第28回 出エジプト記31章1~18節(2009年11月8日)
「安息日を守るために」
***神はモーセに仰せられ、天幕を作るための技術者を任命された。また、話の最後に、安息日を厳守するように仰せられた。***
18節にある「二枚の板」。これは聖画にもよく登場しますが、「十戒」が書かれているものです。今まで、山の中で、モーセと神の話がどのように進んできたのかを学んできました。天幕の作り方について。また、その御用をする祭司の装束など、事細かに神は示されました。天幕は、高価な材料を用いて大変荘厳な造りにするように書かれています。
今日の個所の前半では、その技術者として素晴らしい人を任命しています。これは、現代でいえば、棟梁と副棟梁のようなものだといえます。
後半では、「安息日を守れ」ということを語り、そこで話を終えて、モーセは下山し、民のところへ帰っていきます。安息日の厳守が、神の最後の言葉でした。
安息日を守るとは何か。それは、休め、という神の命令です。その理由として、17節に「主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたから」とあります。
現代風にいえば、こうでしょうか。「日曜日は必ず休むように。休まなかったら死刑だ」と。そんな会社はありません。収益のために、出来れば日曜も出勤してほしいというのが本当のところでしょう。しかし、必ず休まなければならないのは、考えてみれば当たり前のことです。なぜなら、休まないなら、次の仕事が出来ないからです。
日本人は、働くことが一番大事だと教えられてきました。月月火水木金金といわれたように、休みは10日に1回でよい、いや、15日、1ヶ月に1回で良いのだと言われていました。日本人の牧師も、なかなか休暇をとれないということがありますが、これは、神の命令に背いて罪を犯しているということになります。なぜなら、休むということは生きるということだからです。
健康のために適度な運動をするように、と医者に言われると、毎日一生懸命やってしまう。それでは、体を壊してしまいます。また、記憶というものは、眠ることによって整理が出来るといいます。今、アメリカの教会学校では、睡眠の仕方について教えるそうです。教育上、睡眠がとても大切だというのです。ドイツには、眠りの神学という分野もあるそうで… とにかく、休むということがどれほど大事なことで、それをしなければ罰が与えられるのだと神が仰せられるのです。
休むとは、一体何でしょうか。安息日とは、どう関係しているのでしょう。私たちはこれまで、安息日とは神にささげる時間だと学んできました。安息日、すなわち礼拝を捧げるということは、動物などを捧げて殺し、自分の罪を赦してもらうという儀式であり、神にまみえる時でした。休むことと安息日の関係は一体何でしょうか。
マルコ12章には、やもめの献金についての記事があります。当時の最小単位であるレプタ2枚(今でいえば数十円でしょうか)を捧げた女性について、イエスは言われました。「この貧しいやもめは誰よりもたくさん献金しました。皆は有り余る中から入れたが、この人は自分の持っているものをすべて入れたからだ」と。
ここに登場するのは、貧しいやもめ、イエス、弟子たち、金持ちたち。当時、多くの献金が捧げられると、ドラを鳴らして賞賛するというような風習があったようです。イエスは、ここで、金持ちを悪く言っているわけではありません。やもめが一番たくさん入れたと言っているだけです。これは、彼女が、彼女自身の命をかけるものをそこに見つけていたということです。
献金は、額が問題なのではありません。私たちは、自分の命をかけるものに財を投げ打って捧げます。私たちがお金を一番かけるところが、私たちの命をかけているところだといえます。このやもめは、神に命をかけることを決断したのです。その日のもの全てを捧げました。神に期待し、全てをかけていくという姿勢がそこに表れているのです。
「平安と喜びを得るためにはどうしたらいいでしょうか」と問われたら、どう答えますか。お金をたくさん得ること。健康であること。どれも大事ですが、それだけでは足りないことを私たちは既に知っています。日本では、年間の自殺者が三万人を超えています。一方、アフガニスタンでは自殺をする人は一人もいません。明日生きていられるかわからないギリギリの日々の中で、自ら死のうという人はいないのです。日本では、生きていくのに困るということは殆どありません憲法で私たちの最低限度の生活は保障され、生活保護を受けることもできます。そのための市の職人がたくさんいます。自殺をする人の殆どは、普通の生活をしている人々です。
一つ言えることがあります。命をかけて何かを始めるなら、周りにあるものは見えなくなるのではないでしょうか。私たちには、それがあるでしょうか?世の人々に問うなら、命をかけるまでのことは、おそらく殆どの人が、ないと答えるでしょう。やもめは、神に命をかけました。だから全部を捧げました。彼女にも生活はありました。しかし、神が自分の今日、そして明日をになってくださると確信し、その証としての献金だったのです。
安息日とは、命をかけてそれを守るという確認のための礼拝です。神が私を造られました。私にしか生きられない人生を私が生き生きと生きることで、周囲の多くの人に良い影響を与えることができるよう、神がそのように私を造られました。どんな仕事でも、立場でも、何歳でも、何人でも、あなたがそこにいるということが、どれほど意味があって重要なことかということを知らなければなりません。
人生が上手くいかない。それは、神を拒絶して生きてきたからです。神に立ち戻り、自分にしか生きられない与えられた人生を生きるということ、それを安息日の礼拝で確かめるのです。だから安息日、礼拝はいのちそのものなのです。
ユダヤ人も、このときはまだ分かっていませんでした。だから、「安息日を守らないものは殺されなければならない」と神はいわれました。民数記には、安息日に焚き木を拾いにいってそれが見つかり、死刑になった人について記事があります。「だから、私たちはそこまでして礼拝を守らなければならない」…と読むなら、方向を間違えてしまいます。神は、命かけるものの確認のために、私たちに礼拝を備えて下さったのです。
本当の平安を持つためには、命がけのものを持つことです。自分を造ってくださった方を知り、その方と共に歩むということです。私たちの命がなくならないために、神にまみえよ、と主は仰せられるのです。
休め、と神が仰せられるのは、単に仕事を休んで寝て休む、ということだけではありません。もっと大切なのは、どう生きるかを確認することをしなければ、次への力とはならないということです。礼拝はいのちそのものであると、理解し続けていくのです。それは、右向け右で一気に分かるものではありません。少しずつ、本気で、理解していくこと。そのために祈り求めていくこと。礼拝のいのちそのものを味わっていくこと。出エジプトで学んでいるのは、それをユダヤ人たちは40年もかけてやってきたということです。私たちも長い時間をかけて、人、神との関係の中で、それを学んでいくのです。
