第32回 出エジプト33章12~23節(2009年1月24日)
「民をとりなすモーセ」
***モーセは神に対し、民のためのとりなしをした。約束の地に上っていくために自分一人では民を導いていくのは困難なので、どうか共にいてください、おいでにならないなら私たちをここから上らせないでください、と。***
人間関係において誰かとケンカしたとき、振り上げた拳はなかなか下げることが出来ないものです。 江戸時代にも、誰かが仲介に入って中を取り持ったというようなことがありました。今のように法律が定まっていなかったので、習慣としてそうしていたのです。ケンカしている当人同士で解決しましょうなんてことは無理です。だから、国と国の問題は国連が入って解決します。
2本足の椅子はありません。普通椅子は4本足ですが、実は4本というのも、完全に安定するわけではありません。3本足の椅子が一番安定するそうです。物理学的に、3という数字は一番安定するのです。神が3という数字を完全数とされたのは、そういうこともあるのでしょう。2人の間に入ってとりなす3人目の人がいるかいないかで、大きな違いが生まれるのです。
とりなすということは、両者の間に入って、ぼたんのかけ違いを直すことです。神が選んだ民が、偶像礼拝に陥り、金の子牛を作って拝みました。怒る神と民の間にモーセが入り、「もう一度民のところに戻って約束の地に連れて行ってください、もちろん民が問題ですが、ぜひお願いします」と懇願し、仲介した、それが今日の現場です。
アメリカでは、Superviserをたてるということが一般的になっているようです。中立にある人を雇うのです。Superviserは両者の話を聞いて、どっちがいいとか悪いとかのジャッジをしません。夫婦喧嘩でも何でも、当の2人だけでの解決は無理です。仲介者が入って、問題をさかのぼって考えることが必要です。牧師として親子や夫婦のカウンセリングをしていますが、それはまさに、間に入ってとりなしをするということなのです。
モーセは、ねんごろにしつこく、今までのことが無駄にならないようにと懇願します。18節「どうか、あなたの栄光を私に見せて下さい」19-23節は神の言葉です。「恵もうと思うものを恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。あなたはわたしの顔を見ることができない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
神の姿を見たら死ぬ、と語られました。モーセは、どうかあなたご自身を見せて、と立ち入って頼むわけです。しかし神は、「そういうわけにはいかないが、一緒に行こう」と言われました。モーセの勇み足ではありましたが、とりなしというのはこういうことです。行きつ戻りつ、こうしてくださいああして下さいと、加減をみながら、民が救われるようにと懇願しています。
とりなしの究極の姿、それは、イエスの十字架です。神と人とを、イエスの血によって橋渡しをされました。
自分が犠牲になって人類を救ったのです。まさに生贄です。イエスの時代から数千年前の時代、モーセも、民のために神にとりなしをしたのでした。
私たちが具体的に、生活の中でとりなしをするとはどういうことでしょうか。目の前に問題があるとき、私と問題の2者では解決できません。真ん中にキリストをおいて、とりなしをしてもらうことが解決です。いろんな問題があり、負いきれないと感じる時、誰かに相談することはいいでしょう。しかしその前に、イエスと共に祈り、とりなしをして頂くのです。これをあなたはどうやって解決してくださいますか。期待します、お願いします、 と祈ってから、誰かに相談するのです。
とにもかくにも、イエスがとりなしをして下さることを忘れないで下さい。イエスのとりなしによって、問題は必ず解決していきます。出エジプトのように、弱く小さかった民がとりなしの連続の中で大きな民族に成長していったように。歴史上のクリスチャンたちが、平安が与えられ、強く世界に影響を与えることが出来るようになっていったのも、キリストのとりなしのゆえです。
もし私たちが、問題のとりなし者にならなければならなくなったとしたらどうですか。誰かに相談を受けたとしたら?キリストと共にとりなしをしましょう。私たちはキリストではないから、その方にキリストを紹介するということです。「私は、自分の問題をキリスト、つまり聖書の言葉で解決しようとしています。あなたの問題に、私も一緒に関わりますが、御言葉を聞きながら、また、牧師に聞きながら、どう考えたらいいかを理解していくのはどうですか」とお勧めするのです。ご自身の経験・思想だけでアドバイスをしない方がいいでしょう。
親子関係はまさにそうです。小さいときに、子供と父との間に問題があったら母が仲介者になるということは、その子の成長にとって大変重要なことです。今、いろんな依存症が増えていますが、親子関係に問題があったことが多いようです。親がどちらかについてしまう、1対2で対極になってしまうということは問題です。父または母は、中立になるためには、キリストが共にいてくださって、この2人をどうするかを考えるということ。それが出来るなら、人間の知恵ではなく神がとりなして、その関係を正しく保っていくことが出来るのです。
私たちは、何か問題が起こったときには、ぜひ喜ぼうではありませんか。そこに、とりなすキリストが必ずいるということだからです。それを発見していきましょう。問題がある時には、聖書を読みましょう。必ず解決があります。問題はチャンスです。イエスがとりなしをして下さることが分かるチャンスです。イエスの姿を生活の中で発見していきましょう。
2010年1月31日日曜日
2010年1月30日土曜日
神の愛に報いるために(出エジプト31)
第31回 出エジプト記33章1-11節(2010年1月17日)
「神の愛に報いるために」
***主はモーセに、「民と共に約束の地へ上れ。しかしわたしは一緒には行かない。あなたはかたくなな民であるので、わたしがあなたを滅ぼすことがないために」と語られた。民は嘆き、飾りをはずした。***
出エジプトの、一つのクライマックスを読んでいます。金の子牛を造って拝んだというのが先回。それは、聖画にもよく描かれている場面で、民たちが悲惨な状況に陥ったことを記しています。いま、この時間にも、私たちと同じように聖書を読んでいる人々が世界中にいます。毎週日曜、20億~30億の人が、世界中の教会で聖書を学んでいるのです。どんな思いで読むかと言うと、神話として面白おかしく読んでいる、そんな人は少ないでしょう。神話として楽しんで読む人もいるのでしょうが、私たちは現実のものとして読もうとしています。なるべく、その場面に戻りながら読むということを心がけたいものです。
NHKで地震についての番組を見ました。東海大震災のメカニズムが分かってきたというもので、プレートが戻るその戻り方が、他の地域と全く違うのだそうです。東北の場合は震度5,6が何度も起こりましたが、東海沖は何百倍もあるといい、来る時は一気に来ると予想されるのだそうです。それが起こるのが、半年後、とか2ヶ月後、とか、テレビは淡々と伝えます。実際とても怖い話なのですが、なかなかリアルに見えてきません。
今日の聖書の個所は、もっと切実です。モーセが山に上って神と話し、十戒の板を頂いてくる間に、民たちは耐え切れなくなって、金の子牛を造って拝むという罪を犯しました。それに対して神の裁きが下り、千人の人が死んだのです。聖書に、そう淡々と書いてあります。ハイチの地震について報道が毎日ありますが、あのような地震が来たらどうなるのかというような、リアリティをもって読んで頂きたいのです。神戸の地震の時のある教会の話ですが、開拓を始めてたった二日目の会堂が、あの地震によって完全に破壊されました。救助のお手伝いに行きましたが、本当に文字通り、何もかもなくなっていたのです。そういう場面を、現実感をもって読んでいきたいものです。
これから約束の地に上るという場面で、神は「行きなさい。途中、カナン人エモリ人と戦っていかなければいけない。乳と蜜の流れる地に行きなさい。しかしわたしは、あなたたちとは行かない。約束の地は与えるが、一緒には上らない。」と言われました。「うなじのこわい民だから」というのがその理由ですが、これは、馬に乗る時、性質の悪い馬は首が堅いからブレーキがかからないという意味の言葉です。民たちは、神の言葉を全然理解しないので、わたしが途中で立ち滅ぼすことがあるといけないから、と神が言われました。金のネックレスで子牛を造ったということがあったので、民の痛みとして6節「かざりものを外した」のでした。
民はこのとき、初めて気づいたのです。数か月前には、海を分けて歩いてきた。主は素晴らしい!しかし、しばらくすると忘れてしまう。金の子牛を造って拝んでしまう。全く分かってない、リアルに知っていない。神の怒りが下ったら、こともなげに人々が絶たれていくということを目の当たりにし、神を拒絶するということはとんでもないことだと気付いたのです。そんな厳しい現実であるなら、神など信じない、と、私たちは言うのでしょうか?
もし、神から見放されたとしたら、どんな感覚に陥りますか。神がおられて、私たちが共にいさせて頂く。神がおられるから、私たちが最高の作品だと分かる。いままで神を知らなかったときのように、劣等感を持つ必要はなくなった。そして優越感も持つ必要がありません。最高の作品としてここにいる感謝。もしそうでないなら、私たちは無用のものということです。
私たちの人生には意味があるのでしょうか。あります。それは、神が作られたからです。能力至上主義のこの世で、私たちはそれとは全く別の価値観において、私たちにしか生きられない人生を歩んでいるのです。
そして、私たちには、死後の世界が約束されています。ホスピスでの働きをされている柏木先生というお医者さんが、死生観について語っておられました。人は、生きてきたように死んでいくのだといいます。人生、いつも感謝してきた人は、スタッフに感謝しながら亡くなっていき、いつも不平を言ってきた人は、最後の時もそうだと。臨終は、その方の人生の凝縮であり、最後の言葉は総決算です。
彼が、今まで看取った患者さんや家族の言葉で、印象的な3つを紹介していました。1つめは、「もったいない」。将来有望な、サッカー少年の死に際、母がおおいかぶさるようにして吐いた言葉です。大事に育ててきた一人息子の死。希望ある将来を夢みていたのが、途中で絶たれるという悲しみから出た言葉でしょうか。2つめは、「死にとうない」。働き者の社長だった彼は、大きな富と名声を得ましたが、癌に罹り、最後はモルヒネで痛みを和らげていました。食欲が落ちていき、いよいよという時に「死にとうない、金はいくらでも出す」と訴えたといいます。それに対して先生は、「死にたくないよね」としか答えられなかったそうです。
3つめは「いってくるね」。癌末期の女性でした。彼女は「死が近いのはいいが、苦しいので痛みを和らげて欲しい」。そしてある日、「明日か明後日のような気がします。いつか先生も来てくださいね。」と、それはあまりにも自然な言葉でした。臨終で、はっきりと、「いってくるね」娘さんが「いってらっしゃい」と答えました。お互いに再会の確信があるからこその言葉です。
臨終のその時、生きてきたそのものが見えてしまいます。もったいないと残念がる。死にたくないと、悔いて悩んで苦しむ。しかし3番目の女性には、「もっといいところに連れて行って下さる」という確信がありました。いってきます、いってらっしゃいと挨拶をかわすことが出来るというのは、神が共にいて、私たちの人生を約束するという契約がなければありえないことです。
3つのことが約束されていあます。私たちは最高の作品であること。生き生きとした人生を歩めるということ。そして死んだ後も、もっと大きな祝福が与えられるということ。これらの約束がなければ、私たちの人生は滅茶苦茶になってしまいます。その約束を拒絶するかのように、民は金の子牛を造って拝み続け、神の裁きを受けたというのは、とても象徴的な事柄です。自分の持っている一番いいものを、本来は神に捧げるのです。最高のものを、素晴らしい奇跡を起こして下さった方にはそれを捧げず、偶像にそれをしようとする。私たちの人生を確実にしてくださる方には甘え、偶像に自分を捧げる。ユダヤの民は、ここで終ってしまってもおかしくはありませんでした。
「わたしは一緒に行かない」と主は言われましたが、モーセだけは会見の天幕(天幕とは違い、テントのような簡易なもの)で、神と話すことが許されました。神は、モーセと会見をし、モーセを通してユダヤ人を守るということをされたのです。モーセという一人の人との、一本の糸でつながっていたということです。モーセの死後は、ヨシュアがその役割を果たしていきます。
私たちは、モーセ、ヨシュアのような働きをしていくのです。ユダヤ人全体を助けるため、首の皮1枚でつながっていたのがモーセでありヨシュアの働きによるものでした。私たちの家族、社会のため、教会がこの社会の救いのための「首の皮1枚」です。皆さんが、モーセでありヨシュアなのです。教会が全部なくなったとしたら、この世に正義など絶対なくなるでしょう。
法律があるのは、人間は悪者という大前提があるからです。だから法律を作るのです。見えなくてわからないなら、悪いことをやる。余裕があったら人のことを考えるが、大体は自分中心にふるまう。人間とはそういうものです。法律さえ、自分中心で良いのだと言っています。自分を助け、それから人のこと考えれば良いという前提で作られているのです。
法律によれば、自分の命をかけてまで溺れている人を助ける必要はありません。しかし、私たちには死後の世界が約束されています。「自分の命をかけてでも、何か社会のために出来ないか」と考える人々がいるから、社会が保たれているといっていいでしょう。教会は、日曜に何かいいお話を聞きにくる場所だとだけ思うなら浅いかもしれません。皆さんが神とつながることが、社会・家族に神をつなげているのです。それをなさるのは神です。
今現在、ユダヤ人が国民として強く生きていられるのは、モーセのおかげです。同じように皆さんが、社会家庭を支えていきます。一歩引いて自分を見つめ、モーセ、ヨシュアのように生きているかどうか考えてみましょう。本当に良いもの、大切なものをを神に捧げているか。仕事の前に、10分でも祈りを捧げるところから初めているか。自分が落ち着くということもありますが、その貴重な時間を神に捧げるということが大事です。私たちの賜物をささげるということで、私たちもモーセヨシュアのような働きが出来るのです。
「死にとうない」と最後に言葉を残した社長は、たくさんの社員とその家族を養いながら、平安と喜びに彼らを結び付けることはできませんでした。「いってくるね」と言ったお母さんは、普通の平凡な主婦でしたが、家族や社会に対して、大きな希望と喜びを与えることが出来ました。人生の最後に「いってきます」「いってらっしゃい」といえるような歩みを、私たちもしたいと願います。
「神の愛に報いるために」
***主はモーセに、「民と共に約束の地へ上れ。しかしわたしは一緒には行かない。あなたはかたくなな民であるので、わたしがあなたを滅ぼすことがないために」と語られた。民は嘆き、飾りをはずした。***
出エジプトの、一つのクライマックスを読んでいます。金の子牛を造って拝んだというのが先回。それは、聖画にもよく描かれている場面で、民たちが悲惨な状況に陥ったことを記しています。いま、この時間にも、私たちと同じように聖書を読んでいる人々が世界中にいます。毎週日曜、20億~30億の人が、世界中の教会で聖書を学んでいるのです。どんな思いで読むかと言うと、神話として面白おかしく読んでいる、そんな人は少ないでしょう。神話として楽しんで読む人もいるのでしょうが、私たちは現実のものとして読もうとしています。なるべく、その場面に戻りながら読むということを心がけたいものです。
NHKで地震についての番組を見ました。東海大震災のメカニズムが分かってきたというもので、プレートが戻るその戻り方が、他の地域と全く違うのだそうです。東北の場合は震度5,6が何度も起こりましたが、東海沖は何百倍もあるといい、来る時は一気に来ると予想されるのだそうです。それが起こるのが、半年後、とか2ヶ月後、とか、テレビは淡々と伝えます。実際とても怖い話なのですが、なかなかリアルに見えてきません。
今日の聖書の個所は、もっと切実です。モーセが山に上って神と話し、十戒の板を頂いてくる間に、民たちは耐え切れなくなって、金の子牛を造って拝むという罪を犯しました。それに対して神の裁きが下り、千人の人が死んだのです。聖書に、そう淡々と書いてあります。ハイチの地震について報道が毎日ありますが、あのような地震が来たらどうなるのかというような、リアリティをもって読んで頂きたいのです。神戸の地震の時のある教会の話ですが、開拓を始めてたった二日目の会堂が、あの地震によって完全に破壊されました。救助のお手伝いに行きましたが、本当に文字通り、何もかもなくなっていたのです。そういう場面を、現実感をもって読んでいきたいものです。
これから約束の地に上るという場面で、神は「行きなさい。途中、カナン人エモリ人と戦っていかなければいけない。乳と蜜の流れる地に行きなさい。しかしわたしは、あなたたちとは行かない。約束の地は与えるが、一緒には上らない。」と言われました。「うなじのこわい民だから」というのがその理由ですが、これは、馬に乗る時、性質の悪い馬は首が堅いからブレーキがかからないという意味の言葉です。民たちは、神の言葉を全然理解しないので、わたしが途中で立ち滅ぼすことがあるといけないから、と神が言われました。金のネックレスで子牛を造ったということがあったので、民の痛みとして6節「かざりものを外した」のでした。
民はこのとき、初めて気づいたのです。数か月前には、海を分けて歩いてきた。主は素晴らしい!しかし、しばらくすると忘れてしまう。金の子牛を造って拝んでしまう。全く分かってない、リアルに知っていない。神の怒りが下ったら、こともなげに人々が絶たれていくということを目の当たりにし、神を拒絶するということはとんでもないことだと気付いたのです。そんな厳しい現実であるなら、神など信じない、と、私たちは言うのでしょうか?
もし、神から見放されたとしたら、どんな感覚に陥りますか。神がおられて、私たちが共にいさせて頂く。神がおられるから、私たちが最高の作品だと分かる。いままで神を知らなかったときのように、劣等感を持つ必要はなくなった。そして優越感も持つ必要がありません。最高の作品としてここにいる感謝。もしそうでないなら、私たちは無用のものということです。
私たちの人生には意味があるのでしょうか。あります。それは、神が作られたからです。能力至上主義のこの世で、私たちはそれとは全く別の価値観において、私たちにしか生きられない人生を歩んでいるのです。
そして、私たちには、死後の世界が約束されています。ホスピスでの働きをされている柏木先生というお医者さんが、死生観について語っておられました。人は、生きてきたように死んでいくのだといいます。人生、いつも感謝してきた人は、スタッフに感謝しながら亡くなっていき、いつも不平を言ってきた人は、最後の時もそうだと。臨終は、その方の人生の凝縮であり、最後の言葉は総決算です。
彼が、今まで看取った患者さんや家族の言葉で、印象的な3つを紹介していました。1つめは、「もったいない」。将来有望な、サッカー少年の死に際、母がおおいかぶさるようにして吐いた言葉です。大事に育ててきた一人息子の死。希望ある将来を夢みていたのが、途中で絶たれるという悲しみから出た言葉でしょうか。2つめは、「死にとうない」。働き者の社長だった彼は、大きな富と名声を得ましたが、癌に罹り、最後はモルヒネで痛みを和らげていました。食欲が落ちていき、いよいよという時に「死にとうない、金はいくらでも出す」と訴えたといいます。それに対して先生は、「死にたくないよね」としか答えられなかったそうです。
3つめは「いってくるね」。癌末期の女性でした。彼女は「死が近いのはいいが、苦しいので痛みを和らげて欲しい」。そしてある日、「明日か明後日のような気がします。いつか先生も来てくださいね。」と、それはあまりにも自然な言葉でした。臨終で、はっきりと、「いってくるね」娘さんが「いってらっしゃい」と答えました。お互いに再会の確信があるからこその言葉です。
臨終のその時、生きてきたそのものが見えてしまいます。もったいないと残念がる。死にたくないと、悔いて悩んで苦しむ。しかし3番目の女性には、「もっといいところに連れて行って下さる」という確信がありました。いってきます、いってらっしゃいと挨拶をかわすことが出来るというのは、神が共にいて、私たちの人生を約束するという契約がなければありえないことです。
3つのことが約束されていあます。私たちは最高の作品であること。生き生きとした人生を歩めるということ。そして死んだ後も、もっと大きな祝福が与えられるということ。これらの約束がなければ、私たちの人生は滅茶苦茶になってしまいます。その約束を拒絶するかのように、民は金の子牛を造って拝み続け、神の裁きを受けたというのは、とても象徴的な事柄です。自分の持っている一番いいものを、本来は神に捧げるのです。最高のものを、素晴らしい奇跡を起こして下さった方にはそれを捧げず、偶像にそれをしようとする。私たちの人生を確実にしてくださる方には甘え、偶像に自分を捧げる。ユダヤの民は、ここで終ってしまってもおかしくはありませんでした。
「わたしは一緒に行かない」と主は言われましたが、モーセだけは会見の天幕(天幕とは違い、テントのような簡易なもの)で、神と話すことが許されました。神は、モーセと会見をし、モーセを通してユダヤ人を守るということをされたのです。モーセという一人の人との、一本の糸でつながっていたということです。モーセの死後は、ヨシュアがその役割を果たしていきます。
私たちは、モーセ、ヨシュアのような働きをしていくのです。ユダヤ人全体を助けるため、首の皮1枚でつながっていたのがモーセでありヨシュアの働きによるものでした。私たちの家族、社会のため、教会がこの社会の救いのための「首の皮1枚」です。皆さんが、モーセでありヨシュアなのです。教会が全部なくなったとしたら、この世に正義など絶対なくなるでしょう。
法律があるのは、人間は悪者という大前提があるからです。だから法律を作るのです。見えなくてわからないなら、悪いことをやる。余裕があったら人のことを考えるが、大体は自分中心にふるまう。人間とはそういうものです。法律さえ、自分中心で良いのだと言っています。自分を助け、それから人のこと考えれば良いという前提で作られているのです。
法律によれば、自分の命をかけてまで溺れている人を助ける必要はありません。しかし、私たちには死後の世界が約束されています。「自分の命をかけてでも、何か社会のために出来ないか」と考える人々がいるから、社会が保たれているといっていいでしょう。教会は、日曜に何かいいお話を聞きにくる場所だとだけ思うなら浅いかもしれません。皆さんが神とつながることが、社会・家族に神をつなげているのです。それをなさるのは神です。
今現在、ユダヤ人が国民として強く生きていられるのは、モーセのおかげです。同じように皆さんが、社会家庭を支えていきます。一歩引いて自分を見つめ、モーセ、ヨシュアのように生きているかどうか考えてみましょう。本当に良いもの、大切なものをを神に捧げているか。仕事の前に、10分でも祈りを捧げるところから初めているか。自分が落ち着くということもありますが、その貴重な時間を神に捧げるということが大事です。私たちの賜物をささげるということで、私たちもモーセヨシュアのような働きが出来るのです。
「死にとうない」と最後に言葉を残した社長は、たくさんの社員とその家族を養いながら、平安と喜びに彼らを結び付けることはできませんでした。「いってくるね」と言ったお母さんは、普通の平凡な主婦でしたが、家族や社会に対して、大きな希望と喜びを与えることが出来ました。人生の最後に「いってきます」「いってらっしゃい」といえるような歩みを、私たちもしたいと願います。
2010年1月29日金曜日
2010年1月28日木曜日
2009年11月15日日曜日
安息日を守るために(出エジプト28)
第28回 出エジプト記31章1~18節(2009年11月8日)
「安息日を守るために」
***神はモーセに仰せられ、天幕を作るための技術者を任命された。また、話の最後に、安息日を厳守するように仰せられた。***
18節にある「二枚の板」。これは聖画にもよく登場しますが、「十戒」が書かれているものです。今まで、山の中で、モーセと神の話がどのように進んできたのかを学んできました。天幕の作り方について。また、その御用をする祭司の装束など、事細かに神は示されました。天幕は、高価な材料を用いて大変荘厳な造りにするように書かれています。
今日の個所の前半では、その技術者として素晴らしい人を任命しています。これは、現代でいえば、棟梁と副棟梁のようなものだといえます。
後半では、「安息日を守れ」ということを語り、そこで話を終えて、モーセは下山し、民のところへ帰っていきます。安息日の厳守が、神の最後の言葉でした。
安息日を守るとは何か。それは、休め、という神の命令です。その理由として、17節に「主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたから」とあります。
現代風にいえば、こうでしょうか。「日曜日は必ず休むように。休まなかったら死刑だ」と。そんな会社はありません。収益のために、出来れば日曜も出勤してほしいというのが本当のところでしょう。しかし、必ず休まなければならないのは、考えてみれば当たり前のことです。なぜなら、休まないなら、次の仕事が出来ないからです。
日本人は、働くことが一番大事だと教えられてきました。月月火水木金金といわれたように、休みは10日に1回でよい、いや、15日、1ヶ月に1回で良いのだと言われていました。日本人の牧師も、なかなか休暇をとれないということがありますが、これは、神の命令に背いて罪を犯しているということになります。なぜなら、休むということは生きるということだからです。
健康のために適度な運動をするように、と医者に言われると、毎日一生懸命やってしまう。それでは、体を壊してしまいます。また、記憶というものは、眠ることによって整理が出来るといいます。今、アメリカの教会学校では、睡眠の仕方について教えるそうです。教育上、睡眠がとても大切だというのです。ドイツには、眠りの神学という分野もあるそうで… とにかく、休むということがどれほど大事なことで、それをしなければ罰が与えられるのだと神が仰せられるのです。
休むとは、一体何でしょうか。安息日とは、どう関係しているのでしょう。私たちはこれまで、安息日とは神にささげる時間だと学んできました。安息日、すなわち礼拝を捧げるということは、動物などを捧げて殺し、自分の罪を赦してもらうという儀式であり、神にまみえる時でした。休むことと安息日の関係は一体何でしょうか。
マルコ12章には、やもめの献金についての記事があります。当時の最小単位であるレプタ2枚(今でいえば数十円でしょうか)を捧げた女性について、イエスは言われました。「この貧しいやもめは誰よりもたくさん献金しました。皆は有り余る中から入れたが、この人は自分の持っているものをすべて入れたからだ」と。
ここに登場するのは、貧しいやもめ、イエス、弟子たち、金持ちたち。当時、多くの献金が捧げられると、ドラを鳴らして賞賛するというような風習があったようです。イエスは、ここで、金持ちを悪く言っているわけではありません。やもめが一番たくさん入れたと言っているだけです。これは、彼女が、彼女自身の命をかけるものをそこに見つけていたということです。
献金は、額が問題なのではありません。私たちは、自分の命をかけるものに財を投げ打って捧げます。私たちがお金を一番かけるところが、私たちの命をかけているところだといえます。このやもめは、神に命をかけることを決断したのです。その日のもの全てを捧げました。神に期待し、全てをかけていくという姿勢がそこに表れているのです。
「平安と喜びを得るためにはどうしたらいいでしょうか」と問われたら、どう答えますか。お金をたくさん得ること。健康であること。どれも大事ですが、それだけでは足りないことを私たちは既に知っています。日本では、年間の自殺者が三万人を超えています。一方、アフガニスタンでは自殺をする人は一人もいません。明日生きていられるかわからないギリギリの日々の中で、自ら死のうという人はいないのです。日本では、生きていくのに困るということは殆どありません憲法で私たちの最低限度の生活は保障され、生活保護を受けることもできます。そのための市の職人がたくさんいます。自殺をする人の殆どは、普通の生活をしている人々です。
一つ言えることがあります。命をかけて何かを始めるなら、周りにあるものは見えなくなるのではないでしょうか。私たちには、それがあるでしょうか?世の人々に問うなら、命をかけるまでのことは、おそらく殆どの人が、ないと答えるでしょう。やもめは、神に命をかけました。だから全部を捧げました。彼女にも生活はありました。しかし、神が自分の今日、そして明日をになってくださると確信し、その証としての献金だったのです。
安息日とは、命をかけてそれを守るという確認のための礼拝です。神が私を造られました。私にしか生きられない人生を私が生き生きと生きることで、周囲の多くの人に良い影響を与えることができるよう、神がそのように私を造られました。どんな仕事でも、立場でも、何歳でも、何人でも、あなたがそこにいるということが、どれほど意味があって重要なことかということを知らなければなりません。
人生が上手くいかない。それは、神を拒絶して生きてきたからです。神に立ち戻り、自分にしか生きられない与えられた人生を生きるということ、それを安息日の礼拝で確かめるのです。だから安息日、礼拝はいのちそのものなのです。
ユダヤ人も、このときはまだ分かっていませんでした。だから、「安息日を守らないものは殺されなければならない」と神はいわれました。民数記には、安息日に焚き木を拾いにいってそれが見つかり、死刑になった人について記事があります。「だから、私たちはそこまでして礼拝を守らなければならない」…と読むなら、方向を間違えてしまいます。神は、命かけるものの確認のために、私たちに礼拝を備えて下さったのです。
本当の平安を持つためには、命がけのものを持つことです。自分を造ってくださった方を知り、その方と共に歩むということです。私たちの命がなくならないために、神にまみえよ、と主は仰せられるのです。
休め、と神が仰せられるのは、単に仕事を休んで寝て休む、ということだけではありません。もっと大切なのは、どう生きるかを確認することをしなければ、次への力とはならないということです。礼拝はいのちそのものであると、理解し続けていくのです。それは、右向け右で一気に分かるものではありません。少しずつ、本気で、理解していくこと。そのために祈り求めていくこと。礼拝のいのちそのものを味わっていくこと。出エジプトで学んでいるのは、それをユダヤ人たちは40年もかけてやってきたということです。私たちも長い時間をかけて、人、神との関係の中で、それを学んでいくのです。
「安息日を守るために」
***神はモーセに仰せられ、天幕を作るための技術者を任命された。また、話の最後に、安息日を厳守するように仰せられた。***
18節にある「二枚の板」。これは聖画にもよく登場しますが、「十戒」が書かれているものです。今まで、山の中で、モーセと神の話がどのように進んできたのかを学んできました。天幕の作り方について。また、その御用をする祭司の装束など、事細かに神は示されました。天幕は、高価な材料を用いて大変荘厳な造りにするように書かれています。
今日の個所の前半では、その技術者として素晴らしい人を任命しています。これは、現代でいえば、棟梁と副棟梁のようなものだといえます。
後半では、「安息日を守れ」ということを語り、そこで話を終えて、モーセは下山し、民のところへ帰っていきます。安息日の厳守が、神の最後の言葉でした。
安息日を守るとは何か。それは、休め、という神の命令です。その理由として、17節に「主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたから」とあります。
現代風にいえば、こうでしょうか。「日曜日は必ず休むように。休まなかったら死刑だ」と。そんな会社はありません。収益のために、出来れば日曜も出勤してほしいというのが本当のところでしょう。しかし、必ず休まなければならないのは、考えてみれば当たり前のことです。なぜなら、休まないなら、次の仕事が出来ないからです。
日本人は、働くことが一番大事だと教えられてきました。月月火水木金金といわれたように、休みは10日に1回でよい、いや、15日、1ヶ月に1回で良いのだと言われていました。日本人の牧師も、なかなか休暇をとれないということがありますが、これは、神の命令に背いて罪を犯しているということになります。なぜなら、休むということは生きるということだからです。
健康のために適度な運動をするように、と医者に言われると、毎日一生懸命やってしまう。それでは、体を壊してしまいます。また、記憶というものは、眠ることによって整理が出来るといいます。今、アメリカの教会学校では、睡眠の仕方について教えるそうです。教育上、睡眠がとても大切だというのです。ドイツには、眠りの神学という分野もあるそうで… とにかく、休むということがどれほど大事なことで、それをしなければ罰が与えられるのだと神が仰せられるのです。
休むとは、一体何でしょうか。安息日とは、どう関係しているのでしょう。私たちはこれまで、安息日とは神にささげる時間だと学んできました。安息日、すなわち礼拝を捧げるということは、動物などを捧げて殺し、自分の罪を赦してもらうという儀式であり、神にまみえる時でした。休むことと安息日の関係は一体何でしょうか。
マルコ12章には、やもめの献金についての記事があります。当時の最小単位であるレプタ2枚(今でいえば数十円でしょうか)を捧げた女性について、イエスは言われました。「この貧しいやもめは誰よりもたくさん献金しました。皆は有り余る中から入れたが、この人は自分の持っているものをすべて入れたからだ」と。
ここに登場するのは、貧しいやもめ、イエス、弟子たち、金持ちたち。当時、多くの献金が捧げられると、ドラを鳴らして賞賛するというような風習があったようです。イエスは、ここで、金持ちを悪く言っているわけではありません。やもめが一番たくさん入れたと言っているだけです。これは、彼女が、彼女自身の命をかけるものをそこに見つけていたということです。
献金は、額が問題なのではありません。私たちは、自分の命をかけるものに財を投げ打って捧げます。私たちがお金を一番かけるところが、私たちの命をかけているところだといえます。このやもめは、神に命をかけることを決断したのです。その日のもの全てを捧げました。神に期待し、全てをかけていくという姿勢がそこに表れているのです。
「平安と喜びを得るためにはどうしたらいいでしょうか」と問われたら、どう答えますか。お金をたくさん得ること。健康であること。どれも大事ですが、それだけでは足りないことを私たちは既に知っています。日本では、年間の自殺者が三万人を超えています。一方、アフガニスタンでは自殺をする人は一人もいません。明日生きていられるかわからないギリギリの日々の中で、自ら死のうという人はいないのです。日本では、生きていくのに困るということは殆どありません憲法で私たちの最低限度の生活は保障され、生活保護を受けることもできます。そのための市の職人がたくさんいます。自殺をする人の殆どは、普通の生活をしている人々です。
一つ言えることがあります。命をかけて何かを始めるなら、周りにあるものは見えなくなるのではないでしょうか。私たちには、それがあるでしょうか?世の人々に問うなら、命をかけるまでのことは、おそらく殆どの人が、ないと答えるでしょう。やもめは、神に命をかけました。だから全部を捧げました。彼女にも生活はありました。しかし、神が自分の今日、そして明日をになってくださると確信し、その証としての献金だったのです。
安息日とは、命をかけてそれを守るという確認のための礼拝です。神が私を造られました。私にしか生きられない人生を私が生き生きと生きることで、周囲の多くの人に良い影響を与えることができるよう、神がそのように私を造られました。どんな仕事でも、立場でも、何歳でも、何人でも、あなたがそこにいるということが、どれほど意味があって重要なことかということを知らなければなりません。
人生が上手くいかない。それは、神を拒絶して生きてきたからです。神に立ち戻り、自分にしか生きられない与えられた人生を生きるということ、それを安息日の礼拝で確かめるのです。だから安息日、礼拝はいのちそのものなのです。
ユダヤ人も、このときはまだ分かっていませんでした。だから、「安息日を守らないものは殺されなければならない」と神はいわれました。民数記には、安息日に焚き木を拾いにいってそれが見つかり、死刑になった人について記事があります。「だから、私たちはそこまでして礼拝を守らなければならない」…と読むなら、方向を間違えてしまいます。神は、命かけるものの確認のために、私たちに礼拝を備えて下さったのです。
本当の平安を持つためには、命がけのものを持つことです。自分を造ってくださった方を知り、その方と共に歩むということです。私たちの命がなくならないために、神にまみえよ、と主は仰せられるのです。
休め、と神が仰せられるのは、単に仕事を休んで寝て休む、ということだけではありません。もっと大切なのは、どう生きるかを確認することをしなければ、次への力とはならないということです。礼拝はいのちそのものであると、理解し続けていくのです。それは、右向け右で一気に分かるものではありません。少しずつ、本気で、理解していくこと。そのために祈り求めていくこと。礼拝のいのちそのものを味わっていくこと。出エジプトで学んでいるのは、それをユダヤ人たちは40年もかけてやってきたということです。私たちも長い時間をかけて、人、神との関係の中で、それを学んでいくのです。
2009年11月14日土曜日
2009年11月13日金曜日
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