2009年2月13日金曜日

主の与えられる裁き(出エジプト6)

第6回目 出エジプト記11章1~10節(2009年2月8日)

「主の与えられる裁き」


***ナイル川を血に、カエル、ブヨ、アブを大量発生させる、家畜の疫病・・・ここまで主は9つの災いをエジプトに対し行ってきた。あいも変わらず頑ななパロに対して最後の災いを行われる。エジプトの初子は、王の初子から家畜の初子に至るまでみな死ぬと主は仰せられた。***


10番目の災い、それは、王の子から家畜の子にいたるまで、最初に生まれたエジプト人の子供の命をとってしまうというものでした。この事件が、ユダヤ人がエジプトを出て行く分岐点となります。

9つの災いについては、エジプトの季節にあわせた順番に起こったのではないかという学者がいます。ナイルに藻が発生する季節だったのではないか、また、11月には雹が降ったということが実際にあることなどからそう言われます。主はそのようにして、自然のなりゆきを用いつつも、エジプト人に対して警告を行ったのです。

今までの災いは、モーセとアロンの杖を用いて成されました。しかし今回は違います。神ご自身が出て行って、エジプトの初子の命を絶つということをされたのです。

モーセの杖が蛇になった。しかし、エジプトの呪術師も同じことが出来ました。しかしそれは、途中までのことです。ある時点以降は、そんな不思議合戦も出来なくなって行き、エジプト人たちはだんだん追い込まれていきました。この、追い込まれていく順番にも意味があります。

アニミズムといって、岩、木、など自然のどこにも力が宿っているという概念があります。それが神とされ、いつしか神の顔が出来、人格神となっていく。その一つ一つである、カエルやブヨを断罪していったのです。これは、人間の愚かさの一つです。何か不思議なことがあると、それを神に仕立て上げ、その顔色を伺いながら生きていこうとするのです。

10番目の裁きは決定的でした。主自ら出て行ってそれをされたのです。9番目までは、警告でした。私たちは、トヨタなど企業のことを含め、今の時代の中に「警告」を読み取らなければなりません。エジプトの繁栄のさなか、奴隷であるユダヤ人たちが突然いなくなるなどということを、エジプト人たちは考えたことがあったでしょうか。突然、200万以上の奴隷達が一挙にいなくなって、一体エジプトの経済はこれからどうなるのかと思ったのではないでしょうか。

主の警告。それは既に起きており、結果は必ず出ます。つい先日、カトリック司祭の猥褻事件がありました。仏教のお坊さんもそういった事件を起こしたことがありますが、「なんだ、キリスト教も同じか」と思われるかもしれません。実際、プロテスタント教会でも、大変なことが起こっています。

日本での「弟子訓練」第一人者である、Bという韓国人宣教師がいます。現在、彼の、女性信徒への猥褻疑惑でキリスト教メディアを騒がせているという、大変情けない事件が起こっています。10年前、ある集会で彼の講演を聞きました。Bは言いました。「教会形成のためには、牧師のために死ねる信徒を作らなければならない」そのフレーズは、講演会の中で何度も出てきました。当時神学生だった私は、質疑応答の際に、「牧師のためにではなく、イエス様のために、の間違いではないでしょうか」と聞きましたが、ひどく反論され、説教をされたものです。

既に結果が出ています。ここに至るまでに、警告は何度も与えられてきたはずです。おかしいものはおかしいと気付いた人たちがいたでしょう。彼の事件は、私たちの責任でもあります。何故止められなかったのかと考えると、涙が出るほどイライラし、夜眠ることも出来ないほどです。相談できる人はいなかったのでしょうか。教会の信徒たちは皆、「B様、B様」といって、カルトを作ってしまったのです。これが、日本の教会全体にとって、どんなに負となっているか。私たちも悔い改めなければなりません。

出エジプトに戻ります。ここまで見ると、パロとモーセだけの関係のように見えますが、エジプト人とユダヤ人に対しての主からの警告であると分かります。パロは、何故それを理解できなかったのでしょう。今の経済状況も同じです。こうなるまでに、警告があったはずです。つまり、私たちの責任もあるということです。企業のために、国家のために、上司のために、私たちはもっと祈るべきでした。

神を畏れないことへの警告。悔い改めと反省は違います。悔いて涙し、神の方向を向いて戻るときに、赦されます。そしてそのチャンスはいつでも与えられているのです。パロはここで悔い改めるべきでした。

3節、エジプトの家臣たちは、この艱難の中でモーセを理解し始め、好意をもつようになっていたようです。パロのみ、聞く耳を持っていませんでした。神の言葉を聞こうと思うとき、教会や家族のことを省みて振り返るべきであることに気付きます。そして自分は、本当にそれらのことを理解していたかと省みるのです。

「何故こんなことになってしまったのか」パロにとっては最後のチャンスでした。主による断罪の中、ユダヤ人たちは約束の地へ向かって旅立ちます。一方パロたちには、絶命という悲惨な最期が待っていました。真実な悔い改めがあるなら、主は必ず赦してくださいます。前提として完全な赦しがあり、私たちがどのようにあるべきかを知ることが出来ます。

ここは、出エジプトの最大の山場です。今は隠されていても、その大きな罪はいつか必ず明るみに出され、社会をズタズタにします。しかし、主は、赦しの御手をもって、いつも待っていて下さっています。これを伝えていくことが、どんなに大切でしょうか。

イエスの十字架の意味が、出エジプトにも大きく係わっています。社会を見つめ、自分を見つめる。クリスチャンとして見つめ、個人として見つめ、悔い改めるべきことを悔い改めるなら、変わります。一人一人が変わっていき、そして、企業の上の方の人々にも伝わっていくでしょう。どんな小さなことでも食いあらめる姿勢をもって歩んでいきましょう。そうするなら、この社会が変わっていくのです。