第22回 出エジプト記23章1~9節(2009年9月27日)
「正義に生きよう」
***引き続き、主の掟について。訴訟において、権力者に偏るのも、貧しい人を特に重んずることも良くないとされるなど、事細かに定められた。***
主はルールを定められました。それは、民が一つの方向へ向かうためにとても大切なことでした。1節、「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」とありますが、これは一体、法律なのか、それとも情けに関わってくるものなのか、と思いませんか。前回、殺人罪についての規定から学びましたが、今回は訴訟についての学びです。
証人とは、法律用語です。悪意とは、相手を陥れてやろう…という意味もありますが、「意識してなくて」という意味も入ります。故意過失という言葉があり、良く分からないのにいい加減な証言をしてはいけないということも含んでいるのです。そのいい加減さが、相手を不利な立場に陥れていくからです。
たとえば、最近問題になっている痴漢冤罪など。本当はその人はやっていないのに、まるで見たかのような気になっていい加減な証言をするということがあります。交通事故で万が一加害者になったら、事故現場にいって一日考えることが大切です。本当のところ自分はどうだったのか、信号は青だったのか赤だったのか。でなければ、もしかして自分に過失がないところまで、流れによって及んできてしまう可能性があります。このように、悪意だけでなく、「いい加減さ」も大変困ることです。
2節、「悪を行う権力者の側に立ってはならない。」とあります。普通に考えるなら、権力者側に付く方が良いからです。なぜなら、権力者に対して私たちはNoと言えません。ともすれば悪を行う権力者の側に立ってしまう、そうなりかねない私たちだから、聖書はこう書くのです。人気のある指導者であったとしても、偏ってはいけません。日本の政治でいえば、あの小泉人気は一種の集団ヒステリーであり、異常でした。
3節、「貧しい人を特に重んじてもいけない」とあるのが、聖書のすごいところです。当時の法律にこういう文言はありません。情として、貧しい側に立ちたいとも私たちは思ってしまいます。ここで教えられるのは、聖書が教えるのは、「公平」ではなく、「公正」だということです。
公正とは公に正しいと書きますが、それは神が真ん中にいるかどうか。神の発想で物事をとらえられるかどうかということです。私たちの概念は常に「公平」です。ところで、公平とは、そんなに良いことばかりでしょうか?個性、環境、男女、国籍、全てにおいて違いばかりの私たちです。同じ教育を受けたとしても、それぞれ結果には差が出るのです。聖書では、実は公平という概念はあまり出てきません。
神の発想とは何でしょうか。4~5節、「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」とあります。敵の牛やろばです。起こしてやりたくなくても、起こすのです。「それは自己責任だから、私は知らない」と言うなら、それが神の目に正しいかどうか?その人物を憎んでいたとしても、そのロバは神の作品であり、それを管理しているその人がいる、ということ、それが神の発想です。ロバの気持ちを代弁するなら、「私も神の作品だから、大切にして下さい」というところでしょうか。
読み進んで行くと、土地も休ませるようにと、聖書は連作を禁止しています。ここでは、「土地が叫ぶ」という言語が用いられています。
世の中は動物愛護の風潮が高まっています。同じ哺乳類でも、牛は食べても良くて、イルカは食べてはいけない。何故かといえば、牛は馬鹿でイルカは頭がいいからと言います。聖書によれば、そもそも全ての動物が草食でした。そしてある時、食物としてこれを与えると神が宣言されました。人間はその頭として、動物は大切にしなければならないが、同時に管理することが許されたのです。神の正しさの中で、動物を大事にし、また、食べても良いとされたということです。
イルカは頭が良いから食べてはいけないという考えは、公平の概念から来ています。能力のないものは食べても良い、平均値より低いのだから、という考えです。平等とは私たちにとって大事ではありますが、公平と公正その両方を分けて考えなければなりません。公正、つまり神の言葉を基準に考えるのです。
6節~8節は、正しい裁判についての記述です。賄賂がどんなに世の中をダメにしているでしょうか。出エジプトして、何百万の人が共に一つの目的に向かうとき、こういったことが一番悪いことです。それは単に、ルールを守ったら良いという問題ではありません。こういうこと、つまり、神の言葉をおきざりにし、人間中心主義ヒューマニズムに陥っていくことが、実はとても怖いことなのです。
ある教会では、ヒューマニズムを大切にし、社会活動に専念するところもあります。しかし、真の意味で私たちが生き生きと生きるためには、神の公正がこれであるとはっきり伝えていくことの方が大事です。人間中心ではなく、神中心だという、その公正です。
自分の正しさ感で、貧しい人や権力者に偏るのではなく、常に神の方だけに向いていきましょう。神の言葉に身を置いて、一つ一つのことを生活の中で、神が何を言わんとしているかを問い続けていきましょう。
