2009年1月26日月曜日

神のご計画を受ける(出エジプト3)

第3回目 出エジプト記3章1節~22節(2009年1月18日)

「神のご計画を受ける」


***ミデヤンの地で羊飼いとして生きていたモーセに主の使いが現れた。ホレブの山で、燃えているのに焼き尽きない柴の中から主がモーセを呼ばれ、モーセがこれからユダヤの民をエジプトから脱出させるために遣わすといわれた。***


100年の一度といわれる経済不況。それに過剰に反応して、真実が見えなくなるとしたら怖いことです。松下幸之助という人は、どんな不況下でも一人もクビにしなかったそうですが、今現在実際にあるのは、合理的な考えによる派遣切り、そして前に進もうとする企業の姿。しかし、本当は別の道、考え方があるのではないでしょうか?ある法則に従って、こういうことが起きたら会社がダメになる、この人は良くて、この人はダメだと、私たちは決め勝ちですが、それは進化論的発想が土台になっています。弱い人は自分の責任で死んでいってくださいと言っているようなものです。

出エジプトを読むとき、人間の弱さを見ます。登場する人物が何と弱いのか。モーセは殺されるべき赤ちゃんでした。それがなんと王女に拾われてエジプトの王子として育てられ、しかし殺人を犯し、ミデヤンに逃れました。この主人公が何と弱い存在かと思います。しかし神は見捨てませんでした。モーセは神と共に成長しました。あらゆる艱難を通り、「あの預言者モーセ」と現代のユダヤ人にもいわしめる存在となりました。

新約聖書に、乗り越えられない艱難は無いのだとありますが、出エジプトでもそれを見ることができます。40年エジプトという大都会で、最高の学問、文化文明を享受したモーセが、今度は40年間、大自然の中で羊飼いとして放牧の暮らしをしました。今日の箇所では、モーセは80歳になっています。ところでモーセの態度が、以前とは変わってきているのではないでしょうか。2節、主の声が柴の中からし、「あなたのくつを脱げ、ここは聖なる地である」と言われます。ユダヤでは、聖なるところでクツを脱ぐという文化がありました。クツを脱ぐとは従うという態度を示します。

裁き司のようだったモーセが、この40年の間に変わったのではないでしょうか。自然の中で、従わなければならないということを学ばされた。所謂いいとこのボンボンだった彼は、傲慢だったかもしれません。傲慢になるのは、自然の中で生きてこなかったからです。自然には何をもってしても勝つことが出来ません。かつてチェルノブイリで原発事故があった後、1万年または数万年、そこは死の世界となり命は育たないだろうと言われました。ところがあれから100年もたっていないのに、草が生え、自然が戻ってきているというのです。自然とは何と強く偉大でしょうか。

モーセはミデヤンでの40年の間に、徹底的に学ばされたのです。「従うべきこと」そして、エジプトにいた40年は、「従わせる」ことを学んだのかもしれません。どちらも、リーダーとして学ぶべき大事なことです。私たちは、親として子を従わせなければならないのと同時に、会社では従わなければならないからです。従うことを学ぶのは、同時に従わせることを学ぶことでもあります。

6節から、主は、自分が誰であるかをモーセに話して聞かせます。また、モーセが捨ててきたユダヤの同胞たちを自分はずっと見ているよと言われたのです。モーセはどんな気持ちだったでしょう。自分を受け入れなかったユダヤ人を恨んでいたかもしれません。また、ミデヤンでゆっくりと余生を送りたかったかもしれません。しかし、苦しむ同胞を導くために、あなたを選んで遣わすと主は言われるのです。

モーセは40年間、神を忘れたわけではありませんでした。しかし、最悪な状況のなか、命からがら逃げてきて、今になって主にそのように言われたからといって、すぐに従えるはずもありませんでした。「私はいったい何者なのでしょう。」そのような立場ではないのだと訴えます。

主は、「私はあなたと共にいる」ということを柴が燃えることで示されました。14節、「わたしは『わたしはある』というものである」と言われました。ユダヤ人は神という言葉を発しません。それは彼らにとってあまりにも畏れ多いことだからです。「あってあるもの」それは、過去、現時、未来も、同時にいる、ということです。神の普遍性を示しているのです。人間は誰も、今しか生きていません。時間は一定に流れています。しかし、時間というのは実は一定ではないといいます。一人一人流れ方が違うのだと。それは心理学的に違うということでしょう。小学校の6年間と、中高年の6年間は、まったく違う感じ方になります。12年間生きてきた中の6年間は人生の半分だから長く感じるでしょうし、60年生きたなかの6年はたった1割です。

神とは、そういった時間の概念から全く外れたものです。そして、ここにも、あそこにも居られます。私たちには理解できません。理解できたとしたらその人は「神様」でしょう。時間にも場所にも束縛されないで、全てを統治される、それが神です。「わたしはある」それは、あなたがたとは次元の違う方であるということを言え、ということなのです。

そして、主は、エジプトで何が起こるかを順番にモーセに話します。まず長老たちに会って、パロ王のところへ行け、しかし王はなかなか民を行かせないだろう。わたしはそのことをよく知っている、と。預言、というか、神のご計画を語られたのです。そして、エジプトで民が働いた分だけはちゃんと持ってこいと言われました。

モーセはこの時、80歳。エジプトで40年、ミデヤンで40年。そしてこの後、出エジプトを通してまた40年間の旅をするということになります。そしてイスラエルという国家が出来ていきます。一人で終るならそれまでですが、たくさんの人が集まって組織となり、そして国が出来るのです。単に集まれば出来るということではありません。一つの国民として協力していくとは何かをこれから40年間かかって教えていくのです。大切なのは、歩きながら、ユダヤ人が一つの国になるということを学ぶこと。そして、その40年はモーセが本当のリーダーになるための学びでありました。

モーセを励まし、時には叱咤しながら、神が彼を選ばれたということは、「大丈夫、わたしがいつも共にいる、リーダーになっていける」と主がいわれているのです。神のご計画とは、今だけを見ても全然わかりません。しかし、何か意味があるのです。それは、いつか何かが良くなるというレベルのものではなく、この期間を通してあなたが大きく成長していくことが出来るという約束です。奴隷だった民が、国家を作るということ。国を作るとは本当に大変なことでしょう。家族一つまとめるのさえ大変なのですから。

今まさに引退しようとしているモーセを用いて、神は国を造ろうとされます。しかも奴隷である人々を導いて・・・奴隷とは、言われたとおりしかやってこれなかったのですから何もかも未熟な人々です。しかし、イスラエルは今や世界一民主主義的な国といわれる程に成長しました。彼らは自分の国を誇りとし大切にしています。

この試練の中、期待していいのです。主にあって、最高のことになっていくでしょう。その経緯を通して、人生そのものが変えられるという希望を持っていいのです。モーセは、今まで奴隷としての発想しか出来なかった人々たちを変えて、大いなる強い国にし、今なお残る国家としていくため用いられていきます。

モーセを読むとき、同じように私たちも期待され、聖書を通して主が語りかけてくださっています。モーセを見よ。どれほど神に守られ、成長し、強くなっていくことか。それはあなた自身の人生でもあると。モーセを通して主が私たちに語りかけてくださっているのです。