2009年11月8日日曜日

弱きものを苦しめないために(出エジプト21)

第21回 出エジプト記22章21~31節(2009年9月13日)

「弱きものを苦しめないために」


***次に神は、人道的律法について仰せられた。寄留者、寡婦や孤児を苦しめてはならないこと、また貧しい者に対して高利貸しのようになってはならないことなど。祭儀的律法として、収穫と葡萄酒の奉献、初子をささげることなどについて仰せられた。***


在留異国人、すなわちユダヤ人でない人についてどう対応すべきかを書いています。外国人を助けるようにと神が命令しているのです。かつて戦時中、日本はフィリピンなど東南アジアの人々を酷く扱いました。シンガポールには、その記念館などもあるそうです。この個所は、フィリピン人が日本を、日本がフィリピンを理解するような感じかもしれません。以前は殺しあうほど憎み合っていた関係です。

中国では、人種が違うということで問題が起きています。地域文化の違いが諍いを生むのです。マタイ23章には、世の終わりの前兆として民族同士で対立し抗争が起こるとあります。ソ連が崩壊した時には、民族がこんなにも憎み合っていたのかと驚かされました。

在留異国人、それは、ユダヤにとってやっかいな存在だったでしょう。彼らは、神を持っていませんでした。しかし、彼らを苦しめてはならないと神は語ります。なぜなら、「あなた方もかつてはそうだったから」と。やられたらやり返す、というのが人間です。虐待の連鎖というものが、親子関係で何代にも渡って続きます。人間にはそういうものがあるのです。「苦しめてはならない」という言葉、そこからは、私たちの中にそれが元々あるのだと読み取ることが出来ます。

ある実験結果があります。ロールプレイで、裁判する側と、される側をそれぞれが演じます。刑の執行の場面で、あるラインを越えたら死んでしまうと伝えてあるにもかかわらず、裁く側にたった人は、それをやってしまうのです。自分が優位に立つということは、そういう心理を生みます。

「外国人を守りなさい」とは仰せられませんでした。「苦しめてはならない」という言葉は、二重否定です。立場が違うときに、私たちは相手を苦しめたくなるという性質があります。それが私たちの罪です。私たちは、虐げる側になっていきやすいということを神がご存じで、自分の罪に目を止めるようにという意味があるのでしょう。

今、あるグループで、「ユダヤ式教育法」について学んでいます。」ユダヤ人と他の民族の違いは何か、というようなことから学ぶのですが、ユダヤ人の人口は現在1400万ほど、世界全人口の0.3%ほどです。ところが、ノーベル賞受賞する全体の20%が、ユダヤ人だというのです。

この「ユダヤ式教育法」という本は、ユダヤ人の国連大使が書きました。彼は言います。日本人は優秀だが、ユダヤ人との決定的な違いがあると。それは、ユダヤには旧約の時代から義務教育があり、親の義務としてそれをしていたことであると。その教育とは、神が子らにどういうことを望んでいるかを教えることであると。それが分かったなら、子供たちは、学問・芸術に興味を持ち始めるのです。数学一つとっても、神の力がどう働いているのかを、その中で知ることが出来るのです。

「苦しめてはならない」。私たちも、先祖も、苦しめられてきました。私たちの中にも、周りの人を苦しめてしまう性質があります。その罪を認めること。そして、主により頼んで、生き生きと生きるということについて勉強していきましょう。ユダヤ人たちは、それを200年とか1000年とかのスパンでやってきたのです。

神がどんなに人を愛しているかを知る。また、私たちには罪があって、愛することが出来ないこと。だからこそ神に頼っていけばいいのです。

24節、高利貸しのようであってはならないとあります。利息をとってはダメだと。新約聖書でイエスは「金を貸すより、あげてしまいなさい」と語られます。これは当時としては特異な教えです。ハムラビ法典では、利子をとれと書かれていました。聖書がこう言うのは、利息をとるということ、こういったことから社会が崩れていくからです。

28節、神をののしってはならない、あなたの民の代表者を呪ってはならない、とあります。新政権となりましたが、人間のやることである以上、それほど期待できるわけではありません。しかし、神を理解し、信じて、リーダーを信じて邁進していくとき、それぞれが祝福されるのだというのが律法の教えです。何々してはならない、というのが律法の趣旨かのように誤解されていますが、違います。神が守るという約束が、律法なのです。