第6回目 出エジプト記11章1~10節(2009年2月8日)
「主の与えられる裁き」
***ナイル川を血に、カエル、ブヨ、アブを大量発生させる、家畜の疫病・・・ここまで主は9つの災いをエジプトに対し行ってきた。あいも変わらず頑ななパロに対して最後の災いを行われる。エジプトの初子は、王の初子から家畜の初子に至るまでみな死ぬと主は仰せられた。***
10番目の災い、それは、王の子から家畜の子にいたるまで、最初に生まれたエジプト人の子供の命をとってしまうというものでした。この事件が、ユダヤ人がエジプトを出て行く分岐点となります。
9つの災いについては、エジプトの季節にあわせた順番に起こったのではないかという学者がいます。ナイルに藻が発生する季節だったのではないか、また、11月には雹が降ったということが実際にあることなどからそう言われます。主はそのようにして、自然のなりゆきを用いつつも、エジプト人に対して警告を行ったのです。
今までの災いは、モーセとアロンの杖を用いて成されました。しかし今回は違います。神ご自身が出て行って、エジプトの初子の命を絶つということをされたのです。
モーセの杖が蛇になった。しかし、エジプトの呪術師も同じことが出来ました。しかしそれは、途中までのことです。ある時点以降は、そんな不思議合戦も出来なくなって行き、エジプト人たちはだんだん追い込まれていきました。この、追い込まれていく順番にも意味があります。
アニミズムといって、岩、木、など自然のどこにも力が宿っているという概念があります。それが神とされ、いつしか神の顔が出来、人格神となっていく。その一つ一つである、カエルやブヨを断罪していったのです。これは、人間の愚かさの一つです。何か不思議なことがあると、それを神に仕立て上げ、その顔色を伺いながら生きていこうとするのです。
10番目の裁きは決定的でした。主自ら出て行ってそれをされたのです。9番目までは、警告でした。私たちは、トヨタなど企業のことを含め、今の時代の中に「警告」を読み取らなければなりません。エジプトの繁栄のさなか、奴隷であるユダヤ人たちが突然いなくなるなどということを、エジプト人たちは考えたことがあったでしょうか。突然、200万以上の奴隷達が一挙にいなくなって、一体エジプトの経済はこれからどうなるのかと思ったのではないでしょうか。
主の警告。それは既に起きており、結果は必ず出ます。つい先日、カトリック司祭の猥褻事件がありました。仏教のお坊さんもそういった事件を起こしたことがありますが、「なんだ、キリスト教も同じか」と思われるかもしれません。実際、プロテスタント教会でも、大変なことが起こっています。
日本での「弟子訓練」第一人者である、Bという韓国人宣教師がいます。現在、彼の、女性信徒への猥褻疑惑でキリスト教メディアを騒がせているという、大変情けない事件が起こっています。10年前、ある集会で彼の講演を聞きました。Bは言いました。「教会形成のためには、牧師のために死ねる信徒を作らなければならない」そのフレーズは、講演会の中で何度も出てきました。当時神学生だった私は、質疑応答の際に、「牧師のためにではなく、イエス様のために、の間違いではないでしょうか」と聞きましたが、ひどく反論され、説教をされたものです。
既に結果が出ています。ここに至るまでに、警告は何度も与えられてきたはずです。おかしいものはおかしいと気付いた人たちがいたでしょう。彼の事件は、私たちの責任でもあります。何故止められなかったのかと考えると、涙が出るほどイライラし、夜眠ることも出来ないほどです。相談できる人はいなかったのでしょうか。教会の信徒たちは皆、「B様、B様」といって、カルトを作ってしまったのです。これが、日本の教会全体にとって、どんなに負となっているか。私たちも悔い改めなければなりません。
出エジプトに戻ります。ここまで見ると、パロとモーセだけの関係のように見えますが、エジプト人とユダヤ人に対しての主からの警告であると分かります。パロは、何故それを理解できなかったのでしょう。今の経済状況も同じです。こうなるまでに、警告があったはずです。つまり、私たちの責任もあるということです。企業のために、国家のために、上司のために、私たちはもっと祈るべきでした。
神を畏れないことへの警告。悔い改めと反省は違います。悔いて涙し、神の方向を向いて戻るときに、赦されます。そしてそのチャンスはいつでも与えられているのです。パロはここで悔い改めるべきでした。
3節、エジプトの家臣たちは、この艱難の中でモーセを理解し始め、好意をもつようになっていたようです。パロのみ、聞く耳を持っていませんでした。神の言葉を聞こうと思うとき、教会や家族のことを省みて振り返るべきであることに気付きます。そして自分は、本当にそれらのことを理解していたかと省みるのです。
「何故こんなことになってしまったのか」パロにとっては最後のチャンスでした。主による断罪の中、ユダヤ人たちは約束の地へ向かって旅立ちます。一方パロたちには、絶命という悲惨な最期が待っていました。真実な悔い改めがあるなら、主は必ず赦してくださいます。前提として完全な赦しがあり、私たちがどのようにあるべきかを知ることが出来ます。
ここは、出エジプトの最大の山場です。今は隠されていても、その大きな罪はいつか必ず明るみに出され、社会をズタズタにします。しかし、主は、赦しの御手をもって、いつも待っていて下さっています。これを伝えていくことが、どんなに大切でしょうか。
イエスの十字架の意味が、出エジプトにも大きく係わっています。社会を見つめ、自分を見つめる。クリスチャンとして見つめ、個人として見つめ、悔い改めるべきことを悔い改めるなら、変わります。一人一人が変わっていき、そして、企業の上の方の人々にも伝わっていくでしょう。どんな小さなことでも食いあらめる姿勢をもって歩んでいきましょう。そうするなら、この社会が変わっていくのです。
2009年2月13日金曜日
2009年2月5日木曜日
主の守りを知らない民(出エジプト5)
第5回目 出エジプト記7章1~25節(2009年2月1日)
「主の守りを知らない民」
***主は、パロに、イスラエル人をエジプトから出て行かせるように告げるよう、モーセに仰せられた。また、パロの心をかたくなにし、しるしと不思議を多く行うとも言われた。その言葉どおり、主による様々なしるしが行われたが、パロの心はかたくなで、モーセらの言うことを聞き入れなかった。***
エジプトを脱出する前のところです。神は、モーセとアロンを用いて、パロに対してユダヤ人解放に至るための第1の災いを起こしました。(災いという言葉をここで使うのは抵抗がありますが、今日はそこには触れないでおきます)
出エジプトに至るまでに、10の災いが国を襲います。その1つめ、ナイル川が血になったというところです。これに続いてこの後に、カエル、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、雹、いなご・・・と、災いが続いて行きます。
パロ王の下でユダヤ人は奴隷の民としての扱いを受けていました。そこに、神が、民をエジプトから脱出させ、約束の地カナンへ連れて行くというのです。パロの心は揺らいだことでしょう。彼にとって、奴隷は財産です。奴隷は、エジプトの経済活動そのものを担っていました。
10節、モーセが主の言われたとおり、杖をパロと家臣たちの前に投げると、それは蛇になりました。しかし、同じことを、エジプトの呪術師たちもやってのけたために、「だから何だ」とパロは心を開きませんでした。そこで主は、ナイル川を血に変えてしまいました。本当の血だったのかという疑問もあります。赤潮だったのではないか、または赤色の藻が大発生したのでは、という説もあります。いずれにせよ、真っ赤に染まったナイル川のために大変困った状態になり、パロの心は揺らぎます。この先行われる災いに耐えかね「もうたくさんだ、出て行け」といいますが、その災難が無くなると、また頑なになるという繰り返しでした。
ところで、この場面を、現場ではなく、違う角度で見てみましょう。10の災いが起こっているとき、神の伝達訳としてモーセとアロンがパロと対峙しています。この時、民たちにフォーカスしてみたとしたらどうでしょうか。この間も、民たちは生きています。彼らの思いはどうだったのでしょう。聖書には出てこないので推測しか出来ません。民たちには全く知られないところで、モーセとアロンが死を覚悟でパロと対決していたのかもしれません。
モーセとアロンは、この時まだそんなに強くはありませんでした。パロに殺されても仕方が無い状況の中、「神がおっしゃることだから」それを告げたのです。そして民はそれをどのように見ていたでしょう。彼らの働きによってかえって自分達の苦役が増し加わり、モーセたちは民に疎まれ、あまり推挙されるということはなかったのではないでしょうか。
モーセは、パロと民の両方からプレッシャーを掛けられていました。神に従うということは、こういうことになることがあるということです。モーセは神の言葉を伝え、実現しなければなりませんでした。神は、わざわざパロの心を頑なにされました。神が直接パロの心に語りかけられたとしたらどんなに簡単に事が済んだでしょう。しかし、これはモーセたちがリーダーになっていくための訓練の一つだったのです。
キリスト者は神の言葉を聞くものです。日本でクリスチャンは1%もいません。この社会を見、立場を見、その上で、神の言葉を聞き、どう生きるかが私たちには問われています。ある時は誤解を受け、無駄に思える努力をしなければいけない時もあるでしょう。キリスト者が聖書の言葉を頂いている存在だとしたら、モーセとアロンと同じような立場にあるとはいえないでしょうか。
そして、私たちは、同時に「民」の立場でもあります。昨日と変わらない生活を今日も普通に送り、モーセとアロンが何をしているか見ていません。しかし、エジプトに対する災いは、見て体験しています。エジプト全体に様々な災いが起きているが、自分たちの生活がそうそう大きな変化があるわけではない。しかし、主の導かれる方向に確実に向かっているのです。実際、この先に民たちはエジプトを出て、40年間の旅に入っていきますが、この時点では、何も分かってはいません。
私たちは、海外でパスポートを無くしたり強盗にあうなど、何か問題が起こったときに、日本大使館に行きます。それは、「日本人」だからです。本来、日本人だからという理由だけで、日本という国によって完璧に守られているのが私たちです。民法は、人と人の関係を扱うもの。刑法は、国が私を守るもの。そして、憲法は、国から私たちを守るもの。憲法によって、日本人であれば誰でも絶対に守るという保証がされているのです。
神の恵みは、これと同じです。人間として生まれた私たちは、その時点で完全に主の恵みに浸っているのです。それが分からなくて右往左往してしまうのです。御言葉、そして教会にかけこむとき、神の完全な守りに気付きます。それはクリスチャンになる前からそうです。守られているのに気付かないだけなのです。
民は、昨日も今日も同じ生活をしていますが、モーセによって確実に準備が成されていきました。今、100年に一度の経済危機といわれ、特にこの豊田の地は、多くの方からご心配を頂いていますが、私たちのために祈って下さっている多くの方々がいることを覚えたいと思います。祈りは積み上げられています。何もないように思えるかもしれませんが、私たちは恵みの中に浸りきっているのです。大変なことが始まっていると、ユダヤ人も思ったことでしょう。その時水面下では、主の働きが始まっていたことに気付き初めていたのではないでしょうか。
皆さん一人一人には、人生のプロになっていただきたいと思います。学習曲線というお話を先日しましたが、私という人生のプロになるのです。神にある生き方を学びつつ、私にしか出来ない人生を私がやるのです。モーセとアロンによる、何度かの交渉の末に、最後にパロが「ユダヤ人出て行け」と、出エジプトをするに至りました。気の弱い、小さな存在だったモーセですが、コツコツとやりつづけたことが大きな動きへと繋がったのです。
マイナス要因しか見えないかもしれません。しかし、今やるべきことをやりつづけましょう。大失敗のように見えたとしても、すでに働いている神のご計画があることを覚えて歩んでいくなら結果も与えられます。キリストにある生き方を学び、実践して行きましょう。
「主の守りを知らない民」
***主は、パロに、イスラエル人をエジプトから出て行かせるように告げるよう、モーセに仰せられた。また、パロの心をかたくなにし、しるしと不思議を多く行うとも言われた。その言葉どおり、主による様々なしるしが行われたが、パロの心はかたくなで、モーセらの言うことを聞き入れなかった。***
エジプトを脱出する前のところです。神は、モーセとアロンを用いて、パロに対してユダヤ人解放に至るための第1の災いを起こしました。(災いという言葉をここで使うのは抵抗がありますが、今日はそこには触れないでおきます)
出エジプトに至るまでに、10の災いが国を襲います。その1つめ、ナイル川が血になったというところです。これに続いてこの後に、カエル、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、雹、いなご・・・と、災いが続いて行きます。
パロ王の下でユダヤ人は奴隷の民としての扱いを受けていました。そこに、神が、民をエジプトから脱出させ、約束の地カナンへ連れて行くというのです。パロの心は揺らいだことでしょう。彼にとって、奴隷は財産です。奴隷は、エジプトの経済活動そのものを担っていました。
10節、モーセが主の言われたとおり、杖をパロと家臣たちの前に投げると、それは蛇になりました。しかし、同じことを、エジプトの呪術師たちもやってのけたために、「だから何だ」とパロは心を開きませんでした。そこで主は、ナイル川を血に変えてしまいました。本当の血だったのかという疑問もあります。赤潮だったのではないか、または赤色の藻が大発生したのでは、という説もあります。いずれにせよ、真っ赤に染まったナイル川のために大変困った状態になり、パロの心は揺らぎます。この先行われる災いに耐えかね「もうたくさんだ、出て行け」といいますが、その災難が無くなると、また頑なになるという繰り返しでした。
ところで、この場面を、現場ではなく、違う角度で見てみましょう。10の災いが起こっているとき、神の伝達訳としてモーセとアロンがパロと対峙しています。この時、民たちにフォーカスしてみたとしたらどうでしょうか。この間も、民たちは生きています。彼らの思いはどうだったのでしょう。聖書には出てこないので推測しか出来ません。民たちには全く知られないところで、モーセとアロンが死を覚悟でパロと対決していたのかもしれません。
モーセとアロンは、この時まだそんなに強くはありませんでした。パロに殺されても仕方が無い状況の中、「神がおっしゃることだから」それを告げたのです。そして民はそれをどのように見ていたでしょう。彼らの働きによってかえって自分達の苦役が増し加わり、モーセたちは民に疎まれ、あまり推挙されるということはなかったのではないでしょうか。
モーセは、パロと民の両方からプレッシャーを掛けられていました。神に従うということは、こういうことになることがあるということです。モーセは神の言葉を伝え、実現しなければなりませんでした。神は、わざわざパロの心を頑なにされました。神が直接パロの心に語りかけられたとしたらどんなに簡単に事が済んだでしょう。しかし、これはモーセたちがリーダーになっていくための訓練の一つだったのです。
キリスト者は神の言葉を聞くものです。日本でクリスチャンは1%もいません。この社会を見、立場を見、その上で、神の言葉を聞き、どう生きるかが私たちには問われています。ある時は誤解を受け、無駄に思える努力をしなければいけない時もあるでしょう。キリスト者が聖書の言葉を頂いている存在だとしたら、モーセとアロンと同じような立場にあるとはいえないでしょうか。
そして、私たちは、同時に「民」の立場でもあります。昨日と変わらない生活を今日も普通に送り、モーセとアロンが何をしているか見ていません。しかし、エジプトに対する災いは、見て体験しています。エジプト全体に様々な災いが起きているが、自分たちの生活がそうそう大きな変化があるわけではない。しかし、主の導かれる方向に確実に向かっているのです。実際、この先に民たちはエジプトを出て、40年間の旅に入っていきますが、この時点では、何も分かってはいません。
私たちは、海外でパスポートを無くしたり強盗にあうなど、何か問題が起こったときに、日本大使館に行きます。それは、「日本人」だからです。本来、日本人だからという理由だけで、日本という国によって完璧に守られているのが私たちです。民法は、人と人の関係を扱うもの。刑法は、国が私を守るもの。そして、憲法は、国から私たちを守るもの。憲法によって、日本人であれば誰でも絶対に守るという保証がされているのです。
神の恵みは、これと同じです。人間として生まれた私たちは、その時点で完全に主の恵みに浸っているのです。それが分からなくて右往左往してしまうのです。御言葉、そして教会にかけこむとき、神の完全な守りに気付きます。それはクリスチャンになる前からそうです。守られているのに気付かないだけなのです。
民は、昨日も今日も同じ生活をしていますが、モーセによって確実に準備が成されていきました。今、100年に一度の経済危機といわれ、特にこの豊田の地は、多くの方からご心配を頂いていますが、私たちのために祈って下さっている多くの方々がいることを覚えたいと思います。祈りは積み上げられています。何もないように思えるかもしれませんが、私たちは恵みの中に浸りきっているのです。大変なことが始まっていると、ユダヤ人も思ったことでしょう。その時水面下では、主の働きが始まっていたことに気付き初めていたのではないでしょうか。
皆さん一人一人には、人生のプロになっていただきたいと思います。学習曲線というお話を先日しましたが、私という人生のプロになるのです。神にある生き方を学びつつ、私にしか出来ない人生を私がやるのです。モーセとアロンによる、何度かの交渉の末に、最後にパロが「ユダヤ人出て行け」と、出エジプトをするに至りました。気の弱い、小さな存在だったモーセですが、コツコツとやりつづけたことが大きな動きへと繋がったのです。
マイナス要因しか見えないかもしれません。しかし、今やるべきことをやりつづけましょう。大失敗のように見えたとしても、すでに働いている神のご計画があることを覚えて歩んでいくなら結果も与えられます。キリストにある生き方を学び、実践して行きましょう。
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