第17回目 出エジプト記20章18節~21節(2009年7月5日)
「民たちの畏れ」
***雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した民は、たじろぎ、遠く離れて立ってモーセに言った。「どうか、私たちに話して下さい。聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」モーセは民に言った。「恐れてはいけない。神が来られたのはあなたがたを試みるためだ。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためである。」***
雷、いなずま、角笛・・・民はたじろぎ、恐れたとあります。民たちの、神に対する恐れは、ここで初めて生じたものでした。「おそれるということ」を初めてここで知ったのです。しかし、エジプトを出る直前に目の当たりにした様々な災い、幼子が殺されていったあの事件について、民は恐れたのではなかったのでしょうか。しかし、「おそれる」という言葉の出エジプト記での記述は、ここが初めてです。
私たちは、「おそれること」についての学びが必要です。生活の中で、多くのことに恐れを抱きます。経済がこの後どうなっていくのか、年金は、健康は、ウィルスは・・・と数えればきりがありません。ユダヤ人たちは、十戒を与えられ、そして雷を目撃したときにたじろぎ、恐れました。それは、神から直接言葉をかけられたことへの恐れでした。今までは、モーセを通して神の業を見てきた彼らでした。それに対しての奇異な感じ、不思議さ、はあったでしょう。しかし、恐れという感覚は初めて持ったのです。
ある大学院で、恐れについての研究をしたそうです。アヒルのひよこを、1羽は高層マンションで、もう1羽は地上で飼います。そしてある程度育ったら、それぞれをガラスの板に乗せるのです。高層マンションで育ったアヒルは、全くへっちゃらですが、地上で育ったアヒルはパニックになって、右往左往してしまうそうです。マンションで子供が転落する事故が度々起こりますが、高さに慣れてしまってつい不注意になるということがあるのかもしれません。
「おそれ」には、正しい「おそれ」と正しくない「おそれ」があることを学ばなければなりません。私たちに必要なのは、恐れを無くすことではないからです。
正しくない恐れとは何でしょう。19節、民は、神が自分たちと話すなら自分たちは死んでしまうのではないかと恐れました。20節で、恐れてはいけないとモーセが語ります。民たちは、神に対して、「自分たちの失敗に対して罰を与えるのではないか、神の気分を害するようなことをしてしまったのではないか、自分は大丈夫なのだろうか」という感覚をもったのでしょう。2度と悪いことをやらないから許して、というような、悪いことを親に見つかった子供のような恐怖心です。
しかし、神は、そのような方ではありません。出エジプトを通して、導き、与え、愛するということを示してこられました。これを学ぶなら、あなたは生き生きと生きられる。本当に良かったと思える人生を生きられる。そのために、神の言葉を聞く必要があると語るのです。ところが、民たちは、そのような聞き方をしませんでした。~~しなかったら酷い目にあわされる、というような感じで、びくびくしています。
今の環境が変わったらどうなるのか、自分は大丈夫なのか、という恐怖はあるかもしれません。それは良い恐れです。いろいろと都合の悪いことが出てくるかもしれない、と。それは、神と自分のギャップに対する恐れです。しかし、そういうものはだんだんと消えていきます。日々、神と共に歩むときに、その中で少しずつ学ぶとき、最後には平安が与えられていきます。
何が起こるか分からない、怖いかもしれないが、一歩踏み出してみよう。神が共におられるから。神に従いながら歩んで行こう、という、これは正しい「おそれ」です。
神の言葉とは、実際おそろしい言葉です。聖書を一人で読むとき、それはもろ刃の剣となりえます。カルト集団は、聖書を自分たちの良いように解釈して読んで、殺人さえ聖書の教えだとして行うことが出来てしまうのです。一人で読むのではなく、教会で、愛・期待の中で共に読んでいくときに、人生を切り開く剣となっていきます。
神が、完全に愛する方だと理解して、聖書を読むのです。必ず神が導かれるという大前提のもとで聖書を読むとき、私たちがいだく恐れは、正しい「おそれ」です。
ユダヤの民は、ここで初めての「おそれ」を学びました。カトリック教会では、ある場所に柵が設けられていて、そこから先は、信徒は立ち入ることが出来ません。聖職者だけが入ることが出来ます。聖俗を分け、俗の人は、神の聖さに触れては罰を受けるとされています。しかし、旧約聖書の時代から、神は、約束に愛を含ませて与えておられました。正しい「おそれ」なら、持って歩んで行って良いのです。
この先、十戒に付随する規定が細かく書かれていきます。モーセは、「正しいおそれの中で読むなら大丈夫」、だから「おそれてはならない、恐れる必要はない」と語っているのです。
