2009年1月17日土曜日

備えられた人モーセ(出エジプト2)

第2回目 出エジプト記2章1節~25節(2009年1月11日)

「備えられた人モーセ」


***あるレビの家で男の赤ちゃんが生まれた。母は、3ヶ月その子モーセを隠していたが、隠しきれなくなりカゴにその子を入れてナイルの岸の葦の茂みに置いた。パロの娘が水浴びをしようと降りてきてカゴを見つけ、その子をあわれに思い、自分の息子として引き取った。モーセが大人になって、同胞ユダヤ人の苦役を見、あるエジプト人が一人のヘブル人を打っているのをみて、義憤にかられ、そのエジプト人を殺して隠した。あくる日ヘブル人同士が争っているのを見て止めに入ったモーセにヘブル人が「エジプト人を殺したように私も殺すのか」と言うのを聞いて恐れ、パロもそれを聞いてモーセを殺そうとしたため、モーセは逃れてミデヤンの地に住んだ。そこで祭司の娘であるチッポラと結婚した。***


連日、イスラエルのガザに対する攻撃について報じられています。この戦争の背景には、はるか遠い歴史が深く関係していることを覚えなければなりません。その昔エジプトにいたユダヤ人たちがエジプトを脱出し、長い旅の末に約束の地カナンにたどり着きました。そういった歴史的な流れを理解することは、今を理解するためにとても大切です。政治的、社会的にしか普通は捉えられませんが、彼らの中に、聖書の神の理解、不理解があり、それがうごめいているのです。一時は、仲良く暮らしていた時期もありましたが、政治的におかしくなっていきました。覚えておかねばならないのは、彼らの救い主の概念は違っても、両者とも同じように神を慕っている民族であるということです。

2章は、モーセの誕生、そしてミデヤンに逃れるところまで記されています。物語としてとても早い展開です。レビ族の赤ちゃんとして生まれたモーセ。ここで父の名が記されていないのは、彼が普通の人だったからでしょう。(6章を見ると家系について書かれており、アムラムという名前だったとわかります。)モーセが生まれたとき、ヘブル人の男の赤ちゃんは皆殺せという命令が出ていたため、母は3ヶ月も隠していました。しかしとうとう、カゴに入れてナイル川に流します。誰かに拾ってほしいという願いを込めてそうしたのでしょう。そしてパロ王の娘、つまり王女にモーセは拾われ、王家の子として成長することになります。

使徒7:22を見ると、40歳になるまでモーセはエジプトにいたと分かります。エジプトのあらゆる技術を学び、最高の知恵、学問を頭に入れ、体で経験していったのです。
ある時、エジプト人が一人のユダヤ人をいじめているのをみて、義憤にかられたモーセはそのエジプト人を殺してしまいます。悪いとは思わなかったでしょう。同胞ヘブル人を迫害するとは何事かと。モーセはそれを隠蔽しました。翌朝、ヘブル人同士が争っているのを見て和解させようとしたところ、「おまえはエジプト人を殺した」といわれ、恐れ、逃げます。

モーセは、それを犯罪とはわかっていたでしょうが、道義的に悪くないと思っていたのでしょう。それをヘブル人に責められ、ショックを受けました。ここでは、モーセは単なる「殺人者」です。同時に、同胞へブル人からも嫌がられ疎まれる存在でした。なんと波乱万丈な人生でしょうか。もともと殺されるはずの赤ちゃんが、王女の息子として素晴らしい生活を40年送り、しかし今は犯罪者となり、身をかくすしかないというのです。

ミデヤンの地は、イスラエル人の故郷です。そこでモーセは祭司の娘チッポラと結婚します。40年間、エジプトの最高の文化、学問を自分のものとしてきた彼は、今度は40年間ユダヤの文化を自分のものとしました。そして、80歳になってから、「出エジプト」のためにエジプトへ戻り、ユダヤの民をカナンへと導くことになります。

ユダヤ人にとって、尊敬するユダヤ人はと聞かれれば、ダビデ、第1の預言者は、モーセと答えます。この2人は確かに偉大な人たちですが、人間以上の何者でもありません。日本人は、よく人間を神格化します。たとえば、イチローについて日本のメディアやファンはまるで神のように取り扱います。カルトではないかと思うほどです。聖書は正直に、偉大な預言者ではあっても、彼が一人の犯罪者であったことを包み隠さず書くのです。しかも、出エジプトした後40年間かけて約束の地カナンにいざ入ろうとするとき、モーセは入れないのです。彼の人生は波乱万丈ですが、その人生だけ見るなら、実は私たちとあまり変わりません。

才能と賜物。違いは何でしょうか。賜物とは、聖書でよく使われる言葉です。創世記にある、バベルの塔についての記述。人間は、やろうとしたらそれを止めることは出来ない。だから神が降りていってその言語を乱したとあります。人間は、やろうと思えば、何でも出きるというのです。学習曲線というのがあって、縦軸が能力、横軸が時間です。最初のうちはずっと長いこと「わからない、出来ない、もうやめようか」というところを時間だけが過ぎていくのが、ある地点でグン!と能力が伸びるといいます。もうだめだ、ここで諦めようと思って本当に止めてしまうならそこまでですが、もう2,3頑張れば、グンと伸びる地点へ辿りつくのです。ある家族がアメリカから帰国して、4,5歳の娘さんはそれまで英語ばかりの環境で育ってきたものの、両親の会話を日本語で聞いていたはずなのに、帰国したとたんに一言もしゃべらなくなったそうです。3週間して、急に堰を切ったようにしゃべるようになったといいます。その3週間の間、ずっと周りの会話を聞いていて、そのうちに頭の中で地図が出来ていき、突然しゃべれるようになったのでしょう。

そのように、仕事でも学問でも、ある地点でグンと上がるのです。問題は、そこまで頑張れるかどうか。ピアノでもなんでも、天才というのは無いということです。どれだけやったかの違いです。プロの料理人とお母さんの違いは、回数だといいます。才能があるとすれば、その地点まで続けること、もうだめだというところを乗り越えることが出きる才能があるかどうか。

一方、賜物は全く違います。それは、与えられているものです。才能が、低迷期を乗り越えればグンとあがるものだとすれば、そうしている間の環境も全て含めて「賜物」です。低迷期を一緒にサポートしてくれる人々、励ましてくれる環境そのものが賜物なのです。それは、家族であり、教会であり、祈りあう兄弟姉妹であり、生きているというそのものが「賜物」です。お互いの一人一人が「賜物」です。

才能といえば、せばめられ、あるかないか、になります。しかし賜物は、発見の連続です。与えられた環境の中で、励まされながら、自分の成すべきことも与えられていく。モーセはそういう賜物の中で生きたのです。法律的には殺されなければならなかった赤ちゃんのモーセを、かわいいからと殺さずに川に流した母の存在。カゴの中のモーセの行く末を見届け、王女に対して、その言葉でモーセを救った姉の存在。モーセが、40年間エジプトで学んだことは、出エジプトの時に役立ちました。犯罪を犯してしまったが、ミデヤンという彼を受け止める場所があったことも賜物です。

人間は、連続性の中で生きています。全てを「賜物」として理解するとき、今ここに自分がいることが、何かの準備だと分かります。モーセは、全てが出エジプトの準備だったと分かったのです。80歳。普通なら、既に引退している年代です。しかし、今まであったこと全てを含めて、自分がいることそのものは、その準備に向かわされていたということだと理解したのです。

誰でも、あなたでなければならない神のご計画があります。モーセだけスポットライトをあてるなら、普通の人にすぎないのですが、環境を含めた賜物の違いがありました。何か大きな働きをするための準備。主が、選んで、私たちをここに置いてくださっているのは、賜物に目覚めさせ、その大きな働きの準備をさせるためなのだと理解ができるのです。