2009年3月7日土曜日

主は力強く私たちを導かれる(出エジプト7)

第7回 出エジプト記13章1~22節(2009年2月22日)

「主は力強く私たちを導かれる」


***主はモーセに告げて仰せられ、モーセは民に言った。「イスラエルで生まれる初子は人であれ家畜であれ、主のために聖別せよ。」「奴隷の家であるエジプトから出てきたこの日を覚えていなさい。この月に、種を入れないパンを食べて、主が私たちにしてくださったことを覚え、後にそれを息子に説明しなさい。主が力強い御手であなたをエジプトから連れ出されたからである」***



エジプトを出る、準備の時を迎えています。私たちは、学年が新しくなったり、就職や進学、新年度を迎えるときにどんな助言が欲しいと願うでしょうか。毎朝、一日が始まる時に、一番最初に聞きたい言葉は何でしょうか。それは、「大丈夫だよ」という言葉ではないでしょうか。また、私たちは、結論を聞きたいと思うのではないでしょうか。

2節、神がモーセに告げられます。40年続く旅の最初に語られた神の言葉。それは、「あなたがたの初子を聖別せよ」ということでした。最初に生まれたものは家畜でも人の子でも、聖別、つまり捧げなさいということです。それは、「神のものとして歩んでいきましょう」ということです。

9節「主が力強い御手で、あなたがたをエジプトから連れ出されたからである」このフレーズは何回も出てきます。力強い御手が既に準備されている。だから大切なのは、その神に頼ることだということです。せっかく力強い御手があっても、それに頼らないなら全く意味がなく何にもなりません。

「初子を捧げる」とは、その表明です。神を信じる決断として、その子を見るたびに、神にこの子を捧げたと思い出すためです。神の導きを信じ、その御用のために用いてやってください、この地上において、神のため人のために仕える人としてください、ということです。

信じるという行為、それは、自分の表明をしなければなりません。その決断、表明に対して、大きな祝福と憐れみを受けるのです。一般的にも、一つの決断をしたなら、これをします、と表明します。ここでは、「捧げることを覚えよ」といわれているのです。

決して強制ではありませんが、例えば礼拝で捧げられる献金について。収入が入ったら、一番最初に献金をそこから取り分けること。初子とはそういう意味です。また、1週間のうち日曜は礼拝の日として捧げること。これも一つの決断です。それら一つ一つの決断を確認するため、この準備の時に、「初子を捧げよ」と神は仰せられたのです。それは、信じ続けるという点でとても大切なことです。

ノアの洪水が起こったとき、神は契約のしるしとして虹を示されました。虹を見るたび、主の約束を私たちが思い起こすためです。今、旅の準備をするにあたって、神を信じるためにイスラエル人たちがやるべきことを主は示されたのです。それを見るたびに思い出すためにです。今の私たちでいうなら、それは献金であり、日曜に礼拝を捧げることにあたります。

そして主は、順序を与えられました。17節、神が導かれた道すじについて書かれています。地図をみると分かりますが、カナンに向かうには通常3本の道があり、いずれもとられませんでした。川沿いか、内陸を通ってか、南へ下るか。神の示された道は全く違う道でした。それは、民がエジプトに引き返すといけないからです。海沿いには、エジプトの要塞、関所のようなものがあり、兵隊が多く駐在していました。長いこと奴隷だった彼らには、エジプトと戦う力はありません。何も教えてもらっていないからです。戦い方も、統制の知恵もありません。また精神的にも弱かったのです。

教育には時間がかかります。その成長の過程で、焦ってはなりません。信仰をもった後の自分の人生を見るときに、せっかく聖書に出会ったのに全く成長できていないではないか、と思う必要は無いのです。クリスチャンでなかったときは、奴隷状態でした。自分はダメな人間だと思い込み、そういう価値観でがんじがらめになっていたのです。今、そこから解き放たれて、自分自身を神の作品として見つめ、自分だけの人生を生きることが出来るようになったのです。「なのに、なぜ夫婦喧嘩ばかりしているのか・・・」などと思うかもしれません。しかし、まだ出始めです。ようやくこれから解放への道へと歩きだしたところです。もし劣等感がよぎったとしたら、「昔の自分はそうだった」と思えばいいのです。今からは違います。エジプトから出たのですから。

神の業が始まるとき、準備があり、順序があります。多治見にはカトリックの修道院がありますが、宣教200年計画というものがあるそうです。それくらい長い目で見ることも大切です。私たちは少しずつ成長していきます。最後に完成しますが、今の段階ではまだ見えていません。しかし、聖書の中の預言によって、それは約束されているのです。

14節、後になって子供たちに尋ねられたらこのように言え、とあります。「どうして教会に行ってたの。どうして信仰もったの」と子供たちに聞かれたら、「神は力強い御手で精神的霊的に奴隷だった私を連れだして解放したのだ」と子供たちに伝えるのです。まだ、ここでは、経験していないことです。しかし、約束されているのです。だから大丈夫、歩き続けなさいと主は言われます。それが、この恵みに与る一歩一歩になるのです。

26節、具体的な例として、雲の柱、火の柱のことが書かれています。今の私たちにとっては、教会であり、礼拝、祈りであります。小さな祈りで良いのです。これを与えて下さったと確認し、今日も使命を頂いていると確認、そして今日も守ってくださったと確認する、それが雲の柱、火の柱です。イスラエルがみことばに1つになっていったように、私たちも今日あたえられた御言葉「力強い御手で導かれた」を心に留めて歩み、将来子供たちにも伝えていきましょう。