第15回目 出エジプト記20章1~12節(2009年6月14日)
「十戒を守る」
***神はこれらの言葉を仰せられた。(1)わたしの他に神々があってはならない。(2)自分のために偶像を造ってはならない。(3)主の御名をみだりに唱えてはならない。(4)安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。(5)あなたの父と母を敬え。…続… ***
十戒として大変有名な箇所です。キリスト教の三要文(さんようもん)として、十戒、使徒信条そして主の祈りの3つは、伝統的教会においてはとても大切にされてきました。改革派の教会では、これらを全て暗唱しているそうです。十戒、これは、知識として大事なだけではなく、私達の人生に大きく係る事柄です。
20章の3節が、第1戒。4~6節「偶像を造ってはならない」が第2戒、7節「みだりに唱えてはならない」が第3戒、8~11節「安息日について」が第4戒、12節「父と母を敬え」が第5戒、引き続いて13節が6戒、14節が7戒、15節が8戒、16節が9戒、17節が10戒、とするのが一般的ですが、十戒ではなく、全部で十二戒とする教会もあるようです。これは聖書のどこで区切るかの解釈の違いです。
4戒までは、神に対しての事がらで、それ以降は、人間同士の事がらです。絵画などでは、十戒は2枚の板に書きしるされ、一枚に1~4戒まで、もう一枚に5~10戒が載せられています。しかし、この分け方も教会によって違う場合があり、ローマ教会(カトリック)などは、1-3、4-10で分けています。ロシア正教会などもそのようです。
十戒といいますが、本来なら、「10の言葉」と訳すべきものです。これは「戒め」ではありません。戒めというと、これらを守らないなら神から罰せられ、呪われるのでは?と思ってしまいます。
今日の箇所では、第5戒「父母を敬え」までを入れました。これらは、強制的な戒めでしょうか、それとも自発的であることを主は求めておられるのでしょうか。20章3節には、「他の神々があってはならない」とありますが、罰則規定はありません。4節には、「偶像を造ってはならない」とあり、ここにはいろんな説明がついています。偶像とは、魚や木を神として拝むことですが、「わたしはねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・」とあります。厳しい処罰が待っているかのようです。ということは、これは、強制的なものなのでしょうか。であれば、あまりにもおぞましい戒めです。
この後、律法が出来上がって来ますが、この十戒は特に重要なものでした。契約の箱に入れられ、モーセがそれを持って歩きました。申命記にも再び出てきます。さて、これが、今の私達にとっては、どういう意味を成すのでしょう。
19世紀まで、出エジプトは「モーセが書いた書ではない」と言われた時もありました。創・出・レビ・民・申命記といわれる、旧約聖書の最初の部分は、モーセ五書と呼ばれ、モーセが書いたと今ではされています。しかし、預言者以降(BC200年位)に書かれたのではないかと言われた時期があったのです。このように緒論あること自体が、聖書を認めているといえます。
十戒とは、神に対するあなたの態度を指し示しています。社会的なことは出てきません。自分と神、自分と家族、自分と周りの人、という対象です。預言者の時代には、イスラエルという国を意識しているため、社会性が色濃く出てきます。そのため、やはり、預言者の時代よりもかなり昔に書かれたものではないかと思われます。
神は、ユダヤ人たちを訓練しようとするとき、いきなり上級者コースを与えられませんでした。まず与えられたのは、「計画」です。ユダヤ人を基にして、世界に広がっていく。それは、神の作戦であり、戦略でした。漸進的であり、少しずつ登っていきます。頂上はイエスです。頂きに登れば、全部見渡せて理解できるのです。少しずつ成長させ、前進させる。その中で、見えないところもあると分かりながら、前進していくのです。
20章2節、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」「主である」という、この言葉が中心になっています。ユダヤ人にとって、「私を解放した主」がテーマでした。よく分からないけれど、従ってみるという姿勢。これは、強制でもなければ、自発的ともいえない、中間くらいのもので、どちらも含んでいます。「信頼すると決めたのだから、主の語られることを受け止めてやってみます」というのが、信仰のスタンスと言えるでしょう。
3戒として、「主の御名をみだりに唱えてはならない」「罰せずにはおかない」とあります。英語の表現として、「畜生!」というような意味で、「OhMyGod!」「JesusChrist!」など叫ぶ場合があります。これらは、主の御名を軽くしているといえます。そして、こういったことが、やがて私達の生活を滅茶苦茶にしていきます。私達は、気をつけなければなりません。自分がやること、言う言葉が、神の御名を傷つけていないかどうか。
安息日厳守、というのは、たしかにこの時代、強制的であり、罰則の感覚がありました。安息日に焚き木を集めていて殺された、というような記述も聖書にあります。それは、この訓練の時期には、必要なことだったからです。
礼拝とは、とても厳粛なことです。私達を造られた方を礼拝するのですから。それが、内側から出てくるかどうかが問われています。遅刻していいのか、休んでいいのか、献金をけちっていいのか・・・それは、神とはどういう方で、その方に対してどうあるべきかという私達の姿勢です。それが、心の内から湧き上がっているかどうか、それが私達の人生を変えます。
民族紛争の戦時下、自分を守るために邪魔な民族を皆殺しにするということが繰り広げられる毎日を過ごしていると、子供たちは死体を見慣れているため、とても楽に殺人が出来るようになっていきます。私達には、それはある種の訓練を受けなければ、とても出来ないことです。神を本気で畏れるということも、培っていかなければ出来ないことです。
神のなさることに対応できなくなる時もあります。それが神の愛であり、訓練であっても、それに気付けない。信仰から離れ、試練を乗り越えることを諦めることも。しかし、神を私達がどう捉えるかで変わります。あらゆる瞬間に、それを味わうことをしなければ、私達の信仰生活は豊かにならないのです。
十戒は、社会性というよりも、私達の信仰の土台としておかれています。何よりも、神を第一にしたいということで教会が一致したいと願います。午前中の礼拝にどうしても出席できないという場合は、牧師が対応します。どこかで時間ないですか、と相談してください。共に、神の大きさを理解して歩んでいきましょう。共に、神を畏怖することを学んでいきたいと思います。
