第12回 出エジプト17章1~16節(2009年5月17日)
「解放と自由と」
***シンの荒野から出発した民は、旅を重ねてレフィディムで宿営した。そこには飲み水が無く、民は渇いてモーセにつぶやいた。モーセが主に叫ぶと、主はモーセが岩を打つとそこから水が出るようにされた。さてアマレクが来てイスラエルと戦った。モーセが手をあげているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になった。***
民は、「何故自分達をエジプトから連れ出したのか」と、何度もモーセにつぶやきます。エジプトにいれば、こんな長い旅に出て歩くことも無く、生きていられたのに。余計なお世話だ、自分たちは奴隷のままでよかったのだ、と言わんばかりです。
現代の教会も、外から見れば、余計なことをやっていると思われてある意味当然かもしれません。人間は自由を求めて生きています。自分の思うとおり、自由に稼いでいきたいという、資本主義はその歴史でした。一方で、社会主義とは、このままでいいのだという歴史だったといえます。神が民にされたのは、「奴隷のところから解放する」ことでした。神は、「自由にしてあげる」とは言っていません。
ところで、奴隷とは何でしょうか。それは今の社会でも存在します。共依存といって、夫のDVを受けてもついていく妻などは、夫の奴隷状態にあるといえます。また、アフリカで行われていたアパルトヘイトなど。南アフリカ共和国では、それが廃止された後、黒人が自分たちのことを白人と同じ人間だということがどうしても理解できなかったとか。それは、長い間、自分達は動物同様に扱われてきたからです。同じ人間であることを理解させるために白人のストリップを見せたということもあったそうです。
自分が奴隷であることが分からないことが問題です。何の奴隷になっているのか。共依存の夫婦の話ですが、法律的には問題がありません。なぜなら、お互い自由で、妻本人がどんなに夫からDVを受けようと、それで良いといっているのだからと、具体的には何も出来ません。そこでどうするかというと、止む無く法を犯すという手段をとります。妻を隔離してカウンセリングするのです。
問題なのは、迫害を受けていること事態ではなく、自分が奴隷状態であるということが分からないことなのです。民たちも、自分が奴隷であったことに気付いていませんでした。それに気付くために、何度も何度もこういったことが繰り返されていきます。それが第1の目的です。エジプトより今の方が苦しいかどうかは、神にとって問題ではありません。奴隷から解放することが出エジプトの目的なのです。
救いとは、恵みの全てではありません。奴隷であったことを知ること、そこからの解放が大きなことです。パウロは、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています(ローマ8:19)」といいましたが、それが罪の奴隷です。罪とは、神から離れていることです。そして神の発想が出来ない状態のことです。何を思うにしても、よく考えてみると、全て自分中心であることに気付きます。神がどう思うかは、考えることが出きるとしても、思考の半分くらいでしょうか。
細かいことを決めて、これはダメ、これは良いと、律法的に判断することも罪の奴隷です。ある教会学校の中高生担当教師が、生徒から性的な悩みを告白されたそうです。そのような場合、教師としてどのように子供を導いたらよいのかと彼は悩んでいました。どのような問題でも、苦しむことが大事といえます。どうしたら余計なものをコントロールして、神が祝福される結婚の大切なものを自分のものにしていけるか。何でも自由でいいのだというのではなく、主が共にいて、一緒に苦しんで、道を開いていってくださる、それが解放です。
私たちは、どこまでいっても自分中心の罪の奴隷であることを発見します。主はそこから解放してくださるのです。悩みは多いでしょう。だから、これからは神と一緒に悩んでいこうと決断することが大切です。礼拝はそれを学んでいく場です。民はそのようにして、いつでも文句をいいながらも、自分が奴隷であったことに気付いていくのです。私たちは、安心して、自分が罪人であると発見していきましょう。決して落ち込む必要はありません。私たちが弱いからこそ、主が導かれると分かるのですから。
後半は、アマレク人との戦いです。ヨシュアが初登場しています。モーセが手を挙げている間はイスラエルが優勢だったとあります。モーセの手が疲れて降りてこないように、アロンとフルが支えたとあります。
ここを霊的に解釈するなら、アマレクとの戦いは罪との戦いです。そして、私たちにはサポーターが与えられているということです。あなただけの戦いではないのです。手をあげつづけるなら自動的に勝つということではなく、支える人も主は与えて下さっているということです。
神の導きに従っていく歩みは、解放の人生です。それは自分のやりたいようにやるということではありません。神に従う歩みこそ、もっとも美しく、また強いところを歩いていくことができます。解放された人生とは、生き生きと生きられ、生まれてよかったと実感できる人生です。イエスは私たちを招かれるときに、共にくびきを背負うと言われました(マタイ11章)。解放された人生を、兄弟姉妹と共に生き生きと歩んでいきたいと願います。
