2009年10月26日月曜日

これまでの生き方からの脱出(出エジプト19)

第19回 出エジプト記21章12~25節(2009年8月23日)

「これまでの生き方からの脱出」


***神が人に与えられた契約の続き。人を死なせた場合は死刑に処すること、けがをさせた場合はどのように罰せられるかなどの規定。***


前回、奴隷について学びました。今回は、死刑についての契約です。この後、財産についてなど、神が民に与えた契約が続いていきます。

考えてみると不思議です。今までユダヤ人たちは、一つになって戦ってきたのではなかったのでしょうか。殺人について規定しなければならないような大変なことがあったのでしょうか。たしかに、250万人もの群衆です。いろんなタイプの人がいたでしょう。殺人を犯した犯人は殺されなければならないという、こういった法律は、当時既に、ハムラビ法典、シュメール法典などが存在し、当然の規定でした。

何故、殺人犯は殺されなければならないか。それは、神の作品を殺したから、という理由です。17節、父、母を呪うものは死刑、とあります。あなたを養い育てた父母を呪うことは、霊的、精神的に殺すという意味が
あります。肉的に殺すという意味ではなくても、聖書では「いのち」を、体だけではなく、心、霊的なものを含めて、いのちと捉えているのです。

一つになったユダヤの人々。何故このような規定を定めなければならない状態になったのでしょうか。

創世記には、罪が入ってきたその時に、人類初の人殺しが行われたとあります。罪とは、善悪の知識の実を食べたことから人類に入ってきましたが、これは、良い悪いの判断を自分でやるということでした。自分の持っている価値基準。これは、ある年齢以上になると、そうそう変わるものではありません。タリバンの現場、彼らの価値基準においては、子供が自爆して死ぬのは、最高の死に方とされます。彼らの善悪、価値基準ではそうなのです。人間の価値基準で物事を進めるなら、争いが起こるのは当然です。

私たちはいつも定型的に考えます。自分の人生、そう生きてきた、と。それで人を傷つけるのです。エジプトを脱出するために、あんなに一致した人々でした。神の業を共に見て感動した人々でした。しかし、人間関係の多くの問題が起こったのでしょう。父母を打つものは…とありますが、親子関係は、今でもそうであるように、相当に難しい問題です。

定型的な発想を変えてみるのはどうでしょうか。仲の悪い人を思い浮かべて、普段自分が思う言葉を、今、変えてみるのです。出エジプトというものが、まさにそうでした。奴隷だった民は、こんな生活は嫌だと当然思っていたでしょう。でも、そういうものだとして生きてきたのです。だから、脱出させたのです。

出エジプトは、旧約聖書の中で心臓部分といわれます。脱出、一歩踏み出すところから全ては始まるのです。発想を転換しましょう。言葉から変えてみるのです。私たちは仲たがいするとき、最終的には、相手を殺したいというところまで行ってしまいます。私たちは、一対一の正面向き会った時にそれを相手の問題だと思っていますが、聖書によれば、これは、自分の中の罪と私たちとの戦いだというのです。そこへ発想を転換し、脱出するのです。

お互いを自分の感覚で、良い悪いと判断しているだけです。聖書は、全ては罪との戦いだと言っています。奴隷だったユダヤ人たちは、その状態が彼らにとっての普通でした。エジプトを出ることは、むしろ苦しみだったのです。相当の神の働きがなければ、そこを出るということは不可能でした。イエスを救い主だと信じることも、一つ脱出しなければ出来ないことです。

「目には目、歯には歯」とあるのは、同態復讐法として知られているものです。これは、目をやられたら目でとどめておくように、というそれ以上の余計な戦争をさせないためのものでした。イエスは、これさえ乗り越え、脱出されました。「あなたの敵を愛せよ」と言われたのです。

仲たがいしている相手であっても、その相手を興味をもって研究するとき、神の作品であるとの発見に至れば、憎む必要がなくなります。それは、今までの発想からの脱出です。赦しの発想、それは、今のところから脱出し、相手を、自分を、そして全体を新しく理解できるようになることです。全てをどのように捉えるかが、私たちの人生を決めていくのです。


2009年10月25日日曜日

謙遜な人として生きる(出エジプト18)

第18回目 出エジプト記21章1節~11節(2009年8月9日)

「謙遜な人として生きる」


***奴隷についての規定。奴隷は、7年目には自由の身として無償で去ることが出来ること、また、奴隷が結婚した場合のことなど、神は、詳細に定められた。***



20章では、十戒について学びました。21章では、社会生活に関しての神の約束が書かれています。かつてエジプトの地で奴隷だったユダヤ人たちは、当然のことながら、知恵や知識が十分にはありませんでした。もちろん、仕事の技術や、彼らの人間関係については分かっていたでしょう。しかし、出エジプト後、どうやって生きるべきかなどについては、考えられなかったでしょう。

有名女優の覚せい剤使用が大問題になっています。覚せい剤は、一度手をつけたら最後、もうやめられないといいます。病院で治療したとしても、大変難しいものであると。中国では、覚せい剤を持っているだけで死刑です。そのため、知らない間に、後ろから鞄にそっと入れられて陥れられるということもあるそうです。

彼女は、これほどまでに大変なことだと分かっていたのでしょうか?とても軽く考えていたのではないでしょうか。こういったことについて教育される機会が今までなかったために、そうなってしまったのではないかと思います。

社会生活について規定があるということは、大変重要な意味があります。一人で生きていく、というのなら、技術さえあれば何とかなるのかもしれません。しかし、社会の中で生きていくということは、そこには必ず、人間関係というものがあります。

ユダヤの民は、奴隷状態だったところから出てきて、荒野を歩いています。2節、「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合」とありますが、これは契約関係です。担保にしたいが、お金もないので働かせてくれ、という具合です。「6年間仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる」これは、その奴隷に借金があったとしても、主人は彼を自由にしなければならないというものです。

レビ記には、ヨベルという規定があります。これは、50年で全てがチャラになるという神の約束です。ヨベルの年が来たら、6年間たっていなくても奴隷の身から解放されるというのです。これは、大変奴隷に対して甘い規定ではないでしょうか?

3節、独身なら独身のまま、結婚しているなら妻も一緒に去る、とあります。やはり、雇う側に対して厳しい律法だといえます。通常、社会的には、貧乏人よりも金持ちの方が良いに決まっています。雇う側である金持ちの言うとおりの条件で、雇われるということも起ります。

そのため、法律で規制をかけるのです。日本では、労働法によって、アルバイトでも組合を作ることが出来るようになっています。雇うなら、雇われる人を大切にしなければならないと決められているのです。神は、旧約の時代から、それを定められていたのです。

社会的な人間関係についてこのように学ぶことは、社会全体がダメになるかどうかを決めるほどのことといえます。麻薬や覚せい剤が、どんなに危険なものであるかということを教えなければいけないように、神は、十戒を与えられた後すぐに、「雇うなら、人を使う立場になるなら、相当に気をつけなさい」ということを語られ、教育されました。なぜなら、立場が上になると、どうしても自分の思い通りにやろうとしてしまい、それが社会をダメにしていくからです。

レビ記25章には、土地にも安息を与えること、奴隷、外国人に対してのことなどが、神により規定されています。神は、これらの規定を通して、民に対して、自分が奴隷であったところを救い出された神を思い出すようにされました。

ここで、謙遜について学ぶことができます。謙遜な人とはどういうことでしょうか。特にリーダー、人の上にたつ者には必要な学びです。自分の中にある傲慢さをどうしたらよいのか、人とうまくいかないのは何故なのか・・・

「わたしたちは、かつて奴隷状態だったところから導かれた」これを考えるのが謙遜です。どうしたらいいかという方法ではありません。自分が解放されたということを意識することが謙遜なのです。人間は解放された存在です。不安からの解放。いろんなものに束縛されているからです。私たちの昔ながらの文化によって、ガチガチに縛られています。それに気付かせ、解放して下さる方がおられるということ。それが出エジプトのテーマです。

それについて、理解し続けていくことが、謙遜への道です。自分がどういう存在か。どんなに束縛されているか、そこから解放されていくことが謙遜なのです。

今の社会が良くなるために、政治家や公務員の方々が、そのような思いで働いてくれるならどんなに素晴らしいだろうと思います。彼らが謙遜な人々であったらと。ただの人気取りであるなら、いつかは化けの皮が剥がれます。

田中正造という人は、日本で最初の公害問題と戦った人です。彼が亡くなった時、ポケットにはマタイ伝のちぎったものが入っていたそうです。彼がクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼を動かしたのは、キリストの生き方でした。聖書を読みながら、イエスキリストそのものに感銘を受け、彼もそのように生きようとしたのです。人気がどうとかそういうものとは全く関係のないところで、彼はイエスに学び、謙遜に生き、それが社会を変えました。

謙遜に生きるとは、解放された自分自身の発見です。当時の世界的な奴隷制度から見るなら、考えられないような対応を神は規定されました。私たちは、いつでもキリストのところに戻って、自分が解放されたものであることを知り、どんな生き方をしていくかを考えていきましょう。


2009年10月24日土曜日

民たちの畏れ(出エジプト17)

第17回目 出エジプト記20章18節~21節(2009年7月5日)

「民たちの畏れ」


***雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した民は、たじろぎ、遠く離れて立ってモーセに言った。「どうか、私たちに話して下さい。聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」モーセは民に言った。「恐れてはいけない。神が来られたのはあなたがたを試みるためだ。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためである。」***



雷、いなずま、角笛・・・民はたじろぎ、恐れたとあります。民たちの、神に対する恐れは、ここで初めて生じたものでした。「おそれるということ」を初めてここで知ったのです。しかし、エジプトを出る直前に目の当たりにした様々な災い、幼子が殺されていったあの事件について、民は恐れたのではなかったのでしょうか。しかし、「おそれる」という言葉の出エジプト記での記述は、ここが初めてです。

私たちは、「おそれること」についての学びが必要です。生活の中で、多くのことに恐れを抱きます。経済がこの後どうなっていくのか、年金は、健康は、ウィルスは・・・と数えればきりがありません。ユダヤ人たちは、十戒を与えられ、そして雷を目撃したときにたじろぎ、恐れました。それは、神から直接言葉をかけられたことへの恐れでした。今までは、モーセを通して神の業を見てきた彼らでした。それに対しての奇異な感じ、不思議さ、はあったでしょう。しかし、恐れという感覚は初めて持ったのです。

ある大学院で、恐れについての研究をしたそうです。アヒルのひよこを、1羽は高層マンションで、もう1羽は地上で飼います。そしてある程度育ったら、それぞれをガラスの板に乗せるのです。高層マンションで育ったアヒルは、全くへっちゃらですが、地上で育ったアヒルはパニックになって、右往左往してしまうそうです。マンションで子供が転落する事故が度々起こりますが、高さに慣れてしまってつい不注意になるということがあるのかもしれません。

「おそれ」には、正しい「おそれ」と正しくない「おそれ」があることを学ばなければなりません。私たちに必要なのは、恐れを無くすことではないからです。

正しくない恐れとは何でしょう。19節、民は、神が自分たちと話すなら自分たちは死んでしまうのではないかと恐れました。20節で、恐れてはいけないとモーセが語ります。民たちは、神に対して、「自分たちの失敗に対して罰を与えるのではないか、神の気分を害するようなことをしてしまったのではないか、自分は大丈夫なのだろうか」という感覚をもったのでしょう。2度と悪いことをやらないから許して、というような、悪いことを親に見つかった子供のような恐怖心です。

しかし、神は、そのような方ではありません。出エジプトを通して、導き、与え、愛するということを示してこられました。これを学ぶなら、あなたは生き生きと生きられる。本当に良かったと思える人生を生きられる。そのために、神の言葉を聞く必要があると語るのです。ところが、民たちは、そのような聞き方をしませんでした。~~しなかったら酷い目にあわされる、というような感じで、びくびくしています。

今の環境が変わったらどうなるのか、自分は大丈夫なのか、という恐怖はあるかもしれません。それは良い恐れです。いろいろと都合の悪いことが出てくるかもしれない、と。それは、神と自分のギャップに対する恐れです。しかし、そういうものはだんだんと消えていきます。日々、神と共に歩むときに、その中で少しずつ学ぶとき、最後には平安が与えられていきます。

何が起こるか分からない、怖いかもしれないが、一歩踏み出してみよう。神が共におられるから。神に従いながら歩んで行こう、という、これは正しい「おそれ」です。

神の言葉とは、実際おそろしい言葉です。聖書を一人で読むとき、それはもろ刃の剣となりえます。カルト集団は、聖書を自分たちの良いように解釈して読んで、殺人さえ聖書の教えだとして行うことが出来てしまうのです。一人で読むのではなく、教会で、愛・期待の中で共に読んでいくときに、人生を切り開く剣となっていきます。

神が、完全に愛する方だと理解して、聖書を読むのです。必ず神が導かれるという大前提のもとで聖書を読むとき、私たちがいだく恐れは、正しい「おそれ」です。

ユダヤの民は、ここで初めての「おそれ」を学びました。カトリック教会では、ある場所に柵が設けられていて、そこから先は、信徒は立ち入ることが出来ません。聖職者だけが入ることが出来ます。聖俗を分け、俗の人は、神の聖さに触れては罰を受けるとされています。しかし、旧約聖書の時代から、神は、約束に愛を含ませて与えておられました。正しい「おそれ」なら、持って歩んで行って良いのです。

この先、十戒に付随する規定が細かく書かれていきます。モーセは、「正しいおそれの中で読むなら大丈夫」、だから「おそれてはならない、恐れる必要はない」と語っているのです。


2009年7月23日木曜日

神をあがめる姿(出エジプト16)

第16回目 出エジプト記20章1~17節(2009年6月28日)

「神をあがめる姿」

*** …十戒の続き…(6)殺してはならない。(7)姦淫してはならない。(8)盗んではならない。(9)偽りの証言をしてはならない。(10)隣人のものを欲しがってはならない。***


前回は、人間から見た十戒を学びました。以前、私達と神との契約は双方向の片務契約だという話をしました。神が私達を一方的に愛して下さるという契約を結んでくださり、私達も神を一方的に愛するのです。

今日は、神から見た十戒を学びます。十戒の分け方ですが、20章2節を第1戒ではなく、前文とみなします。第4戒までは神のため、そして第5~10戒は人間同士のためのものです。1~3を神のため、4~10を人間のためと見る分け方もあります。伝統的には、1~4、5~10の分け方が指示されているので、今日はその上で話をします。

結婚式で読まれる聖書の箇所は、第1コリント13章。愛の章と呼ばれるところです。書かれていることを一つ一つやろうとするなら、こんなに出来るだろうか?と思います。一つでも間違えたら、罰せられるのだろうか?と。十戒の4番目は、日曜に仕事をしてはいけないとあります。「罰せずにはおかない」と。5戒は父母を敬えとありますが、もし敬わないならどうなるのでしょう?

アートバイブルを見ると、十戒は2枚の板に書かれています。1枚は神、もう一枚は人間のために。契約書とは、二者がお互いに結ぶものですから、決まって2枚あります。両方のために契約書は存在します。この1~10戒を、私達はどのように読んだらよいのでしょうか。

まず、神の側として考えて見ましょう。最初に、一番大事なものから与えるのではないでしょうか。1戒は一番大事なものです。ハングルで聖書の神とは、「ハナニム」ですが、これは、唯一の神という意味です。「ハナニム」といえば、すぐに聖書の神と分かるのです。日本語は、神も神々(偶像)も同じ字を使うため、その違いが分からなくなることがあります。これは、私達の生き方に深く係るほどの違いです。

創造主なる神。それは人生の土台です。私達が信じるべきお方であり、それ以外はそうではありません。比較宗教学という分野がありますが、聖書の神以外に「天地万物を造った」と宣言するものはありません。天理教は創造神といいますが、それが人間の人生や、愛、結婚制度に至るまでを作ったとはしていません。私達人生そのものを造ったとは言わない点で、聖書の神とは全く違います。

進化論的考えでは、人間を優劣で分けます。人間の中で価値あるものとそうでないものを分けるのです。神によって全てが造られたという前提が無いからです。そこから、いじめなどの問題が出てきます。

十戒が重層構造だとすると、1戒は土台です。これがないと、社会がダメになります。私達はいろんな場面で、「造られた」のだと考えるクセをつけましょう。イスラエルは40年かかってその訓練をされました。それがイスラエルという国の強さになったのです。そうして、2戒に繋がっていきます。

5節、「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」神の契約とは、Give&Takeで無いのではなかったのでしょうか?まるで因果応報であるかのように受け取れる言葉です。実は、新改訳聖書で「ねたむ神」とあるこの箇所は、新共同訳では「熱情の神」と訳されています。救うということについて、熱情を持っておられる神なのです。

イスラエルの家族は、集団の家族でした。その長は大きな力を持ち、家族をリードしていく責任があります。全体のリーダーはモーセですが、家族単位のリーダーは父であり、子らには徹底的に父に従わせました。父の責任はとても大きいです。なぜなら、父が間違ったら、家族全員が間違うからです。リーダーである父の間違いが与える影響がなんと大きく、長く続くことか。それが、三代、四代にまで及ぼし、の意味です。

リーダーの考え、価値観は、グループ全体に影響を及ぼします。リーダーが狂ったら、三代四代にまで、その影響が及ぶのです。イルカは自殺のような行為をすることがあります。群れがリーダーについていくのですが、間違って陸に上がってしまうために、群れ全体が陸に打ち上げられて死んでしまうのです。

反対に、リーダーが神と共に歩むなら、その恵みは千代にまで及ぶというのです。リーダーが導いたように、群れが導かれます。そうだとしたら、第3戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」は、リーダーが勝手な方向へ行かないようにという教えです。イエスは、「先生と呼ばれる人は裁きが大きい」といわれました。

みだりに唱えるとは、神について、簡単に言ってしまうことがないようにという意味です。あまりにも神の御心について簡単に断定してしまうことは、とても危ないことです。だからこそ、第4戒では、安息日を守って礼拝を捧げ、その歩みが狂わないようにと主が教えておられるのです。

安息日については、新約の世界に生きる私達にはこの限りではないと理解することが出来ます。なぜなら、イエスが来られてからは、聖なる日と聖でない日という区別が無くなったからです。パウロは、全てが聖いといいました。食物規定が無くなったのです。イエスは聖と俗を打ち壊されました。しかし、日曜に礼拝が捧げられないなら、どこかで代わりに神の言葉を聞きましょう。それが第1戒からの積み上げだからです。

5戒以降は、殺すな、偽証を立てるな、欲しがるな・・・と続きますが、これは、「殺さなくてもすみますよ」「偽証たてる必要がなくなりますよ」「欲しがることもなくなりますよ」というニュアンスで語られています。

私達はそれぞれ固有の生き方をしています。それぞれが主にあって、積み重ねていくなら、父母を敬わないということはありえなくなります。昔から、両親を敬うというのは難しいことでした。もし出来たとしたら、どんなに素敵な家族でしょう。しかし、土台から一つ一つ積み上げていく中で、それは出来ていくのです。これは主の約束です。「~しろ」と上から言っているのではなく、「それが出来るようになります」という約束なのです。

姦淫することも、盗むことも、することがなくなりますという、主の約束です。少しずつ変えられていくのです。ユダヤ人が40年かかって訓練されたように。十戒が私達に与える影響を、日々の信仰生活の中で見ていきたいと願います。

多少の修行も、少しは意味があるかもしれません。しかし一番大事なのは、神がどれだけ私達を愛しているかを知ることです。人生は、一朝一夕にコロっと変わるわけではありませんが、いつの日か、本当に良かったと思える日が来ます。それを楽しみにしつつ歩んでいきたいと願います。


十戒を守る(出エジプト15)

第15回目 出エジプト記20章1~12節(2009年6月14日)

「十戒を守る」

***神はこれらの言葉を仰せられた。(1)わたしの他に神々があってはならない。(2)自分のために偶像を造ってはならない。(3)主の御名をみだりに唱えてはならない。(4)安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。(5)あなたの父と母を敬え。…続… ***


十戒として大変有名な箇所です。キリスト教の三要文(さんようもん)として、十戒、使徒信条そして主の祈りの3つは、伝統的教会においてはとても大切にされてきました。改革派の教会では、これらを全て暗唱しているそうです。十戒、これは、知識として大事なだけではなく、私達の人生に大きく係る事柄です。

20章の3節が、第1戒。4~6節「偶像を造ってはならない」が第2戒、7節「みだりに唱えてはならない」が第3戒、8~11節「安息日について」が第4戒、12節「父と母を敬え」が第5戒、引き続いて13節が6戒、14節が7戒、15節が8戒、16節が9戒、17節が10戒、とするのが一般的ですが、十戒ではなく、全部で十二戒とする教会もあるようです。これは聖書のどこで区切るかの解釈の違いです。

4戒までは、神に対しての事がらで、それ以降は、人間同士の事がらです。絵画などでは、十戒は2枚の板に書きしるされ、一枚に1~4戒まで、もう一枚に5~10戒が載せられています。しかし、この分け方も教会によって違う場合があり、ローマ教会(カトリック)などは、1-3、4-10で分けています。ロシア正教会などもそのようです。

十戒といいますが、本来なら、「10の言葉」と訳すべきものです。これは「戒め」ではありません。戒めというと、これらを守らないなら神から罰せられ、呪われるのでは?と思ってしまいます。

今日の箇所では、第5戒「父母を敬え」までを入れました。これらは、強制的な戒めでしょうか、それとも自発的であることを主は求めておられるのでしょうか。20章3節には、「他の神々があってはならない」とありますが、罰則規定はありません。4節には、「偶像を造ってはならない」とあり、ここにはいろんな説明がついています。偶像とは、魚や木を神として拝むことですが、「わたしはねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・」とあります。厳しい処罰が待っているかのようです。ということは、これは、強制的なものなのでしょうか。であれば、あまりにもおぞましい戒めです。

この後、律法が出来上がって来ますが、この十戒は特に重要なものでした。契約の箱に入れられ、モーセがそれを持って歩きました。申命記にも再び出てきます。さて、これが、今の私達にとっては、どういう意味を成すのでしょう。

19世紀まで、出エジプトは「モーセが書いた書ではない」と言われた時もありました。創・出・レビ・民・申命記といわれる、旧約聖書の最初の部分は、モーセ五書と呼ばれ、モーセが書いたと今ではされています。しかし、預言者以降(BC200年位)に書かれたのではないかと言われた時期があったのです。このように緒論あること自体が、聖書を認めているといえます。

十戒とは、神に対するあなたの態度を指し示しています。社会的なことは出てきません。自分と神、自分と家族、自分と周りの人、という対象です。預言者の時代には、イスラエルという国を意識しているため、社会性が色濃く出てきます。そのため、やはり、預言者の時代よりもかなり昔に書かれたものではないかと思われます。

神は、ユダヤ人たちを訓練しようとするとき、いきなり上級者コースを与えられませんでした。まず与えられたのは、「計画」です。ユダヤ人を基にして、世界に広がっていく。それは、神の作戦であり、戦略でした。漸進的であり、少しずつ登っていきます。頂上はイエスです。頂きに登れば、全部見渡せて理解できるのです。少しずつ成長させ、前進させる。その中で、見えないところもあると分かりながら、前進していくのです。

20章2節、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」「主である」という、この言葉が中心になっています。ユダヤ人にとって、「私を解放した主」がテーマでした。よく分からないけれど、従ってみるという姿勢。これは、強制でもなければ、自発的ともいえない、中間くらいのもので、どちらも含んでいます。「信頼すると決めたのだから、主の語られることを受け止めてやってみます」というのが、信仰のスタンスと言えるでしょう。

3戒として、「主の御名をみだりに唱えてはならない」「罰せずにはおかない」とあります。英語の表現として、「畜生!」というような意味で、「OhMyGod!」「JesusChrist!」など叫ぶ場合があります。これらは、主の御名を軽くしているといえます。そして、こういったことが、やがて私達の生活を滅茶苦茶にしていきます。私達は、気をつけなければなりません。自分がやること、言う言葉が、神の御名を傷つけていないかどうか。

安息日厳守、というのは、たしかにこの時代、強制的であり、罰則の感覚がありました。安息日に焚き木を集めていて殺された、というような記述も聖書にあります。それは、この訓練の時期には、必要なことだったからです。

礼拝とは、とても厳粛なことです。私達を造られた方を礼拝するのですから。それが、内側から出てくるかどうかが問われています。遅刻していいのか、休んでいいのか、献金をけちっていいのか・・・それは、神とはどういう方で、その方に対してどうあるべきかという私達の姿勢です。それが、心の内から湧き上がっているかどうか、それが私達の人生を変えます。

民族紛争の戦時下、自分を守るために邪魔な民族を皆殺しにするということが繰り広げられる毎日を過ごしていると、子供たちは死体を見慣れているため、とても楽に殺人が出来るようになっていきます。私達には、それはある種の訓練を受けなければ、とても出来ないことです。神を本気で畏れるということも、培っていかなければ出来ないことです。

神のなさることに対応できなくなる時もあります。それが神の愛であり、訓練であっても、それに気付けない。信仰から離れ、試練を乗り越えることを諦めることも。しかし、神を私達がどう捉えるかで変わります。あらゆる瞬間に、それを味わうことをしなければ、私達の信仰生活は豊かにならないのです。

十戒は、社会性というよりも、私達の信仰の土台としておかれています。何よりも、神を第一にしたいということで教会が一致したいと願います。午前中の礼拝にどうしても出席できないという場合は、牧師が対応します。どこかで時間ないですか、と相談してください。共に、神の大きさを理解して歩んでいきましょう。共に、神を畏怖することを学んでいきたいと思います。


2009年7月4日土曜日

神を畏れる者として(出エジプト14)

第14回 出エジプト記19章1~25節(2009年6月7日)

「神を畏れる者として」

***イスラエル人はシナイの荒野に入り、宿営した。主は山からモーセを呼んで仰せられた。「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の中でわたしの宝となる。」「三日目、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来られる。山に触れる者は誰でも必ず殺される。」***


19章は一つの区切りとなっています。出エジプト記18章までと19章以降は、契約が違ってくるからです。19章では、今までにないような厳しい言葉が並んでいます。「神が降りてくる。山に触ってはいけない。」民は主をその目で見たいと思ってぞろぞろ歩いていこうとします。しかし主は、それはダメだと厳しく言われます。

新約聖書と違って、旧約ではいろいろと厳しいことが書かれています。山に触れる者は誰でも殺されなければならない、などと書いてあると、神は愛だと思っていたのに、一体どういう方なのか?と思うかもしれません。

19章以降は、「シナイ契約」と呼ばれる契約について書かれています。20章は、あの有名な「十戒」についてですが、これは本来「10の言葉」という意味であり、戒めという発想はもともと無いのです。創世記・出エジプト・レビ記・民数記・申命記の5つは、モーセ五書と呼ばれ、モーセが殆ど書いたものです。出エジプト20章から申命記全般を通して、シナイ契約について細かいことが書かれています。

では、その他の契約とは何でしょうか。アブラハムに与えられた契約をアブラハム契約、ノアに与えられたのはノア契約、同じように、ダビデ契約、と呼ばれる様々な契約があります。アブラハムは、突然神が現れ、「わたしの示す地へ行け」といわれて旅に出るわけですが、それは、何か彼が良いことをしたとかいうわけではなく、突然選ばれてそうなったのです。神はいつも一方的に選びをされます。そのような、一方的な、神から人々へ与えられる恵みがアブラハム契約でした。

シナイ契約の始まりである19章5節には、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。」とあります。何かしたら、これをしてあげる、というような書き方で、これはまるで、人の側の責任も問いつつ選びをするよ、というような、まるで選びは条件つきなのだという感じを受けます。

ずっと後にはエレミヤ契約というものも出てきますが、聖書は契約のことばかり書かれていて、まるで法律の勉強のようです。以前学んだように、片務契約といって、ただ一方的に選ばれ、恵みを受けるというのはアブラハム契約でした。シナイ契約からは、双務契約に変更されたのでしょうか。いいえ、実はこれも片務契約です。

ここまで人類を導き、出エジプトを導くにあたって、ここまで民を愛していると主は示しておられます。その上で、主に従うかどうかは、あなたが決めてよいと言われているのです。「いや、私は結構」という人も中にはいるでしょう。しかし、その上で、今度は自分が主を一方的に愛するかどうかを学ぶ期間に入ったということです。主は、私たちの成長の段階をふんで、契約を与えられるのです。

私たちの人生もそうです。何かのきっかけで聖書に、そしてキリストに出会います。それはアブラハム契約であり、一方的な主の恵みです。そして人生を歩む中で、ふと振り返る時に、神はこんなにも私を愛し導いてくださった、さらに主と共に歩んでいきたいと「決断」し、洗礼を受けるということがあります。契約には順序があるのです。双方の片務契約だと学びましたが、神の方が先に私たちを愛して下さいました。それを見て、今度は私たちが一方的に神を愛するかどうか。それが救いの完成へと繋がっていきます。実際、それを拒絶する人は多いのです。イエスが、招かれる人は多いが、救われる人は少ないといわれた通りです。

ルカの福音書で、イエスが語られた種まきのたとえがあります。1番目の種は、道端に落ちました。踏み固められた硬い土地では、種は根も芽も生やすことは出来ません。2番目は、岩地に落ちました。少しくらいは成長しますが、すぐにダメになります。3番目は、イバラの中に落ちました。イバラとは、この世的な発想であり、享楽などを意味しています。4番目は、良い地に落ち、何百倍、何千倍の実を結んだとあります。神は一方的に与えてくださるのですが、私たちがどのように受け止めるかが問題なのです。

神へどのように応答するか。神はとてつもなく大きな恵みを与えて下さっています。何よりもまず、神を畏れるということが大事です。イエスは、私たちを友、兄弟、と呼んでくださいました。そのように下へと降りてくださいました。しかし、イエスは神です。私たち人間の世界でも、師に対して尊敬したり、畏敬の念を持つということは大切なことです。

第1コリント7章7節で、パウロはこのように言っています。「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに生き方があります」私たちは、それぞれ与えられた賜物の中で生きています。だからバラバラの生き方です。それは、それぞれに役割があるということです。人間同士でも、先生を尊敬するという礼儀は大事です。まして神に対しては、どれほど私たちは畏れなければならないでしょうか。神を信じて生きるとは、神の領域に入ってはいけないということです。それは、「私たちが死ぬといけないから」と、一方的に神が命じているのです。

私たちがここにあるのは、神の一方的な愛によります。どんなに愛されているかを日々発見します。信仰生活を振り返るとき、人生のどんな場面、どんな細かいところにも、確かに神はそこにおられたと発見するのです。神は、私たちを造られた方であり、全てを知っておられます。神に対して畏れをもっていなければ、神のいうことを聞くということは出来ません。畏れるということなしに、神の言葉は分からないのです。いいかげんに扱ってしまいます。

「ユダヤ人と日本人」という本を書いたイザヤ・ベンダサンという人がいます。ヨーロッパのキリスト教は父性的であり厳しさがあるが、日本に入ってきたとたんに母性的になり、優しくなると彼は書いています。何もかも赦すという教育は子供をダメにするように、厳しさは必要です。神は厳しい方なのです。

これは、私たちの生活に直接関係します。全てを善意で受け止める訓練をさせられます。様々に起こってくることに対して、神が何か意図していることだと考えつづけていく訓練です。それは、人間関係にも適用出来ます。人間同士の全ての事柄を善意に解釈などしたら、裏切られるのではないかと心配になるかもしれません。しかし第1コリント6章7節でパウロは、「そもそも互いに訴えあうことがすでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」と語ります。むしろ、だまされちゃえと聖書は語っているのです。

人間不信になり、こんちくしょう!と問題になる。しかし、聖書は「だまされなさい」といいます。善意で解釈しようという姿勢が大事なのです。相手のことを神に祈りつつ、善意で解釈していきましょう。もちろん、何でも言いなりになっていなさいということではありません。聖書には、「保証人にならない方がいい」とも書いてあります。

神を畏れるということから、神の方法を学び、また人間関係を善で解釈しつづけるということ、その上でもし騙されるということがあるなら、神がそこにも御手を置いてくださることを信じて歩んで行きましょう。それをしないなら、人間関係は崩壊していきます。シナイ契約は、善意で解釈するということを教えてくれます。悪いと思ったらごめんと言う、ごめんと言われたら必ず赦す、ということを、私達の教会のモットーとしたいと思います。


2009年7月2日木曜日

立つべき場所に(出エジプト13)

第13回 出エジプト記18章1~27節(2009年5月24日)

「立つべき場所に」


***モーセのしゅうとイテロがやってきた。モーセが、イスラエルのために神がなさった全てのことを話し、イテロは喜んだ。翌日、朝から夕方までさばきのためにやってくる大勢の民をみてイテロはモーセに助言をした。民の中から誠実な人を見つけ、リーダーとするように、そして、小さい事件は彼らが裁き、大きい事件のみをモーセが裁くようにと。モーセはしゅうとの言われたとおりにした。***


モーセには、チッポラという妻がおり、今日出てくるイテロは、その父です。モーセはミデヤンに家族をおいて、1人でエジプトに行きました。それが命がけの仕事になるとわかっていたからです。出エジプトから数ヶ月たち、旅の群れはミデヤン近くを通ったため、イテロが娘チッポラや孫たちを連れてモーセに会いに来て、語らいの時をもったのでした。神がイスラエルを守るために、海を分けられたこと、苦い水が甘くなったこと、岩をたたいたら水が出たことなど・・・イテロはさぞかし驚き、また喜んだことでしょう。

18章のテーマは、13節以降です。250万という群集、それは名古屋市全体の人口にも相当しますが、それだけの人々が出エジプトの旅を共にしています。モーセはそこで「裁きの座」についていたとありますが、これは、カウンセリングのようなことをしていたのです。また、刑事、民事の両方において裁きをしていました。

14節、イテロは、「なぜこんなことをしているのか」と言います。20節では、「あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい」と語ります。これは、教会の礼拝、また、説教と同じで、みことばから学びつづけることが大事だということです。どう生きたらいいかを民に教えよというのです。

17節、しかし、あなたが全てを裁くのは「良くない」と語ります。別の方法があるよ、と。千人の長、百人の長、50人の長、10人の長、つまりリーダーをたてよといいます。これは、行政を指しています。市、件、国、それぞれリーダーを立てるのはとても合理的です。聖書には、現在の行政や法律に通ずることが書かれているのです。

モーセは、イテロに言われるまで、何故このようにしていたのでしょうか。牧師として分かる気がします。自分がやらないとダメだと思ってしまうのです。自分で全てをやらないと治まらないと。人に任せるには、信頼することが必要ですが、それが難しい。そういうことが強くなっていくと、独裁主義に陥っていきます。ヒトラーは、誰をも信頼することが出来ず、どんな細かいことでも報告させたといいます。

人に任せず、自分で全てをやる方が、楽だという面があるのです。しかしそれは、いつか破綻します。モーセはここで、自分の使命は何かと教えられました。私たちは目の前にあることを片付けたいと思います。しかし、どこへ向かうためにそれをするかを分かっていなければ意味がありません。約束の地に人々を連れていくことがモーセの使命でした。しかし、現状の彼は、目の前のことに追われていたのです。

あなたの使命は何かを考えること。それは、一番大切なことは何か?を問われているということです。結婚カウンセリングで、結婚の決心がつかないという女性に出会ったことがあります。彼の言動を見ていると、自分と結婚したいのかが分からないと。しかし大事なことは、「自分はどう思うのか」です。

一番大事なこと、それをモーセは問われました。それは、民を連れていくこと、それを通して民が神を見、知っていく、分かっていくことでした。そして、モーセのえらいところは、しゅうとの言うことをすぐさま聞き入れたことです。

出エジプトは人生の旅と同じです。神を見るために仕事が与えられており、人生も与えられています。せっかく旅をしているのだから、その中で神の恵みを発見していけた方がいいに決まっています。私は実は、新婚旅行のことを何も覚えていません。運転するので精一杯だったからです。これはとてももったいないことです。運転しながらも、景色を味わうことが出来たら良かったのですが。同じことで、神を知るために仕事は与えられているのです。仕事そのものは、目的ではありません。家族すら、そうです。家族を通して、神を知らせていただくのです。

モーセは大切なことを忘れていました。民もそうです。モーセにただ付いてきただけの彼らは、いつも不平不満で満ち、神を分からないでいました。奇跡を見ても、すぐ忘れ、それどころか、もっと見せろという。しかしここで、民たちは役割が与えられたのです。同時に責任も与えられました。神の業に参加をし始めたのです。そうして初めて神を見ることができるのです。私たちは人間関係において、相手のことが分かったら、これをやってあげる、と考えます。しかし、本当は反対です。まず、相手のためにやってあげること、そうすれば、だんだんと相手のことが分かってくるのです。リーダーは七転八倒しながらも、神が見えてきます。奉仕をしていくなかで、新しい動きが始まり、主に出会うのです。民たちは、そのような、神をみるきっかけを与えられたのでした。

彼らは艱難の中で主を見ることができるようになります。神の働きのために業をしていくなかで、さらに見えてくるのです。私たちがどのように人生を歩むか、それを出エジプトから学ぶことができます。仕事、家族、人間関係、赦せないと思う人々との間でも、神を見ることが出来ます。私たちが立つべき場所は、「神をみるための旅人」だということなのです。