2009年3月7日土曜日

困難は主の戦い(出エジプト8)

第8回 出エジプト記14章1~31節(2009年3月1日)

「困難は主の戦い」

***イスラエル人が逃げたことを知らされるとパロは考えを変え、軍勢を率いて彼らを追跡した。臆することなく出て行ったイスラエルだったが、エジプト軍が迫っているのを見て彼らは非常に恐れ、主に叫んだ。モーセが杖を上げ、手を海の上にさし伸ばすと、海が分かれ、海の真中の乾いた地をイスラエル人が進んでいくことが出来た。エジプト人は追いかけてきて海に入ったが、主は水がエジプト軍の上に返る様にされ、残されたものは誰もいなかった。***


とても有名な箇所です。映画「十戒」を観た人なら、その場面を思い浮かべることが出来るでしょう。解放されたばかりの奴隷たちは、どんな思いで旅の始まりを迎えたのでしょうか。「主はモーセに告げて」と、何度も出てきます。いつも主が語って下さり、モーセに告げて仰せられました。あなたの判断でやれ、とは殆ど言われませんでした。

語ってくださることをどう聞くか、が私たちの姿勢です。その中でいろいろ考えるのです。主は私たちに理由やチャレンジを与え、その中で考え、行動せよと言っているのです。

2節、主は民に引き返して、海辺で宿営せよと言われました。なぜでしょうか?3、4節、イスラエル人が道に迷っているとパロが思い、彼が民の後を追えば、パロとその全軍勢を通して主が栄光を現し、エジプトは主を知るようになる、というのです。8節、イスラエルは臆することなく出て行きました。それは、ここに至るまでに、パロに対しての神の力を繰り返し見てきたからです。エジプト全土で初子の命が取られる中でもイスラエルが救われるのを目の当たりにして、神がおられ、自分たちを導かれることを確信していました。

しかし、10節。その確信は一転、非常に恐れた、とあります。私たちも、安心して日々を送っていても、何かの拍子に急に不安に陥るということがあります。絶えずゆらゆらしており、信仰とは何かと思うでしょう。この時、そのゆれ幅は大きくゆれているように見えますが、神に向かってだんだん小さくなっていきます。もし全く揺れないとしたら、それは「洗脳」です。私たちは罪人なので、揺れるのは当たり前のことなのです。自転車のハンドルは揺らした方がいいといいます。状況にあわせながら、神を中心にして揺れている間は前に進むのです。諦めてしまったり、人間がやることが全てなのだと思うなら、倒れてしまいます。

恐れに満たされた民は、言わなくてもいいことを言ってしまいます。11節、「エジプトには墓がないのであなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか」言葉で神とリーダーであるモーセを呪っています。これは責任転嫁です。しかしこれは、まだ彼らが成長してないからなのだと理解できます。

エジプトを脱出したのは、彼ら自身が決断によるものです。それを認めなければいけません。しかし責任転嫁をする。これは成長の段階です。このような場合、神と格闘し、祈ったら良いのです。主の怒りを買うこともありますが、私たちは出エジプトのどこも非難できません。それは、この中で民が確実に成長しているからです。

12節、エジプトにいた方が良かったと民は言います。その民に向かってモーセは、あなたがたのために行われる主の救いを見よと言います。これは、1つ目の訓練です。私たちの心がざわつくとき、「恐れてはいけない」という神のことばを合言葉にしたいと思います。アブラハム、モーセ、そしてヨシュアにも主がそのように語ったではないかと思い出すのです。

2つ目は、「主があなた方のために戦われる」ということです。ダビデがゴリアテと戦ったとき、それは神の戦いだとして戦い勝利を収めました。主が守られるのです。今の困難は神が戦ってくださる戦いなのです。

3つ目、「だからだまっていなければいけない」ということです。言いたいことを言っていいのです。主は何でも聞いてくださいます。しかし、どこかで黙る訓練も必要です。「黙って待つ」ことも教えて下さいます。

エジプト軍の戦車600台。もし、60進法を用いていたとしたら60は完全数ということになり、莫大な数という意味になります。世界で最も強い軍隊であるエジプト軍が、編隊を組んで追ってきた。イスラエルは絶望しますが、それと共に神の言葉が与えられました。現実は絶望的に見え、その状態が変わることは絶対にないように見えます。しかし、神の言葉はたしかにあるのです。現実だけがあるのなら、私たちは諦めてしまうか、自暴自棄になって犯罪を犯すかでしょう。しかしそこに神の言葉があるから、迷うことが出来ます。

「なぜ叫ぶのか、前進するように言え」と主は言われ、民は海の中を進めというのです。現実は変わらない。迷う。しかし、神の方向へ進めといわれたのです。「神が栄光を現すのを見るだろう」という言葉のみがあるだけでした。そこには決断しかありませんでした。

人生は決断の連続です。バプテスマを決断するということもそうです。現実を見、神の言葉に信頼して歩んでいくとき、主の確かな守りに気付いていきます。

Wet&Dryという言葉があります。不安でどうしようもないという時は、先を見ない方がいいのです。詩篇103篇では、未来を見るより過去を見ようと言っています。過去に主が何をして下さったか、どんなに良くしてくださったかを思い返すのです。たくさんの恵みと祝福を思い出し、落ち着くことができます。

Wetとは現実の雨です。一旦家の中に入って乾かして、また出て行くのです。乾かして落ち着いて、また準備をしましょう。未来のことばかりではなく、過去のことを思い返すときに、それは私たちの力になります。

全てのことは、神の栄光が現される方向で動いていきます。迷い苦しむ中、主の良くして下さったことを思い出して、改めて出て行くとき、そこに主は栄光を現されます。25節、「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられる」エジプトはイスラエルに勝てるわけがないと知りました。その艱難は、人でしょうか、環境でしょうか。物でしょうか。何であれ、それとの戦いは、背後におられる神が戦っておられるのです。神がそこに働いたと分かるということ、それが栄光を現すの意味です。私たちは主の栄光を現すための器です。

豊田みのり教会は、この地で6年間の開拓伝道を行ってきましたが、それはもう感謝以外にない6年間でした。人々が、みのり教会を通して、神の業を見てくださったこと知る時に大きな感動を覚えます。私たちが生活していくだけで、周りの人々に神を感じてもらえるようになっていくのです。

30節、「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」どんな気持ちで民はそれを見たのでしょう。まさか、ざまあみろというような気持ちでは無かったでしょう。エジプトが神をもっと早く知っていたら、こんな失敗はしなかったろうに。私たちはこうならないようにしよう。そのように思ったのではないでしょうか。これは、ざまあみろというようなレベルの事柄ではありません。ここから私たちは、どのように主の栄光を現すかということを学んでいくのです。


主は力強く私たちを導かれる(出エジプト7)

第7回 出エジプト記13章1~22節(2009年2月22日)

「主は力強く私たちを導かれる」


***主はモーセに告げて仰せられ、モーセは民に言った。「イスラエルで生まれる初子は人であれ家畜であれ、主のために聖別せよ。」「奴隷の家であるエジプトから出てきたこの日を覚えていなさい。この月に、種を入れないパンを食べて、主が私たちにしてくださったことを覚え、後にそれを息子に説明しなさい。主が力強い御手であなたをエジプトから連れ出されたからである」***



エジプトを出る、準備の時を迎えています。私たちは、学年が新しくなったり、就職や進学、新年度を迎えるときにどんな助言が欲しいと願うでしょうか。毎朝、一日が始まる時に、一番最初に聞きたい言葉は何でしょうか。それは、「大丈夫だよ」という言葉ではないでしょうか。また、私たちは、結論を聞きたいと思うのではないでしょうか。

2節、神がモーセに告げられます。40年続く旅の最初に語られた神の言葉。それは、「あなたがたの初子を聖別せよ」ということでした。最初に生まれたものは家畜でも人の子でも、聖別、つまり捧げなさいということです。それは、「神のものとして歩んでいきましょう」ということです。

9節「主が力強い御手で、あなたがたをエジプトから連れ出されたからである」このフレーズは何回も出てきます。力強い御手が既に準備されている。だから大切なのは、その神に頼ることだということです。せっかく力強い御手があっても、それに頼らないなら全く意味がなく何にもなりません。

「初子を捧げる」とは、その表明です。神を信じる決断として、その子を見るたびに、神にこの子を捧げたと思い出すためです。神の導きを信じ、その御用のために用いてやってください、この地上において、神のため人のために仕える人としてください、ということです。

信じるという行為、それは、自分の表明をしなければなりません。その決断、表明に対して、大きな祝福と憐れみを受けるのです。一般的にも、一つの決断をしたなら、これをします、と表明します。ここでは、「捧げることを覚えよ」といわれているのです。

決して強制ではありませんが、例えば礼拝で捧げられる献金について。収入が入ったら、一番最初に献金をそこから取り分けること。初子とはそういう意味です。また、1週間のうち日曜は礼拝の日として捧げること。これも一つの決断です。それら一つ一つの決断を確認するため、この準備の時に、「初子を捧げよ」と神は仰せられたのです。それは、信じ続けるという点でとても大切なことです。

ノアの洪水が起こったとき、神は契約のしるしとして虹を示されました。虹を見るたび、主の約束を私たちが思い起こすためです。今、旅の準備をするにあたって、神を信じるためにイスラエル人たちがやるべきことを主は示されたのです。それを見るたびに思い出すためにです。今の私たちでいうなら、それは献金であり、日曜に礼拝を捧げることにあたります。

そして主は、順序を与えられました。17節、神が導かれた道すじについて書かれています。地図をみると分かりますが、カナンに向かうには通常3本の道があり、いずれもとられませんでした。川沿いか、内陸を通ってか、南へ下るか。神の示された道は全く違う道でした。それは、民がエジプトに引き返すといけないからです。海沿いには、エジプトの要塞、関所のようなものがあり、兵隊が多く駐在していました。長いこと奴隷だった彼らには、エジプトと戦う力はありません。何も教えてもらっていないからです。戦い方も、統制の知恵もありません。また精神的にも弱かったのです。

教育には時間がかかります。その成長の過程で、焦ってはなりません。信仰をもった後の自分の人生を見るときに、せっかく聖書に出会ったのに全く成長できていないではないか、と思う必要は無いのです。クリスチャンでなかったときは、奴隷状態でした。自分はダメな人間だと思い込み、そういう価値観でがんじがらめになっていたのです。今、そこから解き放たれて、自分自身を神の作品として見つめ、自分だけの人生を生きることが出来るようになったのです。「なのに、なぜ夫婦喧嘩ばかりしているのか・・・」などと思うかもしれません。しかし、まだ出始めです。ようやくこれから解放への道へと歩きだしたところです。もし劣等感がよぎったとしたら、「昔の自分はそうだった」と思えばいいのです。今からは違います。エジプトから出たのですから。

神の業が始まるとき、準備があり、順序があります。多治見にはカトリックの修道院がありますが、宣教200年計画というものがあるそうです。それくらい長い目で見ることも大切です。私たちは少しずつ成長していきます。最後に完成しますが、今の段階ではまだ見えていません。しかし、聖書の中の預言によって、それは約束されているのです。

14節、後になって子供たちに尋ねられたらこのように言え、とあります。「どうして教会に行ってたの。どうして信仰もったの」と子供たちに聞かれたら、「神は力強い御手で精神的霊的に奴隷だった私を連れだして解放したのだ」と子供たちに伝えるのです。まだ、ここでは、経験していないことです。しかし、約束されているのです。だから大丈夫、歩き続けなさいと主は言われます。それが、この恵みに与る一歩一歩になるのです。

26節、具体的な例として、雲の柱、火の柱のことが書かれています。今の私たちにとっては、教会であり、礼拝、祈りであります。小さな祈りで良いのです。これを与えて下さったと確認し、今日も使命を頂いていると確認、そして今日も守ってくださったと確認する、それが雲の柱、火の柱です。イスラエルがみことばに1つになっていったように、私たちも今日あたえられた御言葉「力強い御手で導かれた」を心に留めて歩み、将来子供たちにも伝えていきましょう。