第18回目 出エジプト記21章1節~11節(2009年8月9日)
「謙遜な人として生きる」
***奴隷についての規定。奴隷は、7年目には自由の身として無償で去ることが出来ること、また、奴隷が結婚した場合のことなど、神は、詳細に定められた。***
20章では、十戒について学びました。21章では、社会生活に関しての神の約束が書かれています。かつてエジプトの地で奴隷だったユダヤ人たちは、当然のことながら、知恵や知識が十分にはありませんでした。もちろん、仕事の技術や、彼らの人間関係については分かっていたでしょう。しかし、出エジプト後、どうやって生きるべきかなどについては、考えられなかったでしょう。
有名女優の覚せい剤使用が大問題になっています。覚せい剤は、一度手をつけたら最後、もうやめられないといいます。病院で治療したとしても、大変難しいものであると。中国では、覚せい剤を持っているだけで死刑です。そのため、知らない間に、後ろから鞄にそっと入れられて陥れられるということもあるそうです。
彼女は、これほどまでに大変なことだと分かっていたのでしょうか?とても軽く考えていたのではないでしょうか。こういったことについて教育される機会が今までなかったために、そうなってしまったのではないかと思います。
社会生活について規定があるということは、大変重要な意味があります。一人で生きていく、というのなら、技術さえあれば何とかなるのかもしれません。しかし、社会の中で生きていくということは、そこには必ず、人間関係というものがあります。
ユダヤの民は、奴隷状態だったところから出てきて、荒野を歩いています。2節、「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合」とありますが、これは契約関係です。担保にしたいが、お金もないので働かせてくれ、という具合です。「6年間仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる」これは、その奴隷に借金があったとしても、主人は彼を自由にしなければならないというものです。
レビ記には、ヨベルという規定があります。これは、50年で全てがチャラになるという神の約束です。ヨベルの年が来たら、6年間たっていなくても奴隷の身から解放されるというのです。これは、大変奴隷に対して甘い規定ではないでしょうか?
3節、独身なら独身のまま、結婚しているなら妻も一緒に去る、とあります。やはり、雇う側に対して厳しい律法だといえます。通常、社会的には、貧乏人よりも金持ちの方が良いに決まっています。雇う側である金持ちの言うとおりの条件で、雇われるということも起ります。
そのため、法律で規制をかけるのです。日本では、労働法によって、アルバイトでも組合を作ることが出来るようになっています。雇うなら、雇われる人を大切にしなければならないと決められているのです。神は、旧約の時代から、それを定められていたのです。
社会的な人間関係についてこのように学ぶことは、社会全体がダメになるかどうかを決めるほどのことといえます。麻薬や覚せい剤が、どんなに危険なものであるかということを教えなければいけないように、神は、十戒を与えられた後すぐに、「雇うなら、人を使う立場になるなら、相当に気をつけなさい」ということを語られ、教育されました。なぜなら、立場が上になると、どうしても自分の思い通りにやろうとしてしまい、それが社会をダメにしていくからです。
レビ記25章には、土地にも安息を与えること、奴隷、外国人に対してのことなどが、神により規定されています。神は、これらの規定を通して、民に対して、自分が奴隷であったところを救い出された神を思い出すようにされました。
ここで、謙遜について学ぶことができます。謙遜な人とはどういうことでしょうか。特にリーダー、人の上にたつ者には必要な学びです。自分の中にある傲慢さをどうしたらよいのか、人とうまくいかないのは何故なのか・・・
「わたしたちは、かつて奴隷状態だったところから導かれた」これを考えるのが謙遜です。どうしたらいいかという方法ではありません。自分が解放されたということを意識することが謙遜なのです。人間は解放された存在です。不安からの解放。いろんなものに束縛されているからです。私たちの昔ながらの文化によって、ガチガチに縛られています。それに気付かせ、解放して下さる方がおられるということ。それが出エジプトのテーマです。
それについて、理解し続けていくことが、謙遜への道です。自分がどういう存在か。どんなに束縛されているか、そこから解放されていくことが謙遜なのです。
今の社会が良くなるために、政治家や公務員の方々が、そのような思いで働いてくれるならどんなに素晴らしいだろうと思います。彼らが謙遜な人々であったらと。ただの人気取りであるなら、いつかは化けの皮が剥がれます。
田中正造という人は、日本で最初の公害問題と戦った人です。彼が亡くなった時、ポケットにはマタイ伝のちぎったものが入っていたそうです。彼がクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼を動かしたのは、キリストの生き方でした。聖書を読みながら、イエスキリストそのものに感銘を受け、彼もそのように生きようとしたのです。人気がどうとかそういうものとは全く関係のないところで、彼はイエスに学び、謙遜に生き、それが社会を変えました。
謙遜に生きるとは、解放された自分自身の発見です。当時の世界的な奴隷制度から見るなら、考えられないような対応を神は規定されました。私たちは、いつでもキリストのところに戻って、自分が解放されたものであることを知り、どんな生き方をしていくかを考えていきましょう。
