第31回 出エジプト記33章1-11節(2010年1月17日)
「神の愛に報いるために」
***主はモーセに、「民と共に約束の地へ上れ。しかしわたしは一緒には行かない。あなたはかたくなな民であるので、わたしがあなたを滅ぼすことがないために」と語られた。民は嘆き、飾りをはずした。***
出エジプトの、一つのクライマックスを読んでいます。金の子牛を造って拝んだというのが先回。それは、聖画にもよく描かれている場面で、民たちが悲惨な状況に陥ったことを記しています。いま、この時間にも、私たちと同じように聖書を読んでいる人々が世界中にいます。毎週日曜、20億~30億の人が、世界中の教会で聖書を学んでいるのです。どんな思いで読むかと言うと、神話として面白おかしく読んでいる、そんな人は少ないでしょう。神話として楽しんで読む人もいるのでしょうが、私たちは現実のものとして読もうとしています。なるべく、その場面に戻りながら読むということを心がけたいものです。
NHKで地震についての番組を見ました。東海大震災のメカニズムが分かってきたというもので、プレートが戻るその戻り方が、他の地域と全く違うのだそうです。東北の場合は震度5,6が何度も起こりましたが、東海沖は何百倍もあるといい、来る時は一気に来ると予想されるのだそうです。それが起こるのが、半年後、とか2ヶ月後、とか、テレビは淡々と伝えます。実際とても怖い話なのですが、なかなかリアルに見えてきません。
今日の聖書の個所は、もっと切実です。モーセが山に上って神と話し、十戒の板を頂いてくる間に、民たちは耐え切れなくなって、金の子牛を造って拝むという罪を犯しました。それに対して神の裁きが下り、千人の人が死んだのです。聖書に、そう淡々と書いてあります。ハイチの地震について報道が毎日ありますが、あのような地震が来たらどうなるのかというような、リアリティをもって読んで頂きたいのです。神戸の地震の時のある教会の話ですが、開拓を始めてたった二日目の会堂が、あの地震によって完全に破壊されました。救助のお手伝いに行きましたが、本当に文字通り、何もかもなくなっていたのです。そういう場面を、現実感をもって読んでいきたいものです。
これから約束の地に上るという場面で、神は「行きなさい。途中、カナン人エモリ人と戦っていかなければいけない。乳と蜜の流れる地に行きなさい。しかしわたしは、あなたたちとは行かない。約束の地は与えるが、一緒には上らない。」と言われました。「うなじのこわい民だから」というのがその理由ですが、これは、馬に乗る時、性質の悪い馬は首が堅いからブレーキがかからないという意味の言葉です。民たちは、神の言葉を全然理解しないので、わたしが途中で立ち滅ぼすことがあるといけないから、と神が言われました。金のネックレスで子牛を造ったということがあったので、民の痛みとして6節「かざりものを外した」のでした。
民はこのとき、初めて気づいたのです。数か月前には、海を分けて歩いてきた。主は素晴らしい!しかし、しばらくすると忘れてしまう。金の子牛を造って拝んでしまう。全く分かってない、リアルに知っていない。神の怒りが下ったら、こともなげに人々が絶たれていくということを目の当たりにし、神を拒絶するということはとんでもないことだと気付いたのです。そんな厳しい現実であるなら、神など信じない、と、私たちは言うのでしょうか?
もし、神から見放されたとしたら、どんな感覚に陥りますか。神がおられて、私たちが共にいさせて頂く。神がおられるから、私たちが最高の作品だと分かる。いままで神を知らなかったときのように、劣等感を持つ必要はなくなった。そして優越感も持つ必要がありません。最高の作品としてここにいる感謝。もしそうでないなら、私たちは無用のものということです。
私たちの人生には意味があるのでしょうか。あります。それは、神が作られたからです。能力至上主義のこの世で、私たちはそれとは全く別の価値観において、私たちにしか生きられない人生を歩んでいるのです。
そして、私たちには、死後の世界が約束されています。ホスピスでの働きをされている柏木先生というお医者さんが、死生観について語っておられました。人は、生きてきたように死んでいくのだといいます。人生、いつも感謝してきた人は、スタッフに感謝しながら亡くなっていき、いつも不平を言ってきた人は、最後の時もそうだと。臨終は、その方の人生の凝縮であり、最後の言葉は総決算です。
彼が、今まで看取った患者さんや家族の言葉で、印象的な3つを紹介していました。1つめは、「もったいない」。将来有望な、サッカー少年の死に際、母がおおいかぶさるようにして吐いた言葉です。大事に育ててきた一人息子の死。希望ある将来を夢みていたのが、途中で絶たれるという悲しみから出た言葉でしょうか。2つめは、「死にとうない」。働き者の社長だった彼は、大きな富と名声を得ましたが、癌に罹り、最後はモルヒネで痛みを和らげていました。食欲が落ちていき、いよいよという時に「死にとうない、金はいくらでも出す」と訴えたといいます。それに対して先生は、「死にたくないよね」としか答えられなかったそうです。
3つめは「いってくるね」。癌末期の女性でした。彼女は「死が近いのはいいが、苦しいので痛みを和らげて欲しい」。そしてある日、「明日か明後日のような気がします。いつか先生も来てくださいね。」と、それはあまりにも自然な言葉でした。臨終で、はっきりと、「いってくるね」娘さんが「いってらっしゃい」と答えました。お互いに再会の確信があるからこその言葉です。
臨終のその時、生きてきたそのものが見えてしまいます。もったいないと残念がる。死にたくないと、悔いて悩んで苦しむ。しかし3番目の女性には、「もっといいところに連れて行って下さる」という確信がありました。いってきます、いってらっしゃいと挨拶をかわすことが出来るというのは、神が共にいて、私たちの人生を約束するという契約がなければありえないことです。
3つのことが約束されていあます。私たちは最高の作品であること。生き生きとした人生を歩めるということ。そして死んだ後も、もっと大きな祝福が与えられるということ。これらの約束がなければ、私たちの人生は滅茶苦茶になってしまいます。その約束を拒絶するかのように、民は金の子牛を造って拝み続け、神の裁きを受けたというのは、とても象徴的な事柄です。自分の持っている一番いいものを、本来は神に捧げるのです。最高のものを、素晴らしい奇跡を起こして下さった方にはそれを捧げず、偶像にそれをしようとする。私たちの人生を確実にしてくださる方には甘え、偶像に自分を捧げる。ユダヤの民は、ここで終ってしまってもおかしくはありませんでした。
「わたしは一緒に行かない」と主は言われましたが、モーセだけは会見の天幕(天幕とは違い、テントのような簡易なもの)で、神と話すことが許されました。神は、モーセと会見をし、モーセを通してユダヤ人を守るということをされたのです。モーセという一人の人との、一本の糸でつながっていたということです。モーセの死後は、ヨシュアがその役割を果たしていきます。
私たちは、モーセ、ヨシュアのような働きをしていくのです。ユダヤ人全体を助けるため、首の皮1枚でつながっていたのがモーセでありヨシュアの働きによるものでした。私たちの家族、社会のため、教会がこの社会の救いのための「首の皮1枚」です。皆さんが、モーセでありヨシュアなのです。教会が全部なくなったとしたら、この世に正義など絶対なくなるでしょう。
法律があるのは、人間は悪者という大前提があるからです。だから法律を作るのです。見えなくてわからないなら、悪いことをやる。余裕があったら人のことを考えるが、大体は自分中心にふるまう。人間とはそういうものです。法律さえ、自分中心で良いのだと言っています。自分を助け、それから人のこと考えれば良いという前提で作られているのです。
法律によれば、自分の命をかけてまで溺れている人を助ける必要はありません。しかし、私たちには死後の世界が約束されています。「自分の命をかけてでも、何か社会のために出来ないか」と考える人々がいるから、社会が保たれているといっていいでしょう。教会は、日曜に何かいいお話を聞きにくる場所だとだけ思うなら浅いかもしれません。皆さんが神とつながることが、社会・家族に神をつなげているのです。それをなさるのは神です。
今現在、ユダヤ人が国民として強く生きていられるのは、モーセのおかげです。同じように皆さんが、社会家庭を支えていきます。一歩引いて自分を見つめ、モーセ、ヨシュアのように生きているかどうか考えてみましょう。本当に良いもの、大切なものをを神に捧げているか。仕事の前に、10分でも祈りを捧げるところから初めているか。自分が落ち着くということもありますが、その貴重な時間を神に捧げるということが大事です。私たちの賜物をささげるということで、私たちもモーセヨシュアのような働きが出来るのです。
「死にとうない」と最後に言葉を残した社長は、たくさんの社員とその家族を養いながら、平安と喜びに彼らを結び付けることはできませんでした。「いってくるね」と言ったお母さんは、普通の平凡な主婦でしたが、家族や社会に対して、大きな希望と喜びを与えることが出来ました。人生の最後に「いってきます」「いってらっしゃい」といえるような歩みを、私たちもしたいと願います。
