2009年4月23日木曜日

主の喜ばれることを(出エジプト9)

第9回 出エジプト記15章1~21節(2009年3月8日)

「主の喜ばれることを」

***モーセとイスラエル人は主に向かってこの歌を歌った。アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手にとり、女達もタンバリンを持って踊りながら彼女について出てきた。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」***


ミリアムとは、モーセの姉です。ここは、出エジプトの中ではとても詞的であり美しい箇所といえます。とんでもないと思えるような神の業を目の当たりにし、溢れんばかりの感動に満たされている様子が伝わってきます。しかし、出エジプト全体から見るなら、この直後にイスラエルは神に対して文句を言いつづけるという現実があります。

イスラエルの何が問題だったのか?それを考えるのはいいことかもしれませんが、むしろ私たちはそれをどう捉えるべきかを考えていきたいと思います。

葦の海とは「紅海」のことです。エジプト軍から逃れたイスラエル人たちが、紅海の渇いた地面を渡り、岸辺に上がったと同時に海の水が戻って、多くのエジプト人が死に絶えました。それを確認の意味でもう一度記述しながら即興の歌を歌っています。タンバリンをもって、踊りながら、大変な喜びを見せています。助けられたこと、救われたことが土台であり、その中心は「神は偉大」という言葉です。

ある学者は、この箇所を1~6節、7~11節、12~16節の3つに分け、17,18節はエピローグだと主張します。それぞれ特徴があるからです。1つ1つに比喩やテーマが見えます。1つ目は、パロに対する神の圧倒的な力、優位性、強さです。2つ目は、自然や敵に対する支配性、そして3つ目は主の御手の大きさと聖なる方であること。統一しているのは、神はなんと偉大で、自然やあらゆる問題を支配し、聖い方であるかということです。それは、日本人の持ってきた信仰感とは違います。

日本人は、「問題が良きに変えられますように」と願い、その問題が解決した時には「ああ良かった」となり、どんな場合も中心にあるのは自分です。罪とは自己中心のことを指しますが、アダムとエバが善悪の実を食べた結果です。自分にとって都合がいいかどうかがテーマなのです。

出エジプト記に見るようなユダヤ人のリーダーたちにしても、新約聖書のリーダーたちにしても、どんな祈りを捧げているかを見るときに分かります。彼らはいつも、「神は偉大な方、全知全能」というところに持っていくのです。神が全能であるから、全てを解決してくれると理解してよいでしょう。

身の上に起きた事柄について、いいことであるなら「万歳」、悪いことなら「神は一体何をしているのか」となるのが日本人ではないでしょうか。今ある現状について、良いか悪いかではなく、ここに働く神の力を見ようとすること。それが今日のところに出てくるのです。

民はこれから成長していきます。この賛歌は神によって与えられ、神が語らせて下さいました。それは、単なる「助かって良かった」ということではなく、「神はなんと素晴らしい方なのか」というところです。

16節、「買いとられた」とは「贖われた」の意味です。贖(あがな)いとは、契約に基づく行為です。神が約束に基づいて、それに従い、民を買いとられたのです。それは奴隷から救い出すという意味であり、また、神のものとしたからにはずっと大事にするよという意味もあります。

ここで突然出てきたような話ではありません。長い歴史の中、アブラハムの頃より神と人間との契約があり、それは更新されてきたのです。「必ずあなたを救う」と。神の単なる気まぐれではなく、約束に基づいて成されたことでした。

3節、「主はいくさびと」とあります。これは神の戦いでした。詩篇など旧約聖書のいたるところに、万軍の主という表現が出てきます。神を「軍隊」としてとらえるのです。神は戦って下さっています。それは、私たちを取り戻すために。

私たちは神とつきあっているのです。結婚カウンセリングをするとき、お互いのどこが好きなのかという話になりますが、お互いのことなど何年つきあっても本当には分からないものです。しかし、つきあううちにどんどん分かっていきます。結婚は、全部分かった上でするものではありません。夫婦になって、少しずつ分かっていくのです。

神は、私たちを選び、奴隷状態から救い出された、そういうことを学ぶのです。イスラエルも少しずつ理解していきました。私たちは、相手がいい人か嫌な人かで決めて遮断してしまいます。どういうつきあいをしたらいいか分からないのが人間関係でも、相手がどういう人か理解していくことが大事です。

助かった、万歳!だけではなく、この方がどういう方なのか、その側面が見えたということ。そしてここから、いろんな試練が始まって行きます。その都度、神がどういう方か更に分かっていくのです。

もう一つの側面は、私たち自身が神の戦いに参加していけるということです。神の戦いであるということは、自分が中心ではありません。「あなたの人生をわたしが戦う」と神が言われるのです。それに私たちが参加するのです。神が困難も喜びも成し遂げられます。人間関係はある意味戦いです。しかしそれも神が成し遂げてくださるのです。

この世では、おまえが自分で考えて何とかしろと言われます。しかし神の戦いなのですから、人生の主役は神です。人間関係に悩むとき、どうして聖書の言葉を守れないのか、だから上手く行かないと思うことがあるかもしれません、しかし本質は、どうやったらそれを守れるかではなく、どうしたら主が喜ばれるかです。

「律法が守れない」と相手や自分を裁きます。それは、皆さんが主役になっているからです。自分を疎外する相手をなぜ?と思い、裁きます。しかし神が主役であるなら、その主役を喜ばせるために、自分は何をしたら良いのかを考えられるのです。そして、裁くのではなく、探ることが出来るようになります。

律法をどう守らせるかを教えるより、それを守る喜びを教える方がいいに決まっています。その喜びを伝えることが教育です。ユダヤ人は、今日の箇所で、神は偉大であり人生の主役であることを表明しました。神は何を喜ぶかを考えること、それが私たちの人生を生き生きとさせるのです。

人生は確かに大変な重労働です。学ぶことも働くことも、生きることそのものが大変です。しかしそれは、自分が主役でなければならないと思っているからです。一歩引いて、神が主役であり、「神様、何か手伝うことがあったら行ってくださいくらい」の気持ちでいた方がいいのかもしれません。

神が成してくださる人生。また、「自分に何が出来るか」という姿勢。それがキリストの体である教会が成長するために大切なことです。キリスト者の人生は脇役に徹することです。神の脇役に徹することがどんなに素晴らしいことかということを学んで行きたいと願います。