべきところがあるというのは、それがない場合とは全く違ってきます。

中国では、長い間ずっと宣教し続けてきました。その活動によって殺されるかもしれないという、まさに生き死にの中でそうしてきたのです。そのようにして彼らが求めたのは神の言葉でした。生きるとは何か、何をめざすべきなのか。それが分かったとき、初めて「出発」を意識したのです。絶望か、希望か。それは、みことばのあるか無いかにかかっていました。

1~7節は、創世記のまとめです。8節には、ヨセフを知らない王が起こったとあります。ユダヤ人の迫害が始まりました。9節「見よ、イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い」ユダヤ人は多産であり、強いというのです。

それには深い意味があることではありますが、ユダヤ人たちは長い歴史の中で繰り返し迫害を受けてきました。その中で神の業を発見してきたのです。試練、困難の中で理解する。それは旧約のユダヤ人の姿そのものです。そして、いつの場合も、絶望だけではありませんでした。「ユダヤ人は多産で強い」それは、クリスチャンもそうなのかもしれません。

あるテレビ番組で、神社や仏教について取り上げていました。厄年というのがありますが、それは神社とお寺、どちらでお払いをしてもらうものなのか。答えは、どちらでもいいのだそうです。厄とは、陰陽道と五行(5つの星。今でいう天文学のようなもの。)を併せて出来た暦で出来ているのだとか。統計学的なものも含まれているのでしょう。天災が怖いから何かにすがりたいという人間の願いの表れだと思います。

「問題がないように祈りましょう」聖書はそのようには語りません。何かの法則があって、そこから回避するというものではありません。生きるということは、神の守りの中にあるというのが大前提なのです。何か問題が起こるとしたら、その時こそ神のことが分かるというのが聖書的発想です。ユダヤ人たちは、恐ろしい迫害にあってきましたが、それによって強さを与えられ、大きく成長してきたのです。

日本のクリスチャン達も、戦時中は迫害を受けました。しかし、消えてしまうということは決してありませんでした。過酷な状況にあっても、礼拝を守りつづけました。それこそが、平和への道筋だと考えたのです。クリスチャンはいなくなりません。それは神の深い力が働いているのです。

出エジプト1章のようなことが起こったら、大概の民族は諦めてしまうのではないでしょうか。しかしこの後、モーセという一人の赤ちゃんが与えられ、今のイスラエルが造られていくというその出だしをこれから学ぶことになります。

教会とは、この世にあって、本当に小さな光でしょう。小さな光ですが、決して見逃してはなりません。その光を通して、神様がこの世界を輝く未来へ導いていくのです。絶望している人がいるなら、ぜひ伝えたい。状況が変わらないとしても、生き生きと生きることができる。そこから経済的にも変わっていくでしょう。それを出エジプトで学ぶことが出来ます。豊田市が絶望することは決して無いと分かるのです。教会に集う一人一人は豊田市の光であり、日本の光です。出エジプトがそう語っているのです。