第20回 出エジプト記22章1~17節(2009年9月6日)
「私たちの中にある罪」
***引き続き、神は、人間同士の財産について言及された。盗難事件をどう裁いたら良いか、その所有者の責任については、など。***
私たち人間には、規律が必要です。だから法律が存在します。今日の個所では、しち面倒くさいことが書き連ねられています。羊や牛など、所有する財産が盗みにあったり、殺されたりした場合はどうしたらよいか… 1節、「盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけれれ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。しかし太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある」とあります。太陽が昇っているなら…と、どうして変わってしまうのでしょうか?
こうした条件が、聖書以外の所でどんどん細かく制定されていって、律法が作られていきます。ここでは、まだ、刑法と民法、また道徳観念などがごちゃ混ぜになっています。学問が進んでいくにつれ、さらに細かく制定されることになっていきます。
そのように、法律がたくさん出来ていきます。それでも解決出来ないから、また更に増えていきます。しかし、「こうしたら上手くいくから、こうせよ」ということが趣旨なのではありません。神の規定した大切な部分とは何でしょうか。私たちは、争いが起きたらどうしたらいいのか。争いを起こさないためには、どうしたらいいのか。そもそも、争いとは何なのか。どこから来るのか。それを学ぶ必要があります。
太陽が昇っている時と、昇っていない時、と聖書にありますが、これをどんな視点で見たらよいのでしょう。聖書は、その環境がどうだったかを考えています。結果だけをみて良かった、悪かったというのではないのです。起こっている問題だけをピックアップするのではなく、その背景、環境を見るのです。
私たちは、自分が被害者でも加害者であっても、そのような視点で見たいと思います。神は私たちを、そのように見て下さるのです。それが、聖書の生き方です。
私たちが通常抱くイメージとして、神という存在は、裁判でいうなら、検察官だというものです。それは間違っており、神は弁護人です。イエスは私たちを弁護して下さり、そのために十字架にかかられました。やってはいけないことを分かっていても、それをやってしまう自分。やらなければいけないことを、やれない自分。それが罪ですが、そんな私たちの罪について、イエスは分かって下さるのです。そして、自分の力ではどうしようもないそのことについて、神が共にいて成して下さるのです。
私たちは、神に弁護されています。そして、私たちの相手もまた、神に弁護されているということです。私たちは、「ひょっとしたら、自分が間違っているかもしれない」と考えることが必要です。それは、自分の感情とは別の次元で、自分の罪を認めるということです。私がやっていることを、私は分からないからです。そのようにしていくことで、人間関係が造られていきます。
私の側に、間違いの可能性があるということ。それが分かるように、律法は造られています。そうでなければ大変です。科学の世界に、ピタゴラスの定理というものがあります。これは、きちんと証明できたので有名になりました。ピタゴラス学派というものがありますが、殆ど宗教団体です。ピタゴラスは、自分の言う事をきかない弟子たちを容赦なく殺しました。1と2の間に1.5というものはあるが、πなど割り切れないものはないのだとし自分の学説の矛盾を指摘する弟子たちを殺したのです。
ピタゴラスが、自分には間違いがあるかもしれないと考えていたとしたら、もっと良い仕事が出来たかもしれません。数学の世界でさえ、そういうことが起こります。ましてや、私たち生身の日常、感情において、上手くいくはずがないのです。自分の間違いの可能性を認めることなしには、ありえません。主が、私たちの改めるべきところを改めさせて下さいます。
しかし、結局のところ、私たちの中にある「間違い」は、私の責任ではないということも知っておく必要があります。なぜなら、もともと罪というものは、アダムとエバが善悪の知識の実を食べたことによって人類に入ってきたものです。彼らに責任があるのであって、私たちにはその責任はないのです。
私たちの中にある罪によって、私たちは死ぬまで苦しい思いをしなければなりません。しかし、こうも考えられます。私たちは確かに罪を持っています。同時に、別のものも、たくさん持っています。多くのものに満ちています。目が見えるということ一つとっても、それは、神に与えられた賜物です。
与えられたその中で、私たちは生きています。感謝して生きるのです。罪も与えられた物と考えることができないでしょうか。私たちは、十字架の血潮により、完全に赦されました。赦された後、私たちの中にある罪をどう理解したらよいか。これと共に、どう生き生きと生きられるか。たしかに、自分でコントロールできないことは、たくさんあります。しかし、教会、そして家族と共にそれをコントロールしつつ生きていくときに、生き生きと生きることができ、能力も上がっていくのです。
コントロール出来ないことにぶつかったら、戦うのです。一緒に戦いましょう。罪と戦いながら、私たちは成長していくことが出来ます。そう考えると、罪も、そう悪いものではないと思いませんか。
罪の結果、たとえば殺人など、そういったことは止めなければなりません。しかし、罪そのものは受け止めましょう。続く23章には、弱い人への対応について書かれています。「共に生きる」ことの学びです。自分の罪を認めなければ、それをすることは出来ません。認めるとき、素晴らしい成長が待っているのです。
