2009年11月10日火曜日

神の約束を学ぶ(出エジプト23)

第23回 出エジプト23章10~33節(2009年10月4日)

「神の約束を学ぶ」

***引き続き神は、安息年、安息日、祭り、また違反に対する警告などの定めについて語られた。***


休むということは大切です。私たちが「休めない」と感じる時、それは、不安から来ているかもしれません。仕事をしなければいけない、休んでいる場合ではないと自分をせきたてるのです。

聖書は、6日間働いて1日休むように勧めています。7分の1は休めということです。昔は、半月または一月に1日休みということが一般的でした。神は私たちに「休め」、また約束として「大丈夫」と語られるのです。しかし人間側の心としては、「本当に休んでいいものかどうか」「新婚旅行から帰ったら机が無いのではないか」などと不安に思うものです。

14節から、年に3度の祭りを行うようにとあります。1つ目は種を入れないパンの祭り。これは、過ぎ越しの祭りともいわれ、モーセとユダヤの民が災いから守られ出エジプトしたことを記念して行われます。2つ目は初穂の刈入れの祭り。これは現在のペンテコステ(聖霊降臨)を指しており、時期としてはイースターの後に行われます。3つ目は収穫祭。これらの祭りに、大麦、小麦、ぶどう・オリーブをそれぞれ献げよといわれました。17節「男子は主の前に」とありますが、男子とは代表の意味です。

祭りというと、献げものをして、収穫を祈るものだと考えるかもしれませんが、逆です。収穫を下さってありがとう、というのがその意味です。「大丈夫」というのが最初なのです。大丈夫、あなたはお祭りが出来るようになる。祭りの意味は、その都度、感謝することが出来るように、ということです。「何も持たずに前へ出てはならない」というのは、「収穫の多いのに気付きなさい」ということなのです。それは、こんなに沢山与えられていたのだという発見です。

祭りとは、「礼拝」と考えることが出来ます。礼拝とは、聖書のお話を聞くことが全てではありません。1週間それぞれが歩んできて、物質的精神的に、どんなに神に支えられ愛されてきたかを確認し、感謝を献げる、それが礼拝です。7日に1日休んで礼拝を捧げよというのは、心の休みをとりなさいということです。人間はすぐ何でも忘れてしまいます。週に一度集まって、礼拝を献げ、聖書を読み讃美歌を歌うときに、それを確認することが出来るのです。

結婚式でするお話ですが、今まで主語が「私は」だったものが、「私たちは」に変わる、それが結婚です。クリスチャンもある意味そうです。イエスに出会ってから、「私たちは」に変わり、それが礼拝の姿です。キリストに愛されている「私たち」、その感謝をささげるのです。

19節、「子ヤギを、その母親の乳で煮てはならない」とあります。これは、異教の習慣だったようです。私たちは、習慣・文化の中で、それが普通と思いこみつつ、実はとんでもない方向へ走っていくということがあります。カルトにのめりこむ人々は、自分ではその異常さに気づくことが出来ません。普通と思っているのです。スイカ割りをするときに、目隠しをされて歩こうとすると、自分ではまっすぐ歩いているつもりが、とんでもない方向へ向かって行くようなものです。

礼拝を献げるということは、私たちの感覚がともすれば狂ってしまうのを、安定させる役割もあるのです。20節、「わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」1週間のうち1日の礼拝。それは、世の人には大変なことだと映るかもしれません。しかし、主は、物質的・霊的・精神的に祝福すると明確に約束して下さっています。だから、安心しなさいと語られるのです。

とはいえ、どんなに主イエスを思っていても、外れていくということはあります。それがサタンの仕事です。クリスチャンでなくても、素晴らしいことが出来る人はこの世に大勢います。そうなると、イエスが神であると信じる必要がどこにあるのか、と思えることがあるかもしれません。私たちが外れていくとき、その外れ方はとても微妙なものです。「これもいいのでは?」と、人間の判断で少しずつ外れ、狂っていくのです。しかし、その時に神から問われます。外れないために、私たちを造った方は何と言われるのか、十字架のイエスが何といわれるかを私たちは聞かなければなりません。その方を知り続けることをしなければ、私たちは簡単にサタンの誘惑に陥っていくでしょう。

32節、他の神々と契約を結んではならないと語られます。主なる神は、私たちを必ず祝福すると約束されました。ただ単に、これをしてはダメだ、と言われたのではありません。ユダヤの民は、世界中どこにいても、毎日同じ聖書の個所を読み続けています。それを4000年の間も続けてきたのです。神は、約束なしには、言葉を発せられない方です。全てのことに意味があり、また、主の約束がそこにあるのです。