第19回 出エジプト記21章12~25節(2009年8月23日)
「これまでの生き方からの脱出」
***神が人に与えられた契約の続き。人を死なせた場合は死刑に処すること、けがをさせた場合はどのように罰せられるかなどの規定。***
前回、奴隷について学びました。今回は、死刑についての契約です。この後、財産についてなど、神が民に与えた契約が続いていきます。
考えてみると不思議です。今までユダヤ人たちは、一つになって戦ってきたのではなかったのでしょうか。殺人について規定しなければならないような大変なことがあったのでしょうか。たしかに、250万人もの群衆です。いろんなタイプの人がいたでしょう。殺人を犯した犯人は殺されなければならないという、こういった法律は、当時既に、ハムラビ法典、シュメール法典などが存在し、当然の規定でした。
何故、殺人犯は殺されなければならないか。それは、神の作品を殺したから、という理由です。17節、父、母を呪うものは死刑、とあります。あなたを養い育てた父母を呪うことは、霊的、精神的に殺すという意味が
あります。肉的に殺すという意味ではなくても、聖書では「いのち」を、体だけではなく、心、霊的なものを含めて、いのちと捉えているのです。
一つになったユダヤの人々。何故このような規定を定めなければならない状態になったのでしょうか。
創世記には、罪が入ってきたその時に、人類初の人殺しが行われたとあります。罪とは、善悪の知識の実を食べたことから人類に入ってきましたが、これは、良い悪いの判断を自分でやるということでした。自分の持っている価値基準。これは、ある年齢以上になると、そうそう変わるものではありません。タリバンの現場、彼らの価値基準においては、子供が自爆して死ぬのは、最高の死に方とされます。彼らの善悪、価値基準ではそうなのです。人間の価値基準で物事を進めるなら、争いが起こるのは当然です。
私たちはいつも定型的に考えます。自分の人生、そう生きてきた、と。それで人を傷つけるのです。エジプトを脱出するために、あんなに一致した人々でした。神の業を共に見て感動した人々でした。しかし、人間関係の多くの問題が起こったのでしょう。父母を打つものは…とありますが、親子関係は、今でもそうであるように、相当に難しい問題です。
定型的な発想を変えてみるのはどうでしょうか。仲の悪い人を思い浮かべて、普段自分が思う言葉を、今、変えてみるのです。出エジプトというものが、まさにそうでした。奴隷だった民は、こんな生活は嫌だと当然思っていたでしょう。でも、そういうものだとして生きてきたのです。だから、脱出させたのです。
出エジプトは、旧約聖書の中で心臓部分といわれます。脱出、一歩踏み出すところから全ては始まるのです。発想を転換しましょう。言葉から変えてみるのです。私たちは仲たがいするとき、最終的には、相手を殺したいというところまで行ってしまいます。私たちは、一対一の正面向き会った時にそれを相手の問題だと思っていますが、聖書によれば、これは、自分の中の罪と私たちとの戦いだというのです。そこへ発想を転換し、脱出するのです。
お互いを自分の感覚で、良い悪いと判断しているだけです。聖書は、全ては罪との戦いだと言っています。奴隷だったユダヤ人たちは、その状態が彼らにとっての普通でした。エジプトを出ることは、むしろ苦しみだったのです。相当の神の働きがなければ、そこを出るということは不可能でした。イエスを救い主だと信じることも、一つ脱出しなければ出来ないことです。
「目には目、歯には歯」とあるのは、同態復讐法として知られているものです。これは、目をやられたら目でとどめておくように、というそれ以上の余計な戦争をさせないためのものでした。イエスは、これさえ乗り越え、脱出されました。「あなたの敵を愛せよ」と言われたのです。
仲たがいしている相手であっても、その相手を興味をもって研究するとき、神の作品であるとの発見に至れば、憎む必要がなくなります。それは、今までの発想からの脱出です。赦しの発想、それは、今のところから脱出し、相手を、自分を、そして全体を新しく理解できるようになることです。全てをどのように捉えるかが、私たちの人生を決めていくのです。
2009年10月26日月曜日
2009年10月25日日曜日
謙遜な人として生きる(出エジプト18)
第18回目 出エジプト記21章1節~11節(2009年8月9日)
「謙遜な人として生きる」
***奴隷についての規定。奴隷は、7年目には自由の身として無償で去ることが出来ること、また、奴隷が結婚した場合のことなど、神は、詳細に定められた。***
20章では、十戒について学びました。21章では、社会生活に関しての神の約束が書かれています。かつてエジプトの地で奴隷だったユダヤ人たちは、当然のことながら、知恵や知識が十分にはありませんでした。もちろん、仕事の技術や、彼らの人間関係については分かっていたでしょう。しかし、出エジプト後、どうやって生きるべきかなどについては、考えられなかったでしょう。
有名女優の覚せい剤使用が大問題になっています。覚せい剤は、一度手をつけたら最後、もうやめられないといいます。病院で治療したとしても、大変難しいものであると。中国では、覚せい剤を持っているだけで死刑です。そのため、知らない間に、後ろから鞄にそっと入れられて陥れられるということもあるそうです。
彼女は、これほどまでに大変なことだと分かっていたのでしょうか?とても軽く考えていたのではないでしょうか。こういったことについて教育される機会が今までなかったために、そうなってしまったのではないかと思います。
社会生活について規定があるということは、大変重要な意味があります。一人で生きていく、というのなら、技術さえあれば何とかなるのかもしれません。しかし、社会の中で生きていくということは、そこには必ず、人間関係というものがあります。
ユダヤの民は、奴隷状態だったところから出てきて、荒野を歩いています。2節、「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合」とありますが、これは契約関係です。担保にしたいが、お金もないので働かせてくれ、という具合です。「6年間仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる」これは、その奴隷に借金があったとしても、主人は彼を自由にしなければならないというものです。
レビ記には、ヨベルという規定があります。これは、50年で全てがチャラになるという神の約束です。ヨベルの年が来たら、6年間たっていなくても奴隷の身から解放されるというのです。これは、大変奴隷に対して甘い規定ではないでしょうか?
3節、独身なら独身のまま、結婚しているなら妻も一緒に去る、とあります。やはり、雇う側に対して厳しい律法だといえます。通常、社会的には、貧乏人よりも金持ちの方が良いに決まっています。雇う側である金持ちの言うとおりの条件で、雇われるということも起ります。
そのため、法律で規制をかけるのです。日本では、労働法によって、アルバイトでも組合を作ることが出来るようになっています。雇うなら、雇われる人を大切にしなければならないと決められているのです。神は、旧約の時代から、それを定められていたのです。
社会的な人間関係についてこのように学ぶことは、社会全体がダメになるかどうかを決めるほどのことといえます。麻薬や覚せい剤が、どんなに危険なものであるかということを教えなければいけないように、神は、十戒を与えられた後すぐに、「雇うなら、人を使う立場になるなら、相当に気をつけなさい」ということを語られ、教育されました。なぜなら、立場が上になると、どうしても自分の思い通りにやろうとしてしまい、それが社会をダメにしていくからです。
レビ記25章には、土地にも安息を与えること、奴隷、外国人に対してのことなどが、神により規定されています。神は、これらの規定を通して、民に対して、自分が奴隷であったところを救い出された神を思い出すようにされました。
ここで、謙遜について学ぶことができます。謙遜な人とはどういうことでしょうか。特にリーダー、人の上にたつ者には必要な学びです。自分の中にある傲慢さをどうしたらよいのか、人とうまくいかないのは何故なのか・・・
「わたしたちは、かつて奴隷状態だったところから導かれた」これを考えるのが謙遜です。どうしたらいいかという方法ではありません。自分が解放されたということを意識することが謙遜なのです。人間は解放された存在です。不安からの解放。いろんなものに束縛されているからです。私たちの昔ながらの文化によって、ガチガチに縛られています。それに気付かせ、解放して下さる方がおられるということ。それが出エジプトのテーマです。
それについて、理解し続けていくことが、謙遜への道です。自分がどういう存在か。どんなに束縛されているか、そこから解放されていくことが謙遜なのです。
今の社会が良くなるために、政治家や公務員の方々が、そのような思いで働いてくれるならどんなに素晴らしいだろうと思います。彼らが謙遜な人々であったらと。ただの人気取りであるなら、いつかは化けの皮が剥がれます。
田中正造という人は、日本で最初の公害問題と戦った人です。彼が亡くなった時、ポケットにはマタイ伝のちぎったものが入っていたそうです。彼がクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼を動かしたのは、キリストの生き方でした。聖書を読みながら、イエスキリストそのものに感銘を受け、彼もそのように生きようとしたのです。人気がどうとかそういうものとは全く関係のないところで、彼はイエスに学び、謙遜に生き、それが社会を変えました。
謙遜に生きるとは、解放された自分自身の発見です。当時の世界的な奴隷制度から見るなら、考えられないような対応を神は規定されました。私たちは、いつでもキリストのところに戻って、自分が解放されたものであることを知り、どんな生き方をしていくかを考えていきましょう。
「謙遜な人として生きる」
***奴隷についての規定。奴隷は、7年目には自由の身として無償で去ることが出来ること、また、奴隷が結婚した場合のことなど、神は、詳細に定められた。***
20章では、十戒について学びました。21章では、社会生活に関しての神の約束が書かれています。かつてエジプトの地で奴隷だったユダヤ人たちは、当然のことながら、知恵や知識が十分にはありませんでした。もちろん、仕事の技術や、彼らの人間関係については分かっていたでしょう。しかし、出エジプト後、どうやって生きるべきかなどについては、考えられなかったでしょう。
有名女優の覚せい剤使用が大問題になっています。覚せい剤は、一度手をつけたら最後、もうやめられないといいます。病院で治療したとしても、大変難しいものであると。中国では、覚せい剤を持っているだけで死刑です。そのため、知らない間に、後ろから鞄にそっと入れられて陥れられるということもあるそうです。
彼女は、これほどまでに大変なことだと分かっていたのでしょうか?とても軽く考えていたのではないでしょうか。こういったことについて教育される機会が今までなかったために、そうなってしまったのではないかと思います。
社会生活について規定があるということは、大変重要な意味があります。一人で生きていく、というのなら、技術さえあれば何とかなるのかもしれません。しかし、社会の中で生きていくということは、そこには必ず、人間関係というものがあります。
ユダヤの民は、奴隷状態だったところから出てきて、荒野を歩いています。2節、「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合」とありますが、これは契約関係です。担保にしたいが、お金もないので働かせてくれ、という具合です。「6年間仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる」これは、その奴隷に借金があったとしても、主人は彼を自由にしなければならないというものです。
レビ記には、ヨベルという規定があります。これは、50年で全てがチャラになるという神の約束です。ヨベルの年が来たら、6年間たっていなくても奴隷の身から解放されるというのです。これは、大変奴隷に対して甘い規定ではないでしょうか?
3節、独身なら独身のまま、結婚しているなら妻も一緒に去る、とあります。やはり、雇う側に対して厳しい律法だといえます。通常、社会的には、貧乏人よりも金持ちの方が良いに決まっています。雇う側である金持ちの言うとおりの条件で、雇われるということも起ります。
そのため、法律で規制をかけるのです。日本では、労働法によって、アルバイトでも組合を作ることが出来るようになっています。雇うなら、雇われる人を大切にしなければならないと決められているのです。神は、旧約の時代から、それを定められていたのです。
社会的な人間関係についてこのように学ぶことは、社会全体がダメになるかどうかを決めるほどのことといえます。麻薬や覚せい剤が、どんなに危険なものであるかということを教えなければいけないように、神は、十戒を与えられた後すぐに、「雇うなら、人を使う立場になるなら、相当に気をつけなさい」ということを語られ、教育されました。なぜなら、立場が上になると、どうしても自分の思い通りにやろうとしてしまい、それが社会をダメにしていくからです。
レビ記25章には、土地にも安息を与えること、奴隷、外国人に対してのことなどが、神により規定されています。神は、これらの規定を通して、民に対して、自分が奴隷であったところを救い出された神を思い出すようにされました。
ここで、謙遜について学ぶことができます。謙遜な人とはどういうことでしょうか。特にリーダー、人の上にたつ者には必要な学びです。自分の中にある傲慢さをどうしたらよいのか、人とうまくいかないのは何故なのか・・・
「わたしたちは、かつて奴隷状態だったところから導かれた」これを考えるのが謙遜です。どうしたらいいかという方法ではありません。自分が解放されたということを意識することが謙遜なのです。人間は解放された存在です。不安からの解放。いろんなものに束縛されているからです。私たちの昔ながらの文化によって、ガチガチに縛られています。それに気付かせ、解放して下さる方がおられるということ。それが出エジプトのテーマです。
それについて、理解し続けていくことが、謙遜への道です。自分がどういう存在か。どんなに束縛されているか、そこから解放されていくことが謙遜なのです。
今の社会が良くなるために、政治家や公務員の方々が、そのような思いで働いてくれるならどんなに素晴らしいだろうと思います。彼らが謙遜な人々であったらと。ただの人気取りであるなら、いつかは化けの皮が剥がれます。
田中正造という人は、日本で最初の公害問題と戦った人です。彼が亡くなった時、ポケットにはマタイ伝のちぎったものが入っていたそうです。彼がクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼を動かしたのは、キリストの生き方でした。聖書を読みながら、イエスキリストそのものに感銘を受け、彼もそのように生きようとしたのです。人気がどうとかそういうものとは全く関係のないところで、彼はイエスに学び、謙遜に生き、それが社会を変えました。
謙遜に生きるとは、解放された自分自身の発見です。当時の世界的な奴隷制度から見るなら、考えられないような対応を神は規定されました。私たちは、いつでもキリストのところに戻って、自分が解放されたものであることを知り、どんな生き方をしていくかを考えていきましょう。
2009年10月24日土曜日
民たちの畏れ(出エジプト17)
第17回目 出エジプト記20章18節~21節(2009年7月5日)
「民たちの畏れ」
***雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した民は、たじろぎ、遠く離れて立ってモーセに言った。「どうか、私たちに話して下さい。聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」モーセは民に言った。「恐れてはいけない。神が来られたのはあなたがたを試みるためだ。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためである。」***
雷、いなずま、角笛・・・民はたじろぎ、恐れたとあります。民たちの、神に対する恐れは、ここで初めて生じたものでした。「おそれるということ」を初めてここで知ったのです。しかし、エジプトを出る直前に目の当たりにした様々な災い、幼子が殺されていったあの事件について、民は恐れたのではなかったのでしょうか。しかし、「おそれる」という言葉の出エジプト記での記述は、ここが初めてです。
私たちは、「おそれること」についての学びが必要です。生活の中で、多くのことに恐れを抱きます。経済がこの後どうなっていくのか、年金は、健康は、ウィルスは・・・と数えればきりがありません。ユダヤ人たちは、十戒を与えられ、そして雷を目撃したときにたじろぎ、恐れました。それは、神から直接言葉をかけられたことへの恐れでした。今までは、モーセを通して神の業を見てきた彼らでした。それに対しての奇異な感じ、不思議さ、はあったでしょう。しかし、恐れという感覚は初めて持ったのです。
ある大学院で、恐れについての研究をしたそうです。アヒルのひよこを、1羽は高層マンションで、もう1羽は地上で飼います。そしてある程度育ったら、それぞれをガラスの板に乗せるのです。高層マンションで育ったアヒルは、全くへっちゃらですが、地上で育ったアヒルはパニックになって、右往左往してしまうそうです。マンションで子供が転落する事故が度々起こりますが、高さに慣れてしまってつい不注意になるということがあるのかもしれません。
「おそれ」には、正しい「おそれ」と正しくない「おそれ」があることを学ばなければなりません。私たちに必要なのは、恐れを無くすことではないからです。
正しくない恐れとは何でしょう。19節、民は、神が自分たちと話すなら自分たちは死んでしまうのではないかと恐れました。20節で、恐れてはいけないとモーセが語ります。民たちは、神に対して、「自分たちの失敗に対して罰を与えるのではないか、神の気分を害するようなことをしてしまったのではないか、自分は大丈夫なのだろうか」という感覚をもったのでしょう。2度と悪いことをやらないから許して、というような、悪いことを親に見つかった子供のような恐怖心です。
しかし、神は、そのような方ではありません。出エジプトを通して、導き、与え、愛するということを示してこられました。これを学ぶなら、あなたは生き生きと生きられる。本当に良かったと思える人生を生きられる。そのために、神の言葉を聞く必要があると語るのです。ところが、民たちは、そのような聞き方をしませんでした。~~しなかったら酷い目にあわされる、というような感じで、びくびくしています。
今の環境が変わったらどうなるのか、自分は大丈夫なのか、という恐怖はあるかもしれません。それは良い恐れです。いろいろと都合の悪いことが出てくるかもしれない、と。それは、神と自分のギャップに対する恐れです。しかし、そういうものはだんだんと消えていきます。日々、神と共に歩むときに、その中で少しずつ学ぶとき、最後には平安が与えられていきます。
何が起こるか分からない、怖いかもしれないが、一歩踏み出してみよう。神が共におられるから。神に従いながら歩んで行こう、という、これは正しい「おそれ」です。
神の言葉とは、実際おそろしい言葉です。聖書を一人で読むとき、それはもろ刃の剣となりえます。カルト集団は、聖書を自分たちの良いように解釈して読んで、殺人さえ聖書の教えだとして行うことが出来てしまうのです。一人で読むのではなく、教会で、愛・期待の中で共に読んでいくときに、人生を切り開く剣となっていきます。
神が、完全に愛する方だと理解して、聖書を読むのです。必ず神が導かれるという大前提のもとで聖書を読むとき、私たちがいだく恐れは、正しい「おそれ」です。
ユダヤの民は、ここで初めての「おそれ」を学びました。カトリック教会では、ある場所に柵が設けられていて、そこから先は、信徒は立ち入ることが出来ません。聖職者だけが入ることが出来ます。聖俗を分け、俗の人は、神の聖さに触れては罰を受けるとされています。しかし、旧約聖書の時代から、神は、約束に愛を含ませて与えておられました。正しい「おそれ」なら、持って歩んで行って良いのです。
この先、十戒に付随する規定が細かく書かれていきます。モーセは、「正しいおそれの中で読むなら大丈夫」、だから「おそれてはならない、恐れる必要はない」と語っているのです。
「民たちの畏れ」
***雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した民は、たじろぎ、遠く離れて立ってモーセに言った。「どうか、私たちに話して下さい。聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」モーセは民に言った。「恐れてはいけない。神が来られたのはあなたがたを試みるためだ。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためである。」***
雷、いなずま、角笛・・・民はたじろぎ、恐れたとあります。民たちの、神に対する恐れは、ここで初めて生じたものでした。「おそれるということ」を初めてここで知ったのです。しかし、エジプトを出る直前に目の当たりにした様々な災い、幼子が殺されていったあの事件について、民は恐れたのではなかったのでしょうか。しかし、「おそれる」という言葉の出エジプト記での記述は、ここが初めてです。
私たちは、「おそれること」についての学びが必要です。生活の中で、多くのことに恐れを抱きます。経済がこの後どうなっていくのか、年金は、健康は、ウィルスは・・・と数えればきりがありません。ユダヤ人たちは、十戒を与えられ、そして雷を目撃したときにたじろぎ、恐れました。それは、神から直接言葉をかけられたことへの恐れでした。今までは、モーセを通して神の業を見てきた彼らでした。それに対しての奇異な感じ、不思議さ、はあったでしょう。しかし、恐れという感覚は初めて持ったのです。
ある大学院で、恐れについての研究をしたそうです。アヒルのひよこを、1羽は高層マンションで、もう1羽は地上で飼います。そしてある程度育ったら、それぞれをガラスの板に乗せるのです。高層マンションで育ったアヒルは、全くへっちゃらですが、地上で育ったアヒルはパニックになって、右往左往してしまうそうです。マンションで子供が転落する事故が度々起こりますが、高さに慣れてしまってつい不注意になるということがあるのかもしれません。
「おそれ」には、正しい「おそれ」と正しくない「おそれ」があることを学ばなければなりません。私たちに必要なのは、恐れを無くすことではないからです。
正しくない恐れとは何でしょう。19節、民は、神が自分たちと話すなら自分たちは死んでしまうのではないかと恐れました。20節で、恐れてはいけないとモーセが語ります。民たちは、神に対して、「自分たちの失敗に対して罰を与えるのではないか、神の気分を害するようなことをしてしまったのではないか、自分は大丈夫なのだろうか」という感覚をもったのでしょう。2度と悪いことをやらないから許して、というような、悪いことを親に見つかった子供のような恐怖心です。
しかし、神は、そのような方ではありません。出エジプトを通して、導き、与え、愛するということを示してこられました。これを学ぶなら、あなたは生き生きと生きられる。本当に良かったと思える人生を生きられる。そのために、神の言葉を聞く必要があると語るのです。ところが、民たちは、そのような聞き方をしませんでした。~~しなかったら酷い目にあわされる、というような感じで、びくびくしています。
今の環境が変わったらどうなるのか、自分は大丈夫なのか、という恐怖はあるかもしれません。それは良い恐れです。いろいろと都合の悪いことが出てくるかもしれない、と。それは、神と自分のギャップに対する恐れです。しかし、そういうものはだんだんと消えていきます。日々、神と共に歩むときに、その中で少しずつ学ぶとき、最後には平安が与えられていきます。
何が起こるか分からない、怖いかもしれないが、一歩踏み出してみよう。神が共におられるから。神に従いながら歩んで行こう、という、これは正しい「おそれ」です。
神の言葉とは、実際おそろしい言葉です。聖書を一人で読むとき、それはもろ刃の剣となりえます。カルト集団は、聖書を自分たちの良いように解釈して読んで、殺人さえ聖書の教えだとして行うことが出来てしまうのです。一人で読むのではなく、教会で、愛・期待の中で共に読んでいくときに、人生を切り開く剣となっていきます。
神が、完全に愛する方だと理解して、聖書を読むのです。必ず神が導かれるという大前提のもとで聖書を読むとき、私たちがいだく恐れは、正しい「おそれ」です。
ユダヤの民は、ここで初めての「おそれ」を学びました。カトリック教会では、ある場所に柵が設けられていて、そこから先は、信徒は立ち入ることが出来ません。聖職者だけが入ることが出来ます。聖俗を分け、俗の人は、神の聖さに触れては罰を受けるとされています。しかし、旧約聖書の時代から、神は、約束に愛を含ませて与えておられました。正しい「おそれ」なら、持って歩んで行って良いのです。
この先、十戒に付随する規定が細かく書かれていきます。モーセは、「正しいおそれの中で読むなら大丈夫」、だから「おそれてはならない、恐れる必要はない」と語っているのです。
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