第4回目 出エジプト記4章10節~17節(2009年1月25日)
「総力を用いて生きる」
***エジプトに戻って民を導くよう主なる神が仰せられたのに対して、モーセは自分には力がないから他の人を遣わしてくださいと言った。しかし主は、「誰が人に口をつけたのか。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」と仰せられた。***
ユダヤ人にとって、「第1の預言者」と言われるモーセ。生まれてからの40年間エジプトの最高の教育を受け、その後の40年は、野の中に逃げて羊飼いとして生活しました。今やモーセは80歳になっています。そのモーセに、主なる神が、「エジプトに戻り、ユダヤ人たちを引き上げて来なさい」と言われたのです。
モーセは答えます。10節「ああ主よ、私はことばの人ではありません。口が重く、舌が重いのです」世の中には、弁舌の巧みな人もいれば、話ベタな人もいます。モーセは後者だったのです。だから、ユダヤ人を導き出すなど出来ないというわけです。
しかしこれは、おかしな応え方ではありませんか。ユダヤ人を導き出すということを、話上手でなければ出来ないことだという前提がモーセにあるので、こういう応え方になるのでしょう。
私たちは、何か起きたときに、すぐ反応します。自分の常識の中で、物事を判断するのです。「あなたが○○が上手いから、○○の技術が必要だから、それを練習して行け」、などと主は言っていません。「連れ出せ」の一言のみです。それに対してのモーセの応答は、「自分は言葉の人ではない」でした。
主は仰せられます。11節「誰が人に口をつけたのか。誰が口を聞けなくしたり、耳を聞こえなくしたり、あるいは目をあけたり、盲目にしたりするのか。それは、このわたし、主ではないか」
主は、「大丈夫、あなたは弁舌が巧みになる」と言われたのではありません。あなたを造ったのは誰だというのか。あなた以上にあなたを知っているのは、このわたしだ。口下手というのなら、言うべきことはわたしが教える(12節)といわれたのです。
モーセは、そこに劣等感を持っていたのでしょう。そこで抗弁するのです。「だって、○○が出来ません。」「○○にいたのですから」しかし、神は言われるのです。「わたしはあなたに、最高のものとして与えたはずである」と。そして、それを「使え」とは、一言も言われなかったのです。
生きるとは、総力戦です。私たちの身体は、目だけで仕事をしませんし、足だけでもしません。身体全体を使って、全てのことをしています。偏頭痛がどのように起きるのかを愛知医大の先生に聞いたことがあります。私たちの見ているものが、歩く度に揺れているとしたら気分が悪くなりますが、その上下運動を脳がパソコンのようにプログラミングし、いつも揺れないでいられるように制御されるため、まともに歩けるのだと。偏頭痛は、その機能が弱くなると起きるといわれました。私たちは歩くとき、足のみでなく、目、脳などフルに使って、その視点の位置を定め、バランスをとって、やっと一歩を踏み出せるというわけです。その1歩に、身体全体の総力をあげているのです。
200万人から250万人もの、奴隷の民。奴隷という身分の彼らには、アイデンティティはありません。どうせ俺達は・・と、全てを諦めてしまっている人々です。彼らを導いて一国を造ろうというのは、どれほど大変なことでしょうか。
国を造りあげるために、教育は大切です。万里の長城は、莫大な金と人夫によって造られましたが、番兵の教育を忘れました。そのためにやすやすと穴をあけられ、国が滅んでいきました。モーセはこの後、40年間、民を教育しつつカナンへ導くことになります。
13節、「どうか他の人を」と懇願するモーセに対し、主の怒りが燃え上がります。ここだけを見ても、モーセは「第1の預言者」と呼ばれるにふさわしい、神々しいひとでも偉大な人でもありません。でも、主は見捨てられませんでした。口達者でないことが自分のウィークポイントだと言うのなら、あなたの兄アロンがいるではないか、と言われます。
決して「アロンを遣わす」とは言われません。主が選んだのは、あくまでもモーセです。モーセに足りないところがあれば、アロンにと、しかもアロンはモーセの兄です。ここで、主の言葉が、「あなた」から「あなたがた」へと変わりました。
私たちは、才能が無いからといって嘆きます。才能が無いから出来ない、というのです。しかし、大切なことは「約束の地に入ること」です。そして、「私たちは」という主語を使うことです。
「私が」幸せになりたい、と言っている間は、決して幸せにはなれません。「私たちが」と、主語が変わるときに、結婚や家庭が上手くいくのです。モーセを選んだ主の言葉、「あなた」から「あなたがた」とその主語が変わったのは、「ユダヤ人全体」という意味です。この後、エジプトに戻ったモーセは、様々な戦い、葛藤の中におかれます。モーセの働きは、主とユダヤ人の取次ぎのようなものでした。そこに徹したのです。群れが群れとして生きていくとき、個人がどこに徹するかで、その群れが変わります。自分がどこに徹するのかは主によって語られ、教えられます。
250万人もの人々の、40年の荒野での旅が始まろうとしています。「私が」という主語ではなく、「私たちが」さらには、「あなたが」が多くなっていくことが大切です。それを学ぶためにモーセはリーダーにさせられ、人々をまとめて行きました。総力で生きる。私たちは、一人で生きるのではなく、交わりの中でどう生きるか、です。その視点に立ったときに、がんじがらめの価値観から解き放たれます。奴隷からの解放です。皆さん一人一人が、解き放たれて、生き生きと生きるということが「解放」なのです。
