第10回 出エジプト記 15章22~27節(2009年5月3日)
「契約が与えられて生きる」
***葦の海から旅立った民は、荒れ野を三日間進んだが、水が無かった。マラに着いたがそこの水は苦くて飲むことが出来ず、民は「何を飲んだらいいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水は甘くなった。***
民はマラという場所にやってきました。そこでは、水が苦くて不平を言ったとあります。つい先日まで、神の素晴らしい業を目の当たりにした民です。海が分かれて、渇いた地を歩くという、信じられないようなことを経験したのです。自分達は助けられ、エジプト軍は海の藻屑と消えていきました。この経験を通して、神によって守られるということを分かったはずの民でした。
しかし、現実にぶつかりました。水が無いのです。マラ、また葦の海の辺りは、湿地や川の水は飲むことの出来ない悪いものだったようです。生きていくために大切な水がないという現実。民は絶望しました。神様によって導かれているなら、とんとん拍子に上手く事が行っても良さそうなものなのに。今までは上手く行きました。だからこれからも上手くいくというのが大前提になっていたのです。
24節、民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った、とありますが、これには「どうしてくれるんだ」という強い意味があります。そこでモーセが主に叫ぶと、主はある木を示されたとあります。フロリダやペルーには、水を浄化する植物が実際にあるそうです。備長炭などもそうですね。その木を水に沈めると、水が甘くなったというのです。
水が無いということは、確かに死を意味するでしょう。しかし、砂や石を使って水を浄化する方法があるということは、この当時既に知られていました。なのに、彼らはパニックになってしまったのです。今の、豚インフルエンザについてもそうです。そのことしか見えず、他の角度で見ることが出来なくなってしまうのです。神の契約を疑うようになります。「本当に守ってくれるのか?」といいたくなってしまうのです。
25節、神は、もう一度契約を民と結びます。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」 何かをしないと罰を与える、というものではありません。この契約は、一方的に祝福を与えるというものです。
人同士の契約には、種類があります。一つは双務契約。お互いが義務を負う、Give&Takeの関係です。もう一つは、片務契約といい、片方が一方的に義務を持つものです。相続などがそれで、相続させる方のみその義務を持っています。神の契約とは、この片務契約です。しかし私たちは、契約といわれると全て双務契約と考えてしまいます。
結婚を含め、人間関係を全てGive&Takeで考えます。人間同士の契約としては、そういうものになってしまうと思います。しかし、聖書的に言うなら、夫婦は片務契約なのです。片方が一方的に義務を持ちます。夫婦だけでなく、親子関係もそうです。双方の、片務契約です。何かをやったからではなく、~であっても愛する、というお互いの片務j契約で成り立つものなのです。
双務契約で人間関係を捉えるとき、ダメになっていきます。この時、民たちは信仰をそのように考えていたのではないでしょうか。神が自分達のために働いてくれるのは当たり前だという発想だったのかもしれません。しかし、あなたがどんなものであれ、愛し、助ける。正しい道をわたしは示す、だから諦めるな、と神は言われるのです。
一方で、私たちは、神が何をなさろうと、愛するということです。神の導きに、一方的に身をおくのです。そして、神も、私たちがどうあろうとも愛してくださいます。片務契約で関係を捉えることが、最大の平和、最大の愛です。全ての人間関係において、何かをしたから、やってもらって当たり前という考え方は、神の示す愛ではありません。
27節、エリム(安らぎの地)につきました。そこには12の泉があったとありますが、12とは完全数で、本当の平安を意味しています。神の契約は、一方的な愛です。私たちがどのような問題があろうとも、愛して下さる神を信頼するとき、平安に歩んでいくことができるのです。
