2009年7月23日木曜日

神をあがめる姿(出エジプト16)

第16回目 出エジプト記20章1~17節(2009年6月28日)

「神をあがめる姿」

*** …十戒の続き…(6)殺してはならない。(7)姦淫してはならない。(8)盗んではならない。(9)偽りの証言をしてはならない。(10)隣人のものを欲しがってはならない。***


前回は、人間から見た十戒を学びました。以前、私達と神との契約は双方向の片務契約だという話をしました。神が私達を一方的に愛して下さるという契約を結んでくださり、私達も神を一方的に愛するのです。

今日は、神から見た十戒を学びます。十戒の分け方ですが、20章2節を第1戒ではなく、前文とみなします。第4戒までは神のため、そして第5~10戒は人間同士のためのものです。1~3を神のため、4~10を人間のためと見る分け方もあります。伝統的には、1~4、5~10の分け方が指示されているので、今日はその上で話をします。

結婚式で読まれる聖書の箇所は、第1コリント13章。愛の章と呼ばれるところです。書かれていることを一つ一つやろうとするなら、こんなに出来るだろうか?と思います。一つでも間違えたら、罰せられるのだろうか?と。十戒の4番目は、日曜に仕事をしてはいけないとあります。「罰せずにはおかない」と。5戒は父母を敬えとありますが、もし敬わないならどうなるのでしょう?

アートバイブルを見ると、十戒は2枚の板に書かれています。1枚は神、もう一枚は人間のために。契約書とは、二者がお互いに結ぶものですから、決まって2枚あります。両方のために契約書は存在します。この1~10戒を、私達はどのように読んだらよいのでしょうか。

まず、神の側として考えて見ましょう。最初に、一番大事なものから与えるのではないでしょうか。1戒は一番大事なものです。ハングルで聖書の神とは、「ハナニム」ですが、これは、唯一の神という意味です。「ハナニム」といえば、すぐに聖書の神と分かるのです。日本語は、神も神々(偶像)も同じ字を使うため、その違いが分からなくなることがあります。これは、私達の生き方に深く係るほどの違いです。

創造主なる神。それは人生の土台です。私達が信じるべきお方であり、それ以外はそうではありません。比較宗教学という分野がありますが、聖書の神以外に「天地万物を造った」と宣言するものはありません。天理教は創造神といいますが、それが人間の人生や、愛、結婚制度に至るまでを作ったとはしていません。私達人生そのものを造ったとは言わない点で、聖書の神とは全く違います。

進化論的考えでは、人間を優劣で分けます。人間の中で価値あるものとそうでないものを分けるのです。神によって全てが造られたという前提が無いからです。そこから、いじめなどの問題が出てきます。

十戒が重層構造だとすると、1戒は土台です。これがないと、社会がダメになります。私達はいろんな場面で、「造られた」のだと考えるクセをつけましょう。イスラエルは40年かかってその訓練をされました。それがイスラエルという国の強さになったのです。そうして、2戒に繋がっていきます。

5節、「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」神の契約とは、Give&Takeで無いのではなかったのでしょうか?まるで因果応報であるかのように受け取れる言葉です。実は、新改訳聖書で「ねたむ神」とあるこの箇所は、新共同訳では「熱情の神」と訳されています。救うということについて、熱情を持っておられる神なのです。

イスラエルの家族は、集団の家族でした。その長は大きな力を持ち、家族をリードしていく責任があります。全体のリーダーはモーセですが、家族単位のリーダーは父であり、子らには徹底的に父に従わせました。父の責任はとても大きいです。なぜなら、父が間違ったら、家族全員が間違うからです。リーダーである父の間違いが与える影響がなんと大きく、長く続くことか。それが、三代、四代にまで及ぼし、の意味です。

リーダーの考え、価値観は、グループ全体に影響を及ぼします。リーダーが狂ったら、三代四代にまで、その影響が及ぶのです。イルカは自殺のような行為をすることがあります。群れがリーダーについていくのですが、間違って陸に上がってしまうために、群れ全体が陸に打ち上げられて死んでしまうのです。

反対に、リーダーが神と共に歩むなら、その恵みは千代にまで及ぶというのです。リーダーが導いたように、群れが導かれます。そうだとしたら、第3戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」は、リーダーが勝手な方向へ行かないようにという教えです。イエスは、「先生と呼ばれる人は裁きが大きい」といわれました。

みだりに唱えるとは、神について、簡単に言ってしまうことがないようにという意味です。あまりにも神の御心について簡単に断定してしまうことは、とても危ないことです。だからこそ、第4戒では、安息日を守って礼拝を捧げ、その歩みが狂わないようにと主が教えておられるのです。

安息日については、新約の世界に生きる私達にはこの限りではないと理解することが出来ます。なぜなら、イエスが来られてからは、聖なる日と聖でない日という区別が無くなったからです。パウロは、全てが聖いといいました。食物規定が無くなったのです。イエスは聖と俗を打ち壊されました。しかし、日曜に礼拝が捧げられないなら、どこかで代わりに神の言葉を聞きましょう。それが第1戒からの積み上げだからです。

5戒以降は、殺すな、偽証を立てるな、欲しがるな・・・と続きますが、これは、「殺さなくてもすみますよ」「偽証たてる必要がなくなりますよ」「欲しがることもなくなりますよ」というニュアンスで語られています。

私達はそれぞれ固有の生き方をしています。それぞれが主にあって、積み重ねていくなら、父母を敬わないということはありえなくなります。昔から、両親を敬うというのは難しいことでした。もし出来たとしたら、どんなに素敵な家族でしょう。しかし、土台から一つ一つ積み上げていく中で、それは出来ていくのです。これは主の約束です。「~しろ」と上から言っているのではなく、「それが出来るようになります」という約束なのです。

姦淫することも、盗むことも、することがなくなりますという、主の約束です。少しずつ変えられていくのです。ユダヤ人が40年かかって訓練されたように。十戒が私達に与える影響を、日々の信仰生活の中で見ていきたいと願います。

多少の修行も、少しは意味があるかもしれません。しかし一番大事なのは、神がどれだけ私達を愛しているかを知ることです。人生は、一朝一夕にコロっと変わるわけではありませんが、いつの日か、本当に良かったと思える日が来ます。それを楽しみにしつつ歩んでいきたいと願います。