2009年1月5日月曜日

新しい旅立ちの準備(出エジプト1)

第1回目 出エジプト1章1~22節(2009年1月4日)

新しい旅立ちの準備

***ヤコブと息子達は自分の家族を連れてエジプトへ移り住んだ。時代は流れ、その時代の人々はみな死に、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。王はイスラエルの民を賢く取り扱おうと考え、過酷な労働を課した。また、ヘブル人の助産婦たちにヘブルの女が出産するとき男の子なら殺すように命じた。しかし助産婦たちは神を恐れ男の子を生かしておいた。王が彼女達を呼び寄せて問い詰めたが、ヘブル人の女はエジプト人と違って活力があり助産婦が行く前に産んでしまうのだと答えた。神は彼女達の家を栄えさせた。王は全ての民に、生まれた男の子を全てナイル川に投げ込まなければならないと命じた。***



今年は1年をかけて、出エジプトを学んで行きます。今、未曾有の経済危機といわれるその真っ只中にあって、私たちが豊田に置かれた意味が何なのかを神様が示してくださっているのではないでしょうか。

しばらく前の中日新聞に、中国の地下教会について書かれていました。大変な状況にあって中国の人々は神の言葉を求め、教会を頼るようになったとありました。要らないものが削ぎ落とされたとき本当に必要なものが見えてくるということがあります。豊田市もそういう時なのかもしれません。持っていたものが無くなっていくときとても心配になります。どうしたらいいのか、不安定な状態になります。それは人間だから仕方がないことです。しかし、そういう場合に、頼るべきところがあるというのは、それがない場合とは全く違ってきます。

中国では、長い間ずっと宣教し続けてきました。その活動によって殺されるかもしれないという、まさに生き死にの中でそうしてきたのです。そのようにして彼らが求めたのは神の言葉でした。生きるとは何か、何をめざすべきなのか。それが分かったとき、初めて「出発」を意識したのです。絶望か、希望か。それは、みことばのあるか無いかにかかっていました。

1~7節は、創世記のまとめです。8節には、ヨセフを知らない王が起こったとあります。ユダヤ人の迫害が始まりました。9節「見よ、イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い」ユダヤ人は多産であり、強いというのです。

それには深い意味があることではありますが、ユダヤ人たちは長い歴史の中で繰り返し迫害を受けてきました。その中で神の業を発見してきたのです。試練、困難の中で理解する。それは旧約のユダヤ人の姿そのものです。そして、いつの場合も、絶望だけではありませんでした。「ユダヤ人は多産で強い」それは、クリスチャンもそうなのかもしれません。

あるテレビ番組で、神社や仏教について取り上げていました。厄年というのがありますが、それは神社とお寺、どちらでお払いをしてもらうものなのか。答えは、どちらでもいいのだそうです。厄とは、陰陽道と五行(5つの星。今でいう天文学のようなもの。)を併せて出来た暦で出来ているのだとか。統計学的なものも含まれているのでしょう。天災が怖いから何かにすがりたいという人間の願いの表れだと思います。

「問題がないように祈りましょう」聖書はそのようには語りません。何かの法則があって、そこから回避するというものではありません。生きるということは、神の守りの中にあるというのが大前提なのです。何か問題が起こるとしたら、その時こそ神のことが分かるというのが聖書的発想です。ユダヤ人たちは、恐ろしい迫害にあってきましたが、それによって強さを与えられ、大きく成長してきたのです。

日本のクリスチャン達も、戦時中は迫害を受けました。しかし、消えてしまうということは決してありませんでした。過酷な状況にあっても、礼拝を守りつづけました。それこそが、平和への道筋だと考えたのです。クリスチャンはいなくなりません。それは神の深い力が働いているのです。

出エジプト1章のようなことが起こったら、大概の民族は諦めてしまうのではないでしょうか。しかしこの後、モーセという一人の赤ちゃんが与えられ、今のイスラエルが造られていくというその出だしをこれから学ぶことになります。

教会とは、この世にあって、本当に小さな光でしょう。小さな光ですが、決して見逃してはなりません。その光を通して、神様がこの世界を輝く未来へ導いていくのです。絶望している人がいるなら、ぜひ伝えたい。状況が変わらないとしても、生き生きと生きることができる。そこから経済的にも変わっていくでしょう。それを出エジプトで学ぶことが出来ます。豊田市が絶望することは決して無いと分かるのです。教会に集う一人一人は豊田市の光であり、日本の光です。出エジプトがそう語っているのです。