2009年5月30日土曜日

解放と自由と(出エジプト12)

第12回 出エジプト17章1~16節(2009年5月17日)

「解放と自由と」

***シンの荒野から出発した民は、旅を重ねてレフィディムで宿営した。そこには飲み水が無く、民は渇いてモーセにつぶやいた。モーセが主に叫ぶと、主はモーセが岩を打つとそこから水が出るようにされた。さてアマレクが来てイスラエルと戦った。モーセが手をあげているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になった。***



民は、「何故自分達をエジプトから連れ出したのか」と、何度もモーセにつぶやきます。エジプトにいれば、こんな長い旅に出て歩くことも無く、生きていられたのに。余計なお世話だ、自分たちは奴隷のままでよかったのだ、と言わんばかりです。

現代の教会も、外から見れば、余計なことをやっていると思われてある意味当然かもしれません。人間は自由を求めて生きています。自分の思うとおり、自由に稼いでいきたいという、資本主義はその歴史でした。一方で、社会主義とは、このままでいいのだという歴史だったといえます。神が民にされたのは、「奴隷のところから解放する」ことでした。神は、「自由にしてあげる」とは言っていません。

ところで、奴隷とは何でしょうか。それは今の社会でも存在します。共依存といって、夫のDVを受けてもついていく妻などは、夫の奴隷状態にあるといえます。また、アフリカで行われていたアパルトヘイトなど。南アフリカ共和国では、それが廃止された後、黒人が自分たちのことを白人と同じ人間だということがどうしても理解できなかったとか。それは、長い間、自分達は動物同様に扱われてきたからです。同じ人間であることを理解させるために白人のストリップを見せたということもあったそうです。

自分が奴隷であることが分からないことが問題です。何の奴隷になっているのか。共依存の夫婦の話ですが、法律的には問題がありません。なぜなら、お互い自由で、妻本人がどんなに夫からDVを受けようと、それで良いといっているのだからと、具体的には何も出来ません。そこでどうするかというと、止む無く法を犯すという手段をとります。妻を隔離してカウンセリングするのです。

問題なのは、迫害を受けていること事態ではなく、自分が奴隷状態であるということが分からないことなのです。民たちも、自分が奴隷であったことに気付いていませんでした。それに気付くために、何度も何度もこういったことが繰り返されていきます。それが第1の目的です。エジプトより今の方が苦しいかどうかは、神にとって問題ではありません。奴隷から解放することが出エジプトの目的なのです。

救いとは、恵みの全てではありません。奴隷であったことを知ること、そこからの解放が大きなことです。パウロは、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています(ローマ8:19)」といいましたが、それが罪の奴隷です。罪とは、神から離れていることです。そして神の発想が出来ない状態のことです。何を思うにしても、よく考えてみると、全て自分中心であることに気付きます。神がどう思うかは、考えることが出きるとしても、思考の半分くらいでしょうか。

細かいことを決めて、これはダメ、これは良いと、律法的に判断することも罪の奴隷です。ある教会学校の中高生担当教師が、生徒から性的な悩みを告白されたそうです。そのような場合、教師としてどのように子供を導いたらよいのかと彼は悩んでいました。どのような問題でも、苦しむことが大事といえます。どうしたら余計なものをコントロールして、神が祝福される結婚の大切なものを自分のものにしていけるか。何でも自由でいいのだというのではなく、主が共にいて、一緒に苦しんで、道を開いていってくださる、それが解放です。

私たちは、どこまでいっても自分中心の罪の奴隷であることを発見します。主はそこから解放してくださるのです。悩みは多いでしょう。だから、これからは神と一緒に悩んでいこうと決断することが大切です。礼拝はそれを学んでいく場です。民はそのようにして、いつでも文句をいいながらも、自分が奴隷であったことに気付いていくのです。私たちは、安心して、自分が罪人であると発見していきましょう。決して落ち込む必要はありません。私たちが弱いからこそ、主が導かれると分かるのですから。

後半は、アマレク人との戦いです。ヨシュアが初登場しています。モーセが手を挙げている間はイスラエルが優勢だったとあります。モーセの手が疲れて降りてこないように、アロンとフルが支えたとあります。

ここを霊的に解釈するなら、アマレクとの戦いは罪との戦いです。そして、私たちにはサポーターが与えられているということです。あなただけの戦いではないのです。手をあげつづけるなら自動的に勝つということではなく、支える人も主は与えて下さっているということです。

神の導きに従っていく歩みは、解放の人生です。それは自分のやりたいようにやるということではありません。神に従う歩みこそ、もっとも美しく、また強いところを歩いていくことができます。解放された人生とは、生き生きと生きられ、生まれてよかったと実感できる人生です。イエスは私たちを招かれるときに、共にくびきを背負うと言われました(マタイ11章)。解放された人生を、兄弟姉妹と共に生き生きと歩んでいきたいと願います。



2009年5月18日月曜日

神の試み(出エジプト11)

第11回 出エジプト16章1~36節(2009年5月10日)

「神の試み」

***エリムを出発した民は、シンの荒野に向かった。彼らはモーセとアロンに不平を述べ立て、「エジプトで死んだ方がましだった。あの時は肉やパンを腹いっぱい食べられたのに、ここで飢え死にしなければいけないとは。」と言った。夕方になると、うずらがとんできて、朝には宿営の周りに露が降り、それが渇くと薄くて壊れやすいものが残った。それは主が彼らのために食物として与えられたパンで、マナと呼ばれた。主は民に命じて、必要な分のみ毎日それぞれが集め、6日目だけは7日目の安息日のために二日分集めるように言った。主の命に従わずに余分に集めたマナは翌日には虫がつき、臭くなった。***


シンの荒野へと向かった民。出発してから1ヶ月ほどたっています。疲れきってへとへとだったことでしょう。なにしろ、250万人という大群衆です。昼は雲の柱、夜は火の柱でもって主が導かれ、その後をついていったのですが、そのような異常事態、奇跡的状況の中を、ただひたすら歩いていきました。

1ヶ月前に、海が分かれる奇跡も目撃した彼らです。しかし、ここでもまた、リーダーにつぶやいています。エジプトで死んだ方がましだったとさえ言います。何しろ、この旅はこの先40年続くことになります。40年かけた引越しですから、ストレスがたまるのも当然です。

ある程度、この辺りの地理を把握していた彼らは、主の導きに対して、どうしてこんな場所を通らなければいけないのかと不安になり、そして不信仰になっていきます。神が何といおうと、自分はもうこれ以上行きたくない。エジプトに帰りたい、と。

私たちは、自分の人生には選択権があると感じて生きています。しかし、聖書を読み始めてみると、神が一番良い道を備えて下さるのだと分かるようになります。神を信じないのであれば、今の人生ではない、違う生き方があるのかも、と思っても当然かもしれません。

神は、彼らに食事を与えました。4節、「試す」とありますが、これは大事なことです。人生に試みが無ければ大変つまらないものになります。試験がなかったら、何も勉強しようとしないでしょうし、ノルマや責任があるからこそ、チャレンジしようという意欲が湧くものです。日々のいろんな問題は試みと理解することができます。才能が無いから苦労するのだと思うでしょうか?全く違います。「試みる」と神が言ったのです。それは、私たちが成長するために必要なことでした。

食べ物が無い!と民が不満をぶちまけたときに、主はウズラとマナを与えられました。この辺りの海岸には、ウズラの集団がよくやってくるのだそうです。そしてその肉は、250万人の腹を満たしました。これは神の業です。自然界の法則を用いつつ、神の力でそれをなさるのです。

私たちは、人生を諦めないことです。自分の、この小さな力で、一体何が出来るのかと思うかもしれませんが、今やっていることを止めない方がいいです。なぜなら、それは絶対できるようになるからです。以前、マルコの福音書で、5000人の給食の話を聞きました。男だけで5000人ですから、女性や子供含めて1万数千人はいたでしょう。たった5つのパンと2匹の魚をもって、イエスは彼らを満たしました。最初にイエスは、「持っているのは何か」と問われ、それをされました。主は、それを何億倍にもされる方です。

私は、これがやりたい。これを持っている。その時に、主よ、あなたを信じてやってみます、と歩み始めるときに、そのような人生が送れるのです。私たちは、全てのことを自分の力だけでやろうとします。そしてそれがダメなら、自分の才能が無いからだと落ち込みますが、本当はそうではありません。ユダヤの民は、このようにして訓練させられていきました。主がおられる、主が守ってくださるということを知るための徹底的な訓練です。

1日分のマナだけ集めよ、と主は言われました。6日目には、次の日の分もとってよいとされました。しかし、多く集めて残しておくと、それは腐ったとあります。その日その日の分を与えられて、その日を生きるということです。明日のことは、全て主に委ねるのです。もちろん、貯金することは大事なことではあります。しかし、人生そのものについて考えるときに、明日について確実な約束はありません。病気か、事故か、生死さえ明日については分かりません。貯金は悪くありませんが、それだけでは、人生そのものが大丈夫ということにはならないのです。神に頼るという訓練、「神が私たちを養う」ということを心においておくということです。

7日目は安息日で、働かなくても良い日です。1週間に一度休もうというのは、ここが始まりです。十戒、シナイ契約の原形です。週に一回は仕事を離れ、神を思い、全てのことをおいておく日とするということです。神は、民に実際にそれをさせて覚えさせています。ある医者の論文によれば、7日に1日休むことが、体には一番良いとのことです。昔日本では、30日に1日、良くても10日で1回、あるいは休みなど無いということもあったのです。西暦が入ってきてから日曜休みが定着するようになりました。それは体に良いということもありますが、もう一つの大事な目的は、「神を覚えるため」です。

この日、と決めておくことは大事です。そうでなければ忘れてしまうからです。この日に母に会いに行くのだと決めておかないことには、自分は、あれほど私を愛してくれた大切な母に会いに行くことを忘れてしまいます。人間とはそういうものです。1週間に1回、神に出会い、忘れないでいこうということ、それをここでは主ご自身が教えているのです。

13節、各自食べる分だけ集めるようにとあります。人間は、備蓄に安心します。他の動物は備蓄をすることはありません。今の分だけ食べます。それは、人間が罪人だからといえます。自分の力だけに頼ろうとするがゆえです。私たちが健全であるなら、すなわち、礼拝を大切にしていくなら、人生はそれだけで変わります。今は分からないかもしれませんが、礼拝にとにかく来てみることです。最初は分からなくても、そのうちに、それがどれだけ深いものかが分かってきます。

ユダヤ人は、現代においても、とても強い民族です。その能力を生かし、様々な分野で大変活躍しています。歴史的には、迫害を何度も受けてきましたが、しかし強いのです。それは、1週間に1度、神から頂く恵みの時をもつという決断をしているからです。神は、祝福を私たちが受けるために、私たちを訓練してくださいます。

礼拝では、寝てしまうかもしれません。それでもOKです。ここに呼ばれたこと、主に心を向けていることが大切なのです。その中で祝福を受けていきます。「集まることをやめないで」と聖書にはありますから、ここから、始まるのです。

33節、モーセは1オメルのマナを保存しました。それは、後世に伝えるためでした。子供たちに私たちの宝を伝えます。その宝とは、「生き方」といえます。心理学でこんな実験があるそうです。何万人と働くようなある大きな仕事場で、1人の人が抜けるとどんな影響があるのか調べたのです。私たちは、自分1人くらい抜けても何も変わらないと思っています。ところが、何万分かの1であるその人が抜けただけで、全てに影響があり、全体が変わっていくというのです。1人が変わったら、全てが変わっていきます。その影響は大きいのです。次の代に、そのような「生き方」を伝えていくなら、どんなに世の中が変わっていくでしょうか。

「神の試み」すぐには、よく分からないかもしれません。しかし、やってみることです。ユダヤ人は、それを何千年と続けています。この1時間で、何かが変わっていくはずです。



2009年5月17日日曜日

契約が与えられて生きる(出エジプト10)

第10回 出エジプト記 15章22~27節(2009年5月3日)

「契約が与えられて生きる」

***葦の海から旅立った民は、荒れ野を三日間進んだが、水が無かった。マラに着いたがそこの水は苦くて飲むことが出来ず、民は「何を飲んだらいいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水は甘くなった。***


民はマラという場所にやってきました。そこでは、水が苦くて不平を言ったとあります。つい先日まで、神の素晴らしい業を目の当たりにした民です。海が分かれて、渇いた地を歩くという、信じられないようなことを経験したのです。自分達は助けられ、エジプト軍は海の藻屑と消えていきました。この経験を通して、神によって守られるということを分かったはずの民でした。

しかし、現実にぶつかりました。水が無いのです。マラ、また葦の海の辺りは、湿地や川の水は飲むことの出来ない悪いものだったようです。生きていくために大切な水がないという現実。民は絶望しました。神様によって導かれているなら、とんとん拍子に上手く事が行っても良さそうなものなのに。今までは上手く行きました。だからこれからも上手くいくというのが大前提になっていたのです。

24節、民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った、とありますが、これには「どうしてくれるんだ」という強い意味があります。そこでモーセが主に叫ぶと、主はある木を示されたとあります。フロリダやペルーには、水を浄化する植物が実際にあるそうです。備長炭などもそうですね。その木を水に沈めると、水が甘くなったというのです。

水が無いということは、確かに死を意味するでしょう。しかし、砂や石を使って水を浄化する方法があるということは、この当時既に知られていました。なのに、彼らはパニックになってしまったのです。今の、豚インフルエンザについてもそうです。そのことしか見えず、他の角度で見ることが出来なくなってしまうのです。神の契約を疑うようになります。「本当に守ってくれるのか?」といいたくなってしまうのです。

25節、神は、もう一度契約を民と結びます。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」 何かをしないと罰を与える、というものではありません。この契約は、一方的に祝福を与えるというものです。

人同士の契約には、種類があります。一つは双務契約。お互いが義務を負う、Give&Takeの関係です。もう一つは、片務契約といい、片方が一方的に義務を持つものです。相続などがそれで、相続させる方のみその義務を持っています。神の契約とは、この片務契約です。しかし私たちは、契約といわれると全て双務契約と考えてしまいます。

結婚を含め、人間関係を全てGive&Takeで考えます。人間同士の契約としては、そういうものになってしまうと思います。しかし、聖書的に言うなら、夫婦は片務契約なのです。片方が一方的に義務を持ちます。夫婦だけでなく、親子関係もそうです。双方の、片務契約です。何かをやったからではなく、~であっても愛する、というお互いの片務j契約で成り立つものなのです。

双務契約で人間関係を捉えるとき、ダメになっていきます。この時、民たちは信仰をそのように考えていたのではないでしょうか。神が自分達のために働いてくれるのは当たり前だという発想だったのかもしれません。しかし、あなたがどんなものであれ、愛し、助ける。正しい道をわたしは示す、だから諦めるな、と神は言われるのです。

一方で、私たちは、神が何をなさろうと、愛するということです。神の導きに、一方的に身をおくのです。そして、神も、私たちがどうあろうとも愛してくださいます。片務契約で関係を捉えることが、最大の平和、最大の愛です。全ての人間関係において、何かをしたから、やってもらって当たり前という考え方は、神の示す愛ではありません。

27節、エリム(安らぎの地)につきました。そこには12の泉があったとありますが、12とは完全数で、本当の平安を意味しています。神の契約は、一方的な愛です。私たちがどのような問題があろうとも、愛して下さる神を信頼するとき、平安に歩んでいくことができるのです。