2009年7月4日土曜日

神を畏れる者として(出エジプト14)

第14回 出エジプト記19章1~25節(2009年6月7日)

「神を畏れる者として」

***イスラエル人はシナイの荒野に入り、宿営した。主は山からモーセを呼んで仰せられた。「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の中でわたしの宝となる。」「三日目、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来られる。山に触れる者は誰でも必ず殺される。」***


19章は一つの区切りとなっています。出エジプト記18章までと19章以降は、契約が違ってくるからです。19章では、今までにないような厳しい言葉が並んでいます。「神が降りてくる。山に触ってはいけない。」民は主をその目で見たいと思ってぞろぞろ歩いていこうとします。しかし主は、それはダメだと厳しく言われます。

新約聖書と違って、旧約ではいろいろと厳しいことが書かれています。山に触れる者は誰でも殺されなければならない、などと書いてあると、神は愛だと思っていたのに、一体どういう方なのか?と思うかもしれません。

19章以降は、「シナイ契約」と呼ばれる契約について書かれています。20章は、あの有名な「十戒」についてですが、これは本来「10の言葉」という意味であり、戒めという発想はもともと無いのです。創世記・出エジプト・レビ記・民数記・申命記の5つは、モーセ五書と呼ばれ、モーセが殆ど書いたものです。出エジプト20章から申命記全般を通して、シナイ契約について細かいことが書かれています。

では、その他の契約とは何でしょうか。アブラハムに与えられた契約をアブラハム契約、ノアに与えられたのはノア契約、同じように、ダビデ契約、と呼ばれる様々な契約があります。アブラハムは、突然神が現れ、「わたしの示す地へ行け」といわれて旅に出るわけですが、それは、何か彼が良いことをしたとかいうわけではなく、突然選ばれてそうなったのです。神はいつも一方的に選びをされます。そのような、一方的な、神から人々へ与えられる恵みがアブラハム契約でした。

シナイ契約の始まりである19章5節には、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。」とあります。何かしたら、これをしてあげる、というような書き方で、これはまるで、人の側の責任も問いつつ選びをするよ、というような、まるで選びは条件つきなのだという感じを受けます。

ずっと後にはエレミヤ契約というものも出てきますが、聖書は契約のことばかり書かれていて、まるで法律の勉強のようです。以前学んだように、片務契約といって、ただ一方的に選ばれ、恵みを受けるというのはアブラハム契約でした。シナイ契約からは、双務契約に変更されたのでしょうか。いいえ、実はこれも片務契約です。

ここまで人類を導き、出エジプトを導くにあたって、ここまで民を愛していると主は示しておられます。その上で、主に従うかどうかは、あなたが決めてよいと言われているのです。「いや、私は結構」という人も中にはいるでしょう。しかし、その上で、今度は自分が主を一方的に愛するかどうかを学ぶ期間に入ったということです。主は、私たちの成長の段階をふんで、契約を与えられるのです。

私たちの人生もそうです。何かのきっかけで聖書に、そしてキリストに出会います。それはアブラハム契約であり、一方的な主の恵みです。そして人生を歩む中で、ふと振り返る時に、神はこんなにも私を愛し導いてくださった、さらに主と共に歩んでいきたいと「決断」し、洗礼を受けるということがあります。契約には順序があるのです。双方の片務契約だと学びましたが、神の方が先に私たちを愛して下さいました。それを見て、今度は私たちが一方的に神を愛するかどうか。それが救いの完成へと繋がっていきます。実際、それを拒絶する人は多いのです。イエスが、招かれる人は多いが、救われる人は少ないといわれた通りです。

ルカの福音書で、イエスが語られた種まきのたとえがあります。1番目の種は、道端に落ちました。踏み固められた硬い土地では、種は根も芽も生やすことは出来ません。2番目は、岩地に落ちました。少しくらいは成長しますが、すぐにダメになります。3番目は、イバラの中に落ちました。イバラとは、この世的な発想であり、享楽などを意味しています。4番目は、良い地に落ち、何百倍、何千倍の実を結んだとあります。神は一方的に与えてくださるのですが、私たちがどのように受け止めるかが問題なのです。

神へどのように応答するか。神はとてつもなく大きな恵みを与えて下さっています。何よりもまず、神を畏れるということが大事です。イエスは、私たちを友、兄弟、と呼んでくださいました。そのように下へと降りてくださいました。しかし、イエスは神です。私たち人間の世界でも、師に対して尊敬したり、畏敬の念を持つということは大切なことです。

第1コリント7章7節で、パウロはこのように言っています。「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに生き方があります」私たちは、それぞれ与えられた賜物の中で生きています。だからバラバラの生き方です。それは、それぞれに役割があるということです。人間同士でも、先生を尊敬するという礼儀は大事です。まして神に対しては、どれほど私たちは畏れなければならないでしょうか。神を信じて生きるとは、神の領域に入ってはいけないということです。それは、「私たちが死ぬといけないから」と、一方的に神が命じているのです。

私たちがここにあるのは、神の一方的な愛によります。どんなに愛されているかを日々発見します。信仰生活を振り返るとき、人生のどんな場面、どんな細かいところにも、確かに神はそこにおられたと発見するのです。神は、私たちを造られた方であり、全てを知っておられます。神に対して畏れをもっていなければ、神のいうことを聞くということは出来ません。畏れるということなしに、神の言葉は分からないのです。いいかげんに扱ってしまいます。

「ユダヤ人と日本人」という本を書いたイザヤ・ベンダサンという人がいます。ヨーロッパのキリスト教は父性的であり厳しさがあるが、日本に入ってきたとたんに母性的になり、優しくなると彼は書いています。何もかも赦すという教育は子供をダメにするように、厳しさは必要です。神は厳しい方なのです。

これは、私たちの生活に直接関係します。全てを善意で受け止める訓練をさせられます。様々に起こってくることに対して、神が何か意図していることだと考えつづけていく訓練です。それは、人間関係にも適用出来ます。人間同士の全ての事柄を善意に解釈などしたら、裏切られるのではないかと心配になるかもしれません。しかし第1コリント6章7節でパウロは、「そもそも互いに訴えあうことがすでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」と語ります。むしろ、だまされちゃえと聖書は語っているのです。

人間不信になり、こんちくしょう!と問題になる。しかし、聖書は「だまされなさい」といいます。善意で解釈しようという姿勢が大事なのです。相手のことを神に祈りつつ、善意で解釈していきましょう。もちろん、何でも言いなりになっていなさいということではありません。聖書には、「保証人にならない方がいい」とも書いてあります。

神を畏れるということから、神の方法を学び、また人間関係を善で解釈しつづけるということ、その上でもし騙されるということがあるなら、神がそこにも御手を置いてくださることを信じて歩んで行きましょう。それをしないなら、人間関係は崩壊していきます。シナイ契約は、善意で解釈するということを教えてくれます。悪いと思ったらごめんと言う、ごめんと言われたら必ず赦す、ということを、私達の教会のモットーとしたいと思います。