第25回 出エジプト記25章1節~22節(2009年10月18日)
「神に感謝し捧げる」
***神はモーセに告げて仰せられた。「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心からささげるひとから、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」そしてどのような奉納物を受け取るか、詳細に定められた。***
ここでは、神を礼拝する場所である「幕屋」の設計図が詳細に示されています。一見して、つまらないと感じられる個所かもしれません。しかしとても大事なことなので、大きくスペースを割いて書かれています。
途中に出てくるケルブとは、ケルビムの単数形であり契約の箱を守るものです。この幕屋とは一体何なのでしょう。現代に生きる私たちにとって、どんな意味のあるものなのでしょうか。
新約聖書ローマ人への手紙15章4節「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」ヘブル人への手紙9章23節~「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。・・・」
幕屋とはまず一つ目に、神と出会う場所でした。「会見の幕屋」と言われます。二つ目に、至聖所であり、十戒とアロンの杖の保管場所でありました。3つ目には、いけにえを捧げる場所でした。このようにして、神に礼拝を捧げる場所が幕屋でした。
実は、もう少し意味があります。先ほどのヘブル人への手紙には、イエスは模型の聖所に入ったのではなく、
天そのものに入られたのだとあります。旧約聖書の時代、イエスはまだ現れていませんでした。幕屋は、それそのものが、神の「影」でした。影とは、本物は別にあって、それが映っているものです。影を見ると、本物があることが分かります。
幕屋で行われることを見て、人々は、神がおられることが分かったのです。多くの大事なことは目に見えません。しかし、その実体を知るために、人は神を求め、教会につながります。「見えれば安心する」ということでは無いと、ユダヤ人たちは分かっていたのでしょう。奴隷状態だったエジプトから出てきて、たくさん物を持っていたら安心出来るということではないのだと。出エジプトという出来事を通して、神がいることこそが安心なのだと教えられていきます。
テレビで、ある評論家が、現代アジアの状態をこのように言っていました。日本人は、お金や物がたくさんあったら幸せというのは幻想であると既に気付いている。韓国は、分かり始めているけれど、突っ走っている。中国は、まだそれに気付いていない。
ユダヤ人は、本当に信頼できるのは物ではないのだということを、40年かけて学んでいきます。影を見て、神がおられると分かっていったのです。たびたび、民たちは神に不平、文句を言います。しかし、神は姿をあらわされません。人や物事を通してご自分を示されました。しかし、まだまだ足りないと人々はつぶやきます。
幕屋は、影です。25章の最初で、奉納物について神は「心から捧げる人たちからとれ」と言われました。影を見て生きる人が、捧げて造るのが幕屋でした。これは強制ではありません。物やお金ではなく、神がおられないならダメなのだと知った人が、捧げて影を造ること、そこから始めましょうと聖書は言っているのです。
信じるということは、私たちが捧げるところから始まります。約2000年前、イエスが来られて十字架にかかられたのは事実です。キリストの影は、教会です。教会がある以上、キリストは今もおられ、生きて働いておられます。
それぞれの人生には艱難があります。しかし、その中で神が何を教えようとしておられるかを知り、生き生きと生きることが出来るなら、イエスがその人におられる証拠であり、それは影となります。
礼拝を捧げるということ。その時間を聖別しようとしてきた人たちによって世界は成り立ってきました。日曜に、礼拝に行くよりもアルバイトをして稼いだ方がいいかも、と私たちは思うかもしれません。しかし、杉原千畝さん、新渡戸稲造さんなど、それぞれの立場でクリスチャンとして大変良い働きをされた方々がおられます。田中正造さんがクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼がいつも聖書に親しみ、マタイ伝に生きたということは知られています。
学問や医学など、もともとは、全て教会から、捧げるというところから始まりました。人生を主に捧げた人々から始まっていったのです。人生を主に捧げるとは、キリストの思いで生きるということです。
ユダヤ人は、幕屋から始めました。最上のものを捧げるために、とても細かく決めごとをしました。教会のミッションは、礼拝、交わり、学び、奉仕、宣教に献身していくことです。幕屋には、全てそれが集まっているものです。捧げるとは、私たちがより少なくなることではありません。受けるより与えることが幸いであるとイエスは語りました。私たちにはキリストが住んでいます。キリストの影を、私たちが、生き生きと生きることで、世に対して良い影響を与えることが出来ます。
幕屋は、大きな出発点でした。同じように、私たちの教会も出発の原点です。そこで生き方を教えられ、私たちの日々の現場で、周りの人々が変えられていくことを体験して行きましょう。
