第28回 出エジプト記31章1~18節(2009年11月8日)
「安息日を守るために」
***神はモーセに仰せられ、天幕を作るための技術者を任命された。また、話の最後に、安息日を厳守するように仰せられた。***
18節にある「二枚の板」。これは聖画にもよく登場しますが、「十戒」が書かれているものです。今まで、山の中で、モーセと神の話がどのように進んできたのかを学んできました。天幕の作り方について。また、その御用をする祭司の装束など、事細かに神は示されました。天幕は、高価な材料を用いて大変荘厳な造りにするように書かれています。
今日の個所の前半では、その技術者として素晴らしい人を任命しています。これは、現代でいえば、棟梁と副棟梁のようなものだといえます。
後半では、「安息日を守れ」ということを語り、そこで話を終えて、モーセは下山し、民のところへ帰っていきます。安息日の厳守が、神の最後の言葉でした。
安息日を守るとは何か。それは、休め、という神の命令です。その理由として、17節に「主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたから」とあります。
現代風にいえば、こうでしょうか。「日曜日は必ず休むように。休まなかったら死刑だ」と。そんな会社はありません。収益のために、出来れば日曜も出勤してほしいというのが本当のところでしょう。しかし、必ず休まなければならないのは、考えてみれば当たり前のことです。なぜなら、休まないなら、次の仕事が出来ないからです。
日本人は、働くことが一番大事だと教えられてきました。月月火水木金金といわれたように、休みは10日に1回でよい、いや、15日、1ヶ月に1回で良いのだと言われていました。日本人の牧師も、なかなか休暇をとれないということがありますが、これは、神の命令に背いて罪を犯しているということになります。なぜなら、休むということは生きるということだからです。
健康のために適度な運動をするように、と医者に言われると、毎日一生懸命やってしまう。それでは、体を壊してしまいます。また、記憶というものは、眠ることによって整理が出来るといいます。今、アメリカの教会学校では、睡眠の仕方について教えるそうです。教育上、睡眠がとても大切だというのです。ドイツには、眠りの神学という分野もあるそうで… とにかく、休むということがどれほど大事なことで、それをしなければ罰が与えられるのだと神が仰せられるのです。
休むとは、一体何でしょうか。安息日とは、どう関係しているのでしょう。私たちはこれまで、安息日とは神にささげる時間だと学んできました。安息日、すなわち礼拝を捧げるということは、動物などを捧げて殺し、自分の罪を赦してもらうという儀式であり、神にまみえる時でした。休むことと安息日の関係は一体何でしょうか。
マルコ12章には、やもめの献金についての記事があります。当時の最小単位であるレプタ2枚(今でいえば数十円でしょうか)を捧げた女性について、イエスは言われました。「この貧しいやもめは誰よりもたくさん献金しました。皆は有り余る中から入れたが、この人は自分の持っているものをすべて入れたからだ」と。
ここに登場するのは、貧しいやもめ、イエス、弟子たち、金持ちたち。当時、多くの献金が捧げられると、ドラを鳴らして賞賛するというような風習があったようです。イエスは、ここで、金持ちを悪く言っているわけではありません。やもめが一番たくさん入れたと言っているだけです。これは、彼女が、彼女自身の命をかけるものをそこに見つけていたということです。
献金は、額が問題なのではありません。私たちは、自分の命をかけるものに財を投げ打って捧げます。私たちがお金を一番かけるところが、私たちの命をかけているところだといえます。このやもめは、神に命をかけることを決断したのです。その日のもの全てを捧げました。神に期待し、全てをかけていくという姿勢がそこに表れているのです。
「平安と喜びを得るためにはどうしたらいいでしょうか」と問われたら、どう答えますか。お金をたくさん得ること。健康であること。どれも大事ですが、それだけでは足りないことを私たちは既に知っています。日本では、年間の自殺者が三万人を超えています。一方、アフガニスタンでは自殺をする人は一人もいません。明日生きていられるかわからないギリギリの日々の中で、自ら死のうという人はいないのです。日本では、生きていくのに困るということは殆どありません憲法で私たちの最低限度の生活は保障され、生活保護を受けることもできます。そのための市の職人がたくさんいます。自殺をする人の殆どは、普通の生活をしている人々です。
一つ言えることがあります。命をかけて何かを始めるなら、周りにあるものは見えなくなるのではないでしょうか。私たちには、それがあるでしょうか?世の人々に問うなら、命をかけるまでのことは、おそらく殆どの人が、ないと答えるでしょう。やもめは、神に命をかけました。だから全部を捧げました。彼女にも生活はありました。しかし、神が自分の今日、そして明日をになってくださると確信し、その証としての献金だったのです。
安息日とは、命をかけてそれを守るという確認のための礼拝です。神が私を造られました。私にしか生きられない人生を私が生き生きと生きることで、周囲の多くの人に良い影響を与えることができるよう、神がそのように私を造られました。どんな仕事でも、立場でも、何歳でも、何人でも、あなたがそこにいるということが、どれほど意味があって重要なことかということを知らなければなりません。
人生が上手くいかない。それは、神を拒絶して生きてきたからです。神に立ち戻り、自分にしか生きられない与えられた人生を生きるということ、それを安息日の礼拝で確かめるのです。だから安息日、礼拝はいのちそのものなのです。
ユダヤ人も、このときはまだ分かっていませんでした。だから、「安息日を守らないものは殺されなければならない」と神はいわれました。民数記には、安息日に焚き木を拾いにいってそれが見つかり、死刑になった人について記事があります。「だから、私たちはそこまでして礼拝を守らなければならない」…と読むなら、方向を間違えてしまいます。神は、命かけるものの確認のために、私たちに礼拝を備えて下さったのです。
本当の平安を持つためには、命がけのものを持つことです。自分を造ってくださった方を知り、その方と共に歩むということです。私たちの命がなくならないために、神にまみえよ、と主は仰せられるのです。
休め、と神が仰せられるのは、単に仕事を休んで寝て休む、ということだけではありません。もっと大切なのは、どう生きるかを確認することをしなければ、次への力とはならないということです。礼拝はいのちそのものであると、理解し続けていくのです。それは、右向け右で一気に分かるものではありません。少しずつ、本気で、理解していくこと。そのために祈り求めていくこと。礼拝のいのちそのものを味わっていくこと。出エジプトで学んでいるのは、それをユダヤ人たちは40年もかけてやってきたということです。私たちも長い時間をかけて、人、神との関係の中で、それを学んでいくのです。
2009年11月15日日曜日
2009年11月14日土曜日
2009年11月13日金曜日
2009年11月12日木曜日
神に感謝し捧げる(出エジプト25)
第25回 出エジプト記25章1節~22節(2009年10月18日)
「神に感謝し捧げる」
***神はモーセに告げて仰せられた。「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心からささげるひとから、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」そしてどのような奉納物を受け取るか、詳細に定められた。***
ここでは、神を礼拝する場所である「幕屋」の設計図が詳細に示されています。一見して、つまらないと感じられる個所かもしれません。しかしとても大事なことなので、大きくスペースを割いて書かれています。
途中に出てくるケルブとは、ケルビムの単数形であり契約の箱を守るものです。この幕屋とは一体何なのでしょう。現代に生きる私たちにとって、どんな意味のあるものなのでしょうか。
新約聖書ローマ人への手紙15章4節「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」ヘブル人への手紙9章23節~「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。・・・」
幕屋とはまず一つ目に、神と出会う場所でした。「会見の幕屋」と言われます。二つ目に、至聖所であり、十戒とアロンの杖の保管場所でありました。3つ目には、いけにえを捧げる場所でした。このようにして、神に礼拝を捧げる場所が幕屋でした。
実は、もう少し意味があります。先ほどのヘブル人への手紙には、イエスは模型の聖所に入ったのではなく、
天そのものに入られたのだとあります。旧約聖書の時代、イエスはまだ現れていませんでした。幕屋は、それそのものが、神の「影」でした。影とは、本物は別にあって、それが映っているものです。影を見ると、本物があることが分かります。
幕屋で行われることを見て、人々は、神がおられることが分かったのです。多くの大事なことは目に見えません。しかし、その実体を知るために、人は神を求め、教会につながります。「見えれば安心する」ということでは無いと、ユダヤ人たちは分かっていたのでしょう。奴隷状態だったエジプトから出てきて、たくさん物を持っていたら安心出来るということではないのだと。出エジプトという出来事を通して、神がいることこそが安心なのだと教えられていきます。
テレビで、ある評論家が、現代アジアの状態をこのように言っていました。日本人は、お金や物がたくさんあったら幸せというのは幻想であると既に気付いている。韓国は、分かり始めているけれど、突っ走っている。中国は、まだそれに気付いていない。
ユダヤ人は、本当に信頼できるのは物ではないのだということを、40年かけて学んでいきます。影を見て、神がおられると分かっていったのです。たびたび、民たちは神に不平、文句を言います。しかし、神は姿をあらわされません。人や物事を通してご自分を示されました。しかし、まだまだ足りないと人々はつぶやきます。
幕屋は、影です。25章の最初で、奉納物について神は「心から捧げる人たちからとれ」と言われました。影を見て生きる人が、捧げて造るのが幕屋でした。これは強制ではありません。物やお金ではなく、神がおられないならダメなのだと知った人が、捧げて影を造ること、そこから始めましょうと聖書は言っているのです。
信じるということは、私たちが捧げるところから始まります。約2000年前、イエスが来られて十字架にかかられたのは事実です。キリストの影は、教会です。教会がある以上、キリストは今もおられ、生きて働いておられます。
それぞれの人生には艱難があります。しかし、その中で神が何を教えようとしておられるかを知り、生き生きと生きることが出来るなら、イエスがその人におられる証拠であり、それは影となります。
礼拝を捧げるということ。その時間を聖別しようとしてきた人たちによって世界は成り立ってきました。日曜に、礼拝に行くよりもアルバイトをして稼いだ方がいいかも、と私たちは思うかもしれません。しかし、杉原千畝さん、新渡戸稲造さんなど、それぞれの立場でクリスチャンとして大変良い働きをされた方々がおられます。田中正造さんがクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼がいつも聖書に親しみ、マタイ伝に生きたということは知られています。
学問や医学など、もともとは、全て教会から、捧げるというところから始まりました。人生を主に捧げた人々から始まっていったのです。人生を主に捧げるとは、キリストの思いで生きるということです。
ユダヤ人は、幕屋から始めました。最上のものを捧げるために、とても細かく決めごとをしました。教会のミッションは、礼拝、交わり、学び、奉仕、宣教に献身していくことです。幕屋には、全てそれが集まっているものです。捧げるとは、私たちがより少なくなることではありません。受けるより与えることが幸いであるとイエスは語りました。私たちにはキリストが住んでいます。キリストの影を、私たちが、生き生きと生きることで、世に対して良い影響を与えることが出来ます。
幕屋は、大きな出発点でした。同じように、私たちの教会も出発の原点です。そこで生き方を教えられ、私たちの日々の現場で、周りの人々が変えられていくことを体験して行きましょう。
「神に感謝し捧げる」
***神はモーセに告げて仰せられた。「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心からささげるひとから、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」そしてどのような奉納物を受け取るか、詳細に定められた。***
ここでは、神を礼拝する場所である「幕屋」の設計図が詳細に示されています。一見して、つまらないと感じられる個所かもしれません。しかしとても大事なことなので、大きくスペースを割いて書かれています。
途中に出てくるケルブとは、ケルビムの単数形であり契約の箱を守るものです。この幕屋とは一体何なのでしょう。現代に生きる私たちにとって、どんな意味のあるものなのでしょうか。
新約聖書ローマ人への手紙15章4節「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」ヘブル人への手紙9章23節~「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。・・・」
幕屋とはまず一つ目に、神と出会う場所でした。「会見の幕屋」と言われます。二つ目に、至聖所であり、十戒とアロンの杖の保管場所でありました。3つ目には、いけにえを捧げる場所でした。このようにして、神に礼拝を捧げる場所が幕屋でした。
実は、もう少し意味があります。先ほどのヘブル人への手紙には、イエスは模型の聖所に入ったのではなく、
天そのものに入られたのだとあります。旧約聖書の時代、イエスはまだ現れていませんでした。幕屋は、それそのものが、神の「影」でした。影とは、本物は別にあって、それが映っているものです。影を見ると、本物があることが分かります。
幕屋で行われることを見て、人々は、神がおられることが分かったのです。多くの大事なことは目に見えません。しかし、その実体を知るために、人は神を求め、教会につながります。「見えれば安心する」ということでは無いと、ユダヤ人たちは分かっていたのでしょう。奴隷状態だったエジプトから出てきて、たくさん物を持っていたら安心出来るということではないのだと。出エジプトという出来事を通して、神がいることこそが安心なのだと教えられていきます。
テレビで、ある評論家が、現代アジアの状態をこのように言っていました。日本人は、お金や物がたくさんあったら幸せというのは幻想であると既に気付いている。韓国は、分かり始めているけれど、突っ走っている。中国は、まだそれに気付いていない。
ユダヤ人は、本当に信頼できるのは物ではないのだということを、40年かけて学んでいきます。影を見て、神がおられると分かっていったのです。たびたび、民たちは神に不平、文句を言います。しかし、神は姿をあらわされません。人や物事を通してご自分を示されました。しかし、まだまだ足りないと人々はつぶやきます。
幕屋は、影です。25章の最初で、奉納物について神は「心から捧げる人たちからとれ」と言われました。影を見て生きる人が、捧げて造るのが幕屋でした。これは強制ではありません。物やお金ではなく、神がおられないならダメなのだと知った人が、捧げて影を造ること、そこから始めましょうと聖書は言っているのです。
信じるということは、私たちが捧げるところから始まります。約2000年前、イエスが来られて十字架にかかられたのは事実です。キリストの影は、教会です。教会がある以上、キリストは今もおられ、生きて働いておられます。
それぞれの人生には艱難があります。しかし、その中で神が何を教えようとしておられるかを知り、生き生きと生きることが出来るなら、イエスがその人におられる証拠であり、それは影となります。
礼拝を捧げるということ。その時間を聖別しようとしてきた人たちによって世界は成り立ってきました。日曜に、礼拝に行くよりもアルバイトをして稼いだ方がいいかも、と私たちは思うかもしれません。しかし、杉原千畝さん、新渡戸稲造さんなど、それぞれの立場でクリスチャンとして大変良い働きをされた方々がおられます。田中正造さんがクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼がいつも聖書に親しみ、マタイ伝に生きたということは知られています。
学問や医学など、もともとは、全て教会から、捧げるというところから始まりました。人生を主に捧げた人々から始まっていったのです。人生を主に捧げるとは、キリストの思いで生きるということです。
ユダヤ人は、幕屋から始めました。最上のものを捧げるために、とても細かく決めごとをしました。教会のミッションは、礼拝、交わり、学び、奉仕、宣教に献身していくことです。幕屋には、全てそれが集まっているものです。捧げるとは、私たちがより少なくなることではありません。受けるより与えることが幸いであるとイエスは語りました。私たちにはキリストが住んでいます。キリストの影を、私たちが、生き生きと生きることで、世に対して良い影響を与えることが出来ます。
幕屋は、大きな出発点でした。同じように、私たちの教会も出発の原点です。そこで生き方を教えられ、私たちの日々の現場で、周りの人々が変えられていくことを体験して行きましょう。
2009年11月11日水曜日
2009年11月10日火曜日
神の約束を学ぶ(出エジプト23)
第23回 出エジプト23章10~33節(2009年10月4日)
「神の約束を学ぶ」
***引き続き神は、安息年、安息日、祭り、また違反に対する警告などの定めについて語られた。***
休むということは大切です。私たちが「休めない」と感じる時、それは、不安から来ているかもしれません。仕事をしなければいけない、休んでいる場合ではないと自分をせきたてるのです。
聖書は、6日間働いて1日休むように勧めています。7分の1は休めということです。昔は、半月または一月に1日休みということが一般的でした。神は私たちに「休め」、また約束として「大丈夫」と語られるのです。しかし人間側の心としては、「本当に休んでいいものかどうか」「新婚旅行から帰ったら机が無いのではないか」などと不安に思うものです。
14節から、年に3度の祭りを行うようにとあります。1つ目は種を入れないパンの祭り。これは、過ぎ越しの祭りともいわれ、モーセとユダヤの民が災いから守られ出エジプトしたことを記念して行われます。2つ目は初穂の刈入れの祭り。これは現在のペンテコステ(聖霊降臨)を指しており、時期としてはイースターの後に行われます。3つ目は収穫祭。これらの祭りに、大麦、小麦、ぶどう・オリーブをそれぞれ献げよといわれました。17節「男子は主の前に」とありますが、男子とは代表の意味です。
祭りというと、献げものをして、収穫を祈るものだと考えるかもしれませんが、逆です。収穫を下さってありがとう、というのがその意味です。「大丈夫」というのが最初なのです。大丈夫、あなたはお祭りが出来るようになる。祭りの意味は、その都度、感謝することが出来るように、ということです。「何も持たずに前へ出てはならない」というのは、「収穫の多いのに気付きなさい」ということなのです。それは、こんなに沢山与えられていたのだという発見です。
祭りとは、「礼拝」と考えることが出来ます。礼拝とは、聖書のお話を聞くことが全てではありません。1週間それぞれが歩んできて、物質的精神的に、どんなに神に支えられ愛されてきたかを確認し、感謝を献げる、それが礼拝です。7日に1日休んで礼拝を捧げよというのは、心の休みをとりなさいということです。人間はすぐ何でも忘れてしまいます。週に一度集まって、礼拝を献げ、聖書を読み讃美歌を歌うときに、それを確認することが出来るのです。
結婚式でするお話ですが、今まで主語が「私は」だったものが、「私たちは」に変わる、それが結婚です。クリスチャンもある意味そうです。イエスに出会ってから、「私たちは」に変わり、それが礼拝の姿です。キリストに愛されている「私たち」、その感謝をささげるのです。
19節、「子ヤギを、その母親の乳で煮てはならない」とあります。これは、異教の習慣だったようです。私たちは、習慣・文化の中で、それが普通と思いこみつつ、実はとんでもない方向へ走っていくということがあります。カルトにのめりこむ人々は、自分ではその異常さに気づくことが出来ません。普通と思っているのです。スイカ割りをするときに、目隠しをされて歩こうとすると、自分ではまっすぐ歩いているつもりが、とんでもない方向へ向かって行くようなものです。
礼拝を献げるということは、私たちの感覚がともすれば狂ってしまうのを、安定させる役割もあるのです。20節、「わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」1週間のうち1日の礼拝。それは、世の人には大変なことだと映るかもしれません。しかし、主は、物質的・霊的・精神的に祝福すると明確に約束して下さっています。だから、安心しなさいと語られるのです。
とはいえ、どんなに主イエスを思っていても、外れていくということはあります。それがサタンの仕事です。クリスチャンでなくても、素晴らしいことが出来る人はこの世に大勢います。そうなると、イエスが神であると信じる必要がどこにあるのか、と思えることがあるかもしれません。私たちが外れていくとき、その外れ方はとても微妙なものです。「これもいいのでは?」と、人間の判断で少しずつ外れ、狂っていくのです。しかし、その時に神から問われます。外れないために、私たちを造った方は何と言われるのか、十字架のイエスが何といわれるかを私たちは聞かなければなりません。その方を知り続けることをしなければ、私たちは簡単にサタンの誘惑に陥っていくでしょう。
32節、他の神々と契約を結んではならないと語られます。主なる神は、私たちを必ず祝福すると約束されました。ただ単に、これをしてはダメだ、と言われたのではありません。ユダヤの民は、世界中どこにいても、毎日同じ聖書の個所を読み続けています。それを4000年の間も続けてきたのです。神は、約束なしには、言葉を発せられない方です。全てのことに意味があり、また、主の約束がそこにあるのです。
「神の約束を学ぶ」
***引き続き神は、安息年、安息日、祭り、また違反に対する警告などの定めについて語られた。***
休むということは大切です。私たちが「休めない」と感じる時、それは、不安から来ているかもしれません。仕事をしなければいけない、休んでいる場合ではないと自分をせきたてるのです。
聖書は、6日間働いて1日休むように勧めています。7分の1は休めということです。昔は、半月または一月に1日休みということが一般的でした。神は私たちに「休め」、また約束として「大丈夫」と語られるのです。しかし人間側の心としては、「本当に休んでいいものかどうか」「新婚旅行から帰ったら机が無いのではないか」などと不安に思うものです。
14節から、年に3度の祭りを行うようにとあります。1つ目は種を入れないパンの祭り。これは、過ぎ越しの祭りともいわれ、モーセとユダヤの民が災いから守られ出エジプトしたことを記念して行われます。2つ目は初穂の刈入れの祭り。これは現在のペンテコステ(聖霊降臨)を指しており、時期としてはイースターの後に行われます。3つ目は収穫祭。これらの祭りに、大麦、小麦、ぶどう・オリーブをそれぞれ献げよといわれました。17節「男子は主の前に」とありますが、男子とは代表の意味です。
祭りというと、献げものをして、収穫を祈るものだと考えるかもしれませんが、逆です。収穫を下さってありがとう、というのがその意味です。「大丈夫」というのが最初なのです。大丈夫、あなたはお祭りが出来るようになる。祭りの意味は、その都度、感謝することが出来るように、ということです。「何も持たずに前へ出てはならない」というのは、「収穫の多いのに気付きなさい」ということなのです。それは、こんなに沢山与えられていたのだという発見です。
祭りとは、「礼拝」と考えることが出来ます。礼拝とは、聖書のお話を聞くことが全てではありません。1週間それぞれが歩んできて、物質的精神的に、どんなに神に支えられ愛されてきたかを確認し、感謝を献げる、それが礼拝です。7日に1日休んで礼拝を捧げよというのは、心の休みをとりなさいということです。人間はすぐ何でも忘れてしまいます。週に一度集まって、礼拝を献げ、聖書を読み讃美歌を歌うときに、それを確認することが出来るのです。
結婚式でするお話ですが、今まで主語が「私は」だったものが、「私たちは」に変わる、それが結婚です。クリスチャンもある意味そうです。イエスに出会ってから、「私たちは」に変わり、それが礼拝の姿です。キリストに愛されている「私たち」、その感謝をささげるのです。
19節、「子ヤギを、その母親の乳で煮てはならない」とあります。これは、異教の習慣だったようです。私たちは、習慣・文化の中で、それが普通と思いこみつつ、実はとんでもない方向へ走っていくということがあります。カルトにのめりこむ人々は、自分ではその異常さに気づくことが出来ません。普通と思っているのです。スイカ割りをするときに、目隠しをされて歩こうとすると、自分ではまっすぐ歩いているつもりが、とんでもない方向へ向かって行くようなものです。
礼拝を献げるということは、私たちの感覚がともすれば狂ってしまうのを、安定させる役割もあるのです。20節、「わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」1週間のうち1日の礼拝。それは、世の人には大変なことだと映るかもしれません。しかし、主は、物質的・霊的・精神的に祝福すると明確に約束して下さっています。だから、安心しなさいと語られるのです。
とはいえ、どんなに主イエスを思っていても、外れていくということはあります。それがサタンの仕事です。クリスチャンでなくても、素晴らしいことが出来る人はこの世に大勢います。そうなると、イエスが神であると信じる必要がどこにあるのか、と思えることがあるかもしれません。私たちが外れていくとき、その外れ方はとても微妙なものです。「これもいいのでは?」と、人間の判断で少しずつ外れ、狂っていくのです。しかし、その時に神から問われます。外れないために、私たちを造った方は何と言われるのか、十字架のイエスが何といわれるかを私たちは聞かなければなりません。その方を知り続けることをしなければ、私たちは簡単にサタンの誘惑に陥っていくでしょう。
32節、他の神々と契約を結んではならないと語られます。主なる神は、私たちを必ず祝福すると約束されました。ただ単に、これをしてはダメだ、と言われたのではありません。ユダヤの民は、世界中どこにいても、毎日同じ聖書の個所を読み続けています。それを4000年の間も続けてきたのです。神は、約束なしには、言葉を発せられない方です。全てのことに意味があり、また、主の約束がそこにあるのです。
2009年11月9日月曜日
正義に生きよう(出エジプト22)
第22回 出エジプト記23章1~9節(2009年9月27日)
「正義に生きよう」
***引き続き、主の掟について。訴訟において、権力者に偏るのも、貧しい人を特に重んずることも良くないとされるなど、事細かに定められた。***
主はルールを定められました。それは、民が一つの方向へ向かうためにとても大切なことでした。1節、「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」とありますが、これは一体、法律なのか、それとも情けに関わってくるものなのか、と思いませんか。前回、殺人罪についての規定から学びましたが、今回は訴訟についての学びです。
証人とは、法律用語です。悪意とは、相手を陥れてやろう…という意味もありますが、「意識してなくて」という意味も入ります。故意過失という言葉があり、良く分からないのにいい加減な証言をしてはいけないということも含んでいるのです。そのいい加減さが、相手を不利な立場に陥れていくからです。
たとえば、最近問題になっている痴漢冤罪など。本当はその人はやっていないのに、まるで見たかのような気になっていい加減な証言をするということがあります。交通事故で万が一加害者になったら、事故現場にいって一日考えることが大切です。本当のところ自分はどうだったのか、信号は青だったのか赤だったのか。でなければ、もしかして自分に過失がないところまで、流れによって及んできてしまう可能性があります。このように、悪意だけでなく、「いい加減さ」も大変困ることです。
2節、「悪を行う権力者の側に立ってはならない。」とあります。普通に考えるなら、権力者側に付く方が良いからです。なぜなら、権力者に対して私たちはNoと言えません。ともすれば悪を行う権力者の側に立ってしまう、そうなりかねない私たちだから、聖書はこう書くのです。人気のある指導者であったとしても、偏ってはいけません。日本の政治でいえば、あの小泉人気は一種の集団ヒステリーであり、異常でした。
3節、「貧しい人を特に重んじてもいけない」とあるのが、聖書のすごいところです。当時の法律にこういう文言はありません。情として、貧しい側に立ちたいとも私たちは思ってしまいます。ここで教えられるのは、聖書が教えるのは、「公平」ではなく、「公正」だということです。
公正とは公に正しいと書きますが、それは神が真ん中にいるかどうか。神の発想で物事をとらえられるかどうかということです。私たちの概念は常に「公平」です。ところで、公平とは、そんなに良いことばかりでしょうか?個性、環境、男女、国籍、全てにおいて違いばかりの私たちです。同じ教育を受けたとしても、それぞれ結果には差が出るのです。聖書では、実は公平という概念はあまり出てきません。
神の発想とは何でしょうか。4~5節、「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」とあります。敵の牛やろばです。起こしてやりたくなくても、起こすのです。「それは自己責任だから、私は知らない」と言うなら、それが神の目に正しいかどうか?その人物を憎んでいたとしても、そのロバは神の作品であり、それを管理しているその人がいる、ということ、それが神の発想です。ロバの気持ちを代弁するなら、「私も神の作品だから、大切にして下さい」というところでしょうか。
読み進んで行くと、土地も休ませるようにと、聖書は連作を禁止しています。ここでは、「土地が叫ぶ」という言語が用いられています。
世の中は動物愛護の風潮が高まっています。同じ哺乳類でも、牛は食べても良くて、イルカは食べてはいけない。何故かといえば、牛は馬鹿でイルカは頭がいいからと言います。聖書によれば、そもそも全ての動物が草食でした。そしてある時、食物としてこれを与えると神が宣言されました。人間はその頭として、動物は大切にしなければならないが、同時に管理することが許されたのです。神の正しさの中で、動物を大事にし、また、食べても良いとされたということです。
イルカは頭が良いから食べてはいけないという考えは、公平の概念から来ています。能力のないものは食べても良い、平均値より低いのだから、という考えです。平等とは私たちにとって大事ではありますが、公平と公正その両方を分けて考えなければなりません。公正、つまり神の言葉を基準に考えるのです。
6節~8節は、正しい裁判についての記述です。賄賂がどんなに世の中をダメにしているでしょうか。出エジプトして、何百万の人が共に一つの目的に向かうとき、こういったことが一番悪いことです。それは単に、ルールを守ったら良いという問題ではありません。こういうこと、つまり、神の言葉をおきざりにし、人間中心主義ヒューマニズムに陥っていくことが、実はとても怖いことなのです。
ある教会では、ヒューマニズムを大切にし、社会活動に専念するところもあります。しかし、真の意味で私たちが生き生きと生きるためには、神の公正がこれであるとはっきり伝えていくことの方が大事です。人間中心ではなく、神中心だという、その公正です。
自分の正しさ感で、貧しい人や権力者に偏るのではなく、常に神の方だけに向いていきましょう。神の言葉に身を置いて、一つ一つのことを生活の中で、神が何を言わんとしているかを問い続けていきましょう。
「正義に生きよう」
***引き続き、主の掟について。訴訟において、権力者に偏るのも、貧しい人を特に重んずることも良くないとされるなど、事細かに定められた。***
主はルールを定められました。それは、民が一つの方向へ向かうためにとても大切なことでした。1節、「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」とありますが、これは一体、法律なのか、それとも情けに関わってくるものなのか、と思いませんか。前回、殺人罪についての規定から学びましたが、今回は訴訟についての学びです。
証人とは、法律用語です。悪意とは、相手を陥れてやろう…という意味もありますが、「意識してなくて」という意味も入ります。故意過失という言葉があり、良く分からないのにいい加減な証言をしてはいけないということも含んでいるのです。そのいい加減さが、相手を不利な立場に陥れていくからです。
たとえば、最近問題になっている痴漢冤罪など。本当はその人はやっていないのに、まるで見たかのような気になっていい加減な証言をするということがあります。交通事故で万が一加害者になったら、事故現場にいって一日考えることが大切です。本当のところ自分はどうだったのか、信号は青だったのか赤だったのか。でなければ、もしかして自分に過失がないところまで、流れによって及んできてしまう可能性があります。このように、悪意だけでなく、「いい加減さ」も大変困ることです。
2節、「悪を行う権力者の側に立ってはならない。」とあります。普通に考えるなら、権力者側に付く方が良いからです。なぜなら、権力者に対して私たちはNoと言えません。ともすれば悪を行う権力者の側に立ってしまう、そうなりかねない私たちだから、聖書はこう書くのです。人気のある指導者であったとしても、偏ってはいけません。日本の政治でいえば、あの小泉人気は一種の集団ヒステリーであり、異常でした。
3節、「貧しい人を特に重んじてもいけない」とあるのが、聖書のすごいところです。当時の法律にこういう文言はありません。情として、貧しい側に立ちたいとも私たちは思ってしまいます。ここで教えられるのは、聖書が教えるのは、「公平」ではなく、「公正」だということです。
公正とは公に正しいと書きますが、それは神が真ん中にいるかどうか。神の発想で物事をとらえられるかどうかということです。私たちの概念は常に「公平」です。ところで、公平とは、そんなに良いことばかりでしょうか?個性、環境、男女、国籍、全てにおいて違いばかりの私たちです。同じ教育を受けたとしても、それぞれ結果には差が出るのです。聖書では、実は公平という概念はあまり出てきません。
神の発想とは何でしょうか。4~5節、「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」とあります。敵の牛やろばです。起こしてやりたくなくても、起こすのです。「それは自己責任だから、私は知らない」と言うなら、それが神の目に正しいかどうか?その人物を憎んでいたとしても、そのロバは神の作品であり、それを管理しているその人がいる、ということ、それが神の発想です。ロバの気持ちを代弁するなら、「私も神の作品だから、大切にして下さい」というところでしょうか。
読み進んで行くと、土地も休ませるようにと、聖書は連作を禁止しています。ここでは、「土地が叫ぶ」という言語が用いられています。
世の中は動物愛護の風潮が高まっています。同じ哺乳類でも、牛は食べても良くて、イルカは食べてはいけない。何故かといえば、牛は馬鹿でイルカは頭がいいからと言います。聖書によれば、そもそも全ての動物が草食でした。そしてある時、食物としてこれを与えると神が宣言されました。人間はその頭として、動物は大切にしなければならないが、同時に管理することが許されたのです。神の正しさの中で、動物を大事にし、また、食べても良いとされたということです。
イルカは頭が良いから食べてはいけないという考えは、公平の概念から来ています。能力のないものは食べても良い、平均値より低いのだから、という考えです。平等とは私たちにとって大事ではありますが、公平と公正その両方を分けて考えなければなりません。公正、つまり神の言葉を基準に考えるのです。
6節~8節は、正しい裁判についての記述です。賄賂がどんなに世の中をダメにしているでしょうか。出エジプトして、何百万の人が共に一つの目的に向かうとき、こういったことが一番悪いことです。それは単に、ルールを守ったら良いという問題ではありません。こういうこと、つまり、神の言葉をおきざりにし、人間中心主義ヒューマニズムに陥っていくことが、実はとても怖いことなのです。
ある教会では、ヒューマニズムを大切にし、社会活動に専念するところもあります。しかし、真の意味で私たちが生き生きと生きるためには、神の公正がこれであるとはっきり伝えていくことの方が大事です。人間中心ではなく、神中心だという、その公正です。
自分の正しさ感で、貧しい人や権力者に偏るのではなく、常に神の方だけに向いていきましょう。神の言葉に身を置いて、一つ一つのことを生活の中で、神が何を言わんとしているかを問い続けていきましょう。
2009年11月8日日曜日
弱きものを苦しめないために(出エジプト21)
第21回 出エジプト記22章21~31節(2009年9月13日)
「弱きものを苦しめないために」
***次に神は、人道的律法について仰せられた。寄留者、寡婦や孤児を苦しめてはならないこと、また貧しい者に対して高利貸しのようになってはならないことなど。祭儀的律法として、収穫と葡萄酒の奉献、初子をささげることなどについて仰せられた。***
在留異国人、すなわちユダヤ人でない人についてどう対応すべきかを書いています。外国人を助けるようにと神が命令しているのです。かつて戦時中、日本はフィリピンなど東南アジアの人々を酷く扱いました。シンガポールには、その記念館などもあるそうです。この個所は、フィリピン人が日本を、日本がフィリピンを理解するような感じかもしれません。以前は殺しあうほど憎み合っていた関係です。
中国では、人種が違うということで問題が起きています。地域文化の違いが諍いを生むのです。マタイ23章には、世の終わりの前兆として民族同士で対立し抗争が起こるとあります。ソ連が崩壊した時には、民族がこんなにも憎み合っていたのかと驚かされました。
在留異国人、それは、ユダヤにとってやっかいな存在だったでしょう。彼らは、神を持っていませんでした。しかし、彼らを苦しめてはならないと神は語ります。なぜなら、「あなた方もかつてはそうだったから」と。やられたらやり返す、というのが人間です。虐待の連鎖というものが、親子関係で何代にも渡って続きます。人間にはそういうものがあるのです。「苦しめてはならない」という言葉、そこからは、私たちの中にそれが元々あるのだと読み取ることが出来ます。
ある実験結果があります。ロールプレイで、裁判する側と、される側をそれぞれが演じます。刑の執行の場面で、あるラインを越えたら死んでしまうと伝えてあるにもかかわらず、裁く側にたった人は、それをやってしまうのです。自分が優位に立つということは、そういう心理を生みます。
「外国人を守りなさい」とは仰せられませんでした。「苦しめてはならない」という言葉は、二重否定です。立場が違うときに、私たちは相手を苦しめたくなるという性質があります。それが私たちの罪です。私たちは、虐げる側になっていきやすいということを神がご存じで、自分の罪に目を止めるようにという意味があるのでしょう。
今、あるグループで、「ユダヤ式教育法」について学んでいます。」ユダヤ人と他の民族の違いは何か、というようなことから学ぶのですが、ユダヤ人の人口は現在1400万ほど、世界全人口の0.3%ほどです。ところが、ノーベル賞受賞する全体の20%が、ユダヤ人だというのです。
この「ユダヤ式教育法」という本は、ユダヤ人の国連大使が書きました。彼は言います。日本人は優秀だが、ユダヤ人との決定的な違いがあると。それは、ユダヤには旧約の時代から義務教育があり、親の義務としてそれをしていたことであると。その教育とは、神が子らにどういうことを望んでいるかを教えることであると。それが分かったなら、子供たちは、学問・芸術に興味を持ち始めるのです。数学一つとっても、神の力がどう働いているのかを、その中で知ることが出来るのです。
「苦しめてはならない」。私たちも、先祖も、苦しめられてきました。私たちの中にも、周りの人を苦しめてしまう性質があります。その罪を認めること。そして、主により頼んで、生き生きと生きるということについて勉強していきましょう。ユダヤ人たちは、それを200年とか1000年とかのスパンでやってきたのです。
神がどんなに人を愛しているかを知る。また、私たちには罪があって、愛することが出来ないこと。だからこそ神に頼っていけばいいのです。
24節、高利貸しのようであってはならないとあります。利息をとってはダメだと。新約聖書でイエスは「金を貸すより、あげてしまいなさい」と語られます。これは当時としては特異な教えです。ハムラビ法典では、利子をとれと書かれていました。聖書がこう言うのは、利息をとるということ、こういったことから社会が崩れていくからです。
28節、神をののしってはならない、あなたの民の代表者を呪ってはならない、とあります。新政権となりましたが、人間のやることである以上、それほど期待できるわけではありません。しかし、神を理解し、信じて、リーダーを信じて邁進していくとき、それぞれが祝福されるのだというのが律法の教えです。何々してはならない、というのが律法の趣旨かのように誤解されていますが、違います。神が守るという約束が、律法なのです。
「弱きものを苦しめないために」
***次に神は、人道的律法について仰せられた。寄留者、寡婦や孤児を苦しめてはならないこと、また貧しい者に対して高利貸しのようになってはならないことなど。祭儀的律法として、収穫と葡萄酒の奉献、初子をささげることなどについて仰せられた。***
在留異国人、すなわちユダヤ人でない人についてどう対応すべきかを書いています。外国人を助けるようにと神が命令しているのです。かつて戦時中、日本はフィリピンなど東南アジアの人々を酷く扱いました。シンガポールには、その記念館などもあるそうです。この個所は、フィリピン人が日本を、日本がフィリピンを理解するような感じかもしれません。以前は殺しあうほど憎み合っていた関係です。
中国では、人種が違うということで問題が起きています。地域文化の違いが諍いを生むのです。マタイ23章には、世の終わりの前兆として民族同士で対立し抗争が起こるとあります。ソ連が崩壊した時には、民族がこんなにも憎み合っていたのかと驚かされました。
在留異国人、それは、ユダヤにとってやっかいな存在だったでしょう。彼らは、神を持っていませんでした。しかし、彼らを苦しめてはならないと神は語ります。なぜなら、「あなた方もかつてはそうだったから」と。やられたらやり返す、というのが人間です。虐待の連鎖というものが、親子関係で何代にも渡って続きます。人間にはそういうものがあるのです。「苦しめてはならない」という言葉、そこからは、私たちの中にそれが元々あるのだと読み取ることが出来ます。
ある実験結果があります。ロールプレイで、裁判する側と、される側をそれぞれが演じます。刑の執行の場面で、あるラインを越えたら死んでしまうと伝えてあるにもかかわらず、裁く側にたった人は、それをやってしまうのです。自分が優位に立つということは、そういう心理を生みます。
「外国人を守りなさい」とは仰せられませんでした。「苦しめてはならない」という言葉は、二重否定です。立場が違うときに、私たちは相手を苦しめたくなるという性質があります。それが私たちの罪です。私たちは、虐げる側になっていきやすいということを神がご存じで、自分の罪に目を止めるようにという意味があるのでしょう。
今、あるグループで、「ユダヤ式教育法」について学んでいます。」ユダヤ人と他の民族の違いは何か、というようなことから学ぶのですが、ユダヤ人の人口は現在1400万ほど、世界全人口の0.3%ほどです。ところが、ノーベル賞受賞する全体の20%が、ユダヤ人だというのです。
この「ユダヤ式教育法」という本は、ユダヤ人の国連大使が書きました。彼は言います。日本人は優秀だが、ユダヤ人との決定的な違いがあると。それは、ユダヤには旧約の時代から義務教育があり、親の義務としてそれをしていたことであると。その教育とは、神が子らにどういうことを望んでいるかを教えることであると。それが分かったなら、子供たちは、学問・芸術に興味を持ち始めるのです。数学一つとっても、神の力がどう働いているのかを、その中で知ることが出来るのです。
「苦しめてはならない」。私たちも、先祖も、苦しめられてきました。私たちの中にも、周りの人を苦しめてしまう性質があります。その罪を認めること。そして、主により頼んで、生き生きと生きるということについて勉強していきましょう。ユダヤ人たちは、それを200年とか1000年とかのスパンでやってきたのです。
神がどんなに人を愛しているかを知る。また、私たちには罪があって、愛することが出来ないこと。だからこそ神に頼っていけばいいのです。
24節、高利貸しのようであってはならないとあります。利息をとってはダメだと。新約聖書でイエスは「金を貸すより、あげてしまいなさい」と語られます。これは当時としては特異な教えです。ハムラビ法典では、利子をとれと書かれていました。聖書がこう言うのは、利息をとるということ、こういったことから社会が崩れていくからです。
28節、神をののしってはならない、あなたの民の代表者を呪ってはならない、とあります。新政権となりましたが、人間のやることである以上、それほど期待できるわけではありません。しかし、神を理解し、信じて、リーダーを信じて邁進していくとき、それぞれが祝福されるのだというのが律法の教えです。何々してはならない、というのが律法の趣旨かのように誤解されていますが、違います。神が守るという約束が、律法なのです。
2009年11月7日土曜日
私たちの中にある罪(出エジプト20)
第20回 出エジプト記22章1~17節(2009年9月6日)
「私たちの中にある罪」
***引き続き、神は、人間同士の財産について言及された。盗難事件をどう裁いたら良いか、その所有者の責任については、など。***
私たち人間には、規律が必要です。だから法律が存在します。今日の個所では、しち面倒くさいことが書き連ねられています。羊や牛など、所有する財産が盗みにあったり、殺されたりした場合はどうしたらよいか… 1節、「盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけれれ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。しかし太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある」とあります。太陽が昇っているなら…と、どうして変わってしまうのでしょうか?
こうした条件が、聖書以外の所でどんどん細かく制定されていって、律法が作られていきます。ここでは、まだ、刑法と民法、また道徳観念などがごちゃ混ぜになっています。学問が進んでいくにつれ、さらに細かく制定されることになっていきます。
そのように、法律がたくさん出来ていきます。それでも解決出来ないから、また更に増えていきます。しかし、「こうしたら上手くいくから、こうせよ」ということが趣旨なのではありません。神の規定した大切な部分とは何でしょうか。私たちは、争いが起きたらどうしたらいいのか。争いを起こさないためには、どうしたらいいのか。そもそも、争いとは何なのか。どこから来るのか。それを学ぶ必要があります。
太陽が昇っている時と、昇っていない時、と聖書にありますが、これをどんな視点で見たらよいのでしょう。聖書は、その環境がどうだったかを考えています。結果だけをみて良かった、悪かったというのではないのです。起こっている問題だけをピックアップするのではなく、その背景、環境を見るのです。
私たちは、自分が被害者でも加害者であっても、そのような視点で見たいと思います。神は私たちを、そのように見て下さるのです。それが、聖書の生き方です。
私たちが通常抱くイメージとして、神という存在は、裁判でいうなら、検察官だというものです。それは間違っており、神は弁護人です。イエスは私たちを弁護して下さり、そのために十字架にかかられました。やってはいけないことを分かっていても、それをやってしまう自分。やらなければいけないことを、やれない自分。それが罪ですが、そんな私たちの罪について、イエスは分かって下さるのです。そして、自分の力ではどうしようもないそのことについて、神が共にいて成して下さるのです。
私たちは、神に弁護されています。そして、私たちの相手もまた、神に弁護されているということです。私たちは、「ひょっとしたら、自分が間違っているかもしれない」と考えることが必要です。それは、自分の感情とは別の次元で、自分の罪を認めるということです。私がやっていることを、私は分からないからです。そのようにしていくことで、人間関係が造られていきます。
私の側に、間違いの可能性があるということ。それが分かるように、律法は造られています。そうでなければ大変です。科学の世界に、ピタゴラスの定理というものがあります。これは、きちんと証明できたので有名になりました。ピタゴラス学派というものがありますが、殆ど宗教団体です。ピタゴラスは、自分の言う事をきかない弟子たちを容赦なく殺しました。1と2の間に1.5というものはあるが、πなど割り切れないものはないのだとし自分の学説の矛盾を指摘する弟子たちを殺したのです。
ピタゴラスが、自分には間違いがあるかもしれないと考えていたとしたら、もっと良い仕事が出来たかもしれません。数学の世界でさえ、そういうことが起こります。ましてや、私たち生身の日常、感情において、上手くいくはずがないのです。自分の間違いの可能性を認めることなしには、ありえません。主が、私たちの改めるべきところを改めさせて下さいます。
しかし、結局のところ、私たちの中にある「間違い」は、私の責任ではないということも知っておく必要があります。なぜなら、もともと罪というものは、アダムとエバが善悪の知識の実を食べたことによって人類に入ってきたものです。彼らに責任があるのであって、私たちにはその責任はないのです。
私たちの中にある罪によって、私たちは死ぬまで苦しい思いをしなければなりません。しかし、こうも考えられます。私たちは確かに罪を持っています。同時に、別のものも、たくさん持っています。多くのものに満ちています。目が見えるということ一つとっても、それは、神に与えられた賜物です。
与えられたその中で、私たちは生きています。感謝して生きるのです。罪も与えられた物と考えることができないでしょうか。私たちは、十字架の血潮により、完全に赦されました。赦された後、私たちの中にある罪をどう理解したらよいか。これと共に、どう生き生きと生きられるか。たしかに、自分でコントロールできないことは、たくさんあります。しかし、教会、そして家族と共にそれをコントロールしつつ生きていくときに、生き生きと生きることができ、能力も上がっていくのです。
コントロール出来ないことにぶつかったら、戦うのです。一緒に戦いましょう。罪と戦いながら、私たちは成長していくことが出来ます。そう考えると、罪も、そう悪いものではないと思いませんか。
罪の結果、たとえば殺人など、そういったことは止めなければなりません。しかし、罪そのものは受け止めましょう。続く23章には、弱い人への対応について書かれています。「共に生きる」ことの学びです。自分の罪を認めなければ、それをすることは出来ません。認めるとき、素晴らしい成長が待っているのです。
「私たちの中にある罪」
***引き続き、神は、人間同士の財産について言及された。盗難事件をどう裁いたら良いか、その所有者の責任については、など。***
私たち人間には、規律が必要です。だから法律が存在します。今日の個所では、しち面倒くさいことが書き連ねられています。羊や牛など、所有する財産が盗みにあったり、殺されたりした場合はどうしたらよいか… 1節、「盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけれれ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。しかし太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある」とあります。太陽が昇っているなら…と、どうして変わってしまうのでしょうか?
こうした条件が、聖書以外の所でどんどん細かく制定されていって、律法が作られていきます。ここでは、まだ、刑法と民法、また道徳観念などがごちゃ混ぜになっています。学問が進んでいくにつれ、さらに細かく制定されることになっていきます。
そのように、法律がたくさん出来ていきます。それでも解決出来ないから、また更に増えていきます。しかし、「こうしたら上手くいくから、こうせよ」ということが趣旨なのではありません。神の規定した大切な部分とは何でしょうか。私たちは、争いが起きたらどうしたらいいのか。争いを起こさないためには、どうしたらいいのか。そもそも、争いとは何なのか。どこから来るのか。それを学ぶ必要があります。
太陽が昇っている時と、昇っていない時、と聖書にありますが、これをどんな視点で見たらよいのでしょう。聖書は、その環境がどうだったかを考えています。結果だけをみて良かった、悪かったというのではないのです。起こっている問題だけをピックアップするのではなく、その背景、環境を見るのです。
私たちは、自分が被害者でも加害者であっても、そのような視点で見たいと思います。神は私たちを、そのように見て下さるのです。それが、聖書の生き方です。
私たちが通常抱くイメージとして、神という存在は、裁判でいうなら、検察官だというものです。それは間違っており、神は弁護人です。イエスは私たちを弁護して下さり、そのために十字架にかかられました。やってはいけないことを分かっていても、それをやってしまう自分。やらなければいけないことを、やれない自分。それが罪ですが、そんな私たちの罪について、イエスは分かって下さるのです。そして、自分の力ではどうしようもないそのことについて、神が共にいて成して下さるのです。
私たちは、神に弁護されています。そして、私たちの相手もまた、神に弁護されているということです。私たちは、「ひょっとしたら、自分が間違っているかもしれない」と考えることが必要です。それは、自分の感情とは別の次元で、自分の罪を認めるということです。私がやっていることを、私は分からないからです。そのようにしていくことで、人間関係が造られていきます。
私の側に、間違いの可能性があるということ。それが分かるように、律法は造られています。そうでなければ大変です。科学の世界に、ピタゴラスの定理というものがあります。これは、きちんと証明できたので有名になりました。ピタゴラス学派というものがありますが、殆ど宗教団体です。ピタゴラスは、自分の言う事をきかない弟子たちを容赦なく殺しました。1と2の間に1.5というものはあるが、πなど割り切れないものはないのだとし自分の学説の矛盾を指摘する弟子たちを殺したのです。
ピタゴラスが、自分には間違いがあるかもしれないと考えていたとしたら、もっと良い仕事が出来たかもしれません。数学の世界でさえ、そういうことが起こります。ましてや、私たち生身の日常、感情において、上手くいくはずがないのです。自分の間違いの可能性を認めることなしには、ありえません。主が、私たちの改めるべきところを改めさせて下さいます。
しかし、結局のところ、私たちの中にある「間違い」は、私の責任ではないということも知っておく必要があります。なぜなら、もともと罪というものは、アダムとエバが善悪の知識の実を食べたことによって人類に入ってきたものです。彼らに責任があるのであって、私たちにはその責任はないのです。
私たちの中にある罪によって、私たちは死ぬまで苦しい思いをしなければなりません。しかし、こうも考えられます。私たちは確かに罪を持っています。同時に、別のものも、たくさん持っています。多くのものに満ちています。目が見えるということ一つとっても、それは、神に与えられた賜物です。
与えられたその中で、私たちは生きています。感謝して生きるのです。罪も与えられた物と考えることができないでしょうか。私たちは、十字架の血潮により、完全に赦されました。赦された後、私たちの中にある罪をどう理解したらよいか。これと共に、どう生き生きと生きられるか。たしかに、自分でコントロールできないことは、たくさんあります。しかし、教会、そして家族と共にそれをコントロールしつつ生きていくときに、生き生きと生きることができ、能力も上がっていくのです。
コントロール出来ないことにぶつかったら、戦うのです。一緒に戦いましょう。罪と戦いながら、私たちは成長していくことが出来ます。そう考えると、罪も、そう悪いものではないと思いませんか。
罪の結果、たとえば殺人など、そういったことは止めなければなりません。しかし、罪そのものは受け止めましょう。続く23章には、弱い人への対応について書かれています。「共に生きる」ことの学びです。自分の罪を認めなければ、それをすることは出来ません。認めるとき、素晴らしい成長が待っているのです。
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