2009年7月23日木曜日

十戒を守る(出エジプト15)

第15回目 出エジプト記20章1~12節(2009年6月14日)

「十戒を守る」

***神はこれらの言葉を仰せられた。(1)わたしの他に神々があってはならない。(2)自分のために偶像を造ってはならない。(3)主の御名をみだりに唱えてはならない。(4)安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。(5)あなたの父と母を敬え。…続… ***


十戒として大変有名な箇所です。キリスト教の三要文(さんようもん)として、十戒、使徒信条そして主の祈りの3つは、伝統的教会においてはとても大切にされてきました。改革派の教会では、これらを全て暗唱しているそうです。十戒、これは、知識として大事なだけではなく、私達の人生に大きく係る事柄です。

20章の3節が、第1戒。4~6節「偶像を造ってはならない」が第2戒、7節「みだりに唱えてはならない」が第3戒、8~11節「安息日について」が第4戒、12節「父と母を敬え」が第5戒、引き続いて13節が6戒、14節が7戒、15節が8戒、16節が9戒、17節が10戒、とするのが一般的ですが、十戒ではなく、全部で十二戒とする教会もあるようです。これは聖書のどこで区切るかの解釈の違いです。

4戒までは、神に対しての事がらで、それ以降は、人間同士の事がらです。絵画などでは、十戒は2枚の板に書きしるされ、一枚に1~4戒まで、もう一枚に5~10戒が載せられています。しかし、この分け方も教会によって違う場合があり、ローマ教会(カトリック)などは、1-3、4-10で分けています。ロシア正教会などもそのようです。

十戒といいますが、本来なら、「10の言葉」と訳すべきものです。これは「戒め」ではありません。戒めというと、これらを守らないなら神から罰せられ、呪われるのでは?と思ってしまいます。

今日の箇所では、第5戒「父母を敬え」までを入れました。これらは、強制的な戒めでしょうか、それとも自発的であることを主は求めておられるのでしょうか。20章3節には、「他の神々があってはならない」とありますが、罰則規定はありません。4節には、「偶像を造ってはならない」とあり、ここにはいろんな説明がついています。偶像とは、魚や木を神として拝むことですが、「わたしはねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・」とあります。厳しい処罰が待っているかのようです。ということは、これは、強制的なものなのでしょうか。であれば、あまりにもおぞましい戒めです。

この後、律法が出来上がって来ますが、この十戒は特に重要なものでした。契約の箱に入れられ、モーセがそれを持って歩きました。申命記にも再び出てきます。さて、これが、今の私達にとっては、どういう意味を成すのでしょう。

19世紀まで、出エジプトは「モーセが書いた書ではない」と言われた時もありました。創・出・レビ・民・申命記といわれる、旧約聖書の最初の部分は、モーセ五書と呼ばれ、モーセが書いたと今ではされています。しかし、預言者以降(BC200年位)に書かれたのではないかと言われた時期があったのです。このように緒論あること自体が、聖書を認めているといえます。

十戒とは、神に対するあなたの態度を指し示しています。社会的なことは出てきません。自分と神、自分と家族、自分と周りの人、という対象です。預言者の時代には、イスラエルという国を意識しているため、社会性が色濃く出てきます。そのため、やはり、預言者の時代よりもかなり昔に書かれたものではないかと思われます。

神は、ユダヤ人たちを訓練しようとするとき、いきなり上級者コースを与えられませんでした。まず与えられたのは、「計画」です。ユダヤ人を基にして、世界に広がっていく。それは、神の作戦であり、戦略でした。漸進的であり、少しずつ登っていきます。頂上はイエスです。頂きに登れば、全部見渡せて理解できるのです。少しずつ成長させ、前進させる。その中で、見えないところもあると分かりながら、前進していくのです。

20章2節、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」「主である」という、この言葉が中心になっています。ユダヤ人にとって、「私を解放した主」がテーマでした。よく分からないけれど、従ってみるという姿勢。これは、強制でもなければ、自発的ともいえない、中間くらいのもので、どちらも含んでいます。「信頼すると決めたのだから、主の語られることを受け止めてやってみます」というのが、信仰のスタンスと言えるでしょう。

3戒として、「主の御名をみだりに唱えてはならない」「罰せずにはおかない」とあります。英語の表現として、「畜生!」というような意味で、「OhMyGod!」「JesusChrist!」など叫ぶ場合があります。これらは、主の御名を軽くしているといえます。そして、こういったことが、やがて私達の生活を滅茶苦茶にしていきます。私達は、気をつけなければなりません。自分がやること、言う言葉が、神の御名を傷つけていないかどうか。

安息日厳守、というのは、たしかにこの時代、強制的であり、罰則の感覚がありました。安息日に焚き木を集めていて殺された、というような記述も聖書にあります。それは、この訓練の時期には、必要なことだったからです。

礼拝とは、とても厳粛なことです。私達を造られた方を礼拝するのですから。それが、内側から出てくるかどうかが問われています。遅刻していいのか、休んでいいのか、献金をけちっていいのか・・・それは、神とはどういう方で、その方に対してどうあるべきかという私達の姿勢です。それが、心の内から湧き上がっているかどうか、それが私達の人生を変えます。

民族紛争の戦時下、自分を守るために邪魔な民族を皆殺しにするということが繰り広げられる毎日を過ごしていると、子供たちは死体を見慣れているため、とても楽に殺人が出来るようになっていきます。私達には、それはある種の訓練を受けなければ、とても出来ないことです。神を本気で畏れるということも、培っていかなければ出来ないことです。

神のなさることに対応できなくなる時もあります。それが神の愛であり、訓練であっても、それに気付けない。信仰から離れ、試練を乗り越えることを諦めることも。しかし、神を私達がどう捉えるかで変わります。あらゆる瞬間に、それを味わうことをしなければ、私達の信仰生活は豊かにならないのです。

十戒は、社会性というよりも、私達の信仰の土台としておかれています。何よりも、神を第一にしたいということで教会が一致したいと願います。午前中の礼拝にどうしても出席できないという場合は、牧師が対応します。どこかで時間ないですか、と相談してください。共に、神の大きさを理解して歩んでいきましょう。共に、神を畏怖することを学んでいきたいと思います。


2009年7月4日土曜日

神を畏れる者として(出エジプト14)

第14回 出エジプト記19章1~25節(2009年6月7日)

「神を畏れる者として」

***イスラエル人はシナイの荒野に入り、宿営した。主は山からモーセを呼んで仰せられた。「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは全ての国々の中でわたしの宝となる。」「三日目、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来られる。山に触れる者は誰でも必ず殺される。」***


19章は一つの区切りとなっています。出エジプト記18章までと19章以降は、契約が違ってくるからです。19章では、今までにないような厳しい言葉が並んでいます。「神が降りてくる。山に触ってはいけない。」民は主をその目で見たいと思ってぞろぞろ歩いていこうとします。しかし主は、それはダメだと厳しく言われます。

新約聖書と違って、旧約ではいろいろと厳しいことが書かれています。山に触れる者は誰でも殺されなければならない、などと書いてあると、神は愛だと思っていたのに、一体どういう方なのか?と思うかもしれません。

19章以降は、「シナイ契約」と呼ばれる契約について書かれています。20章は、あの有名な「十戒」についてですが、これは本来「10の言葉」という意味であり、戒めという発想はもともと無いのです。創世記・出エジプト・レビ記・民数記・申命記の5つは、モーセ五書と呼ばれ、モーセが殆ど書いたものです。出エジプト20章から申命記全般を通して、シナイ契約について細かいことが書かれています。

では、その他の契約とは何でしょうか。アブラハムに与えられた契約をアブラハム契約、ノアに与えられたのはノア契約、同じように、ダビデ契約、と呼ばれる様々な契約があります。アブラハムは、突然神が現れ、「わたしの示す地へ行け」といわれて旅に出るわけですが、それは、何か彼が良いことをしたとかいうわけではなく、突然選ばれてそうなったのです。神はいつも一方的に選びをされます。そのような、一方的な、神から人々へ与えられる恵みがアブラハム契約でした。

シナイ契約の始まりである19章5節には、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。」とあります。何かしたら、これをしてあげる、というような書き方で、これはまるで、人の側の責任も問いつつ選びをするよ、というような、まるで選びは条件つきなのだという感じを受けます。

ずっと後にはエレミヤ契約というものも出てきますが、聖書は契約のことばかり書かれていて、まるで法律の勉強のようです。以前学んだように、片務契約といって、ただ一方的に選ばれ、恵みを受けるというのはアブラハム契約でした。シナイ契約からは、双務契約に変更されたのでしょうか。いいえ、実はこれも片務契約です。

ここまで人類を導き、出エジプトを導くにあたって、ここまで民を愛していると主は示しておられます。その上で、主に従うかどうかは、あなたが決めてよいと言われているのです。「いや、私は結構」という人も中にはいるでしょう。しかし、その上で、今度は自分が主を一方的に愛するかどうかを学ぶ期間に入ったということです。主は、私たちの成長の段階をふんで、契約を与えられるのです。

私たちの人生もそうです。何かのきっかけで聖書に、そしてキリストに出会います。それはアブラハム契約であり、一方的な主の恵みです。そして人生を歩む中で、ふと振り返る時に、神はこんなにも私を愛し導いてくださった、さらに主と共に歩んでいきたいと「決断」し、洗礼を受けるということがあります。契約には順序があるのです。双方の片務契約だと学びましたが、神の方が先に私たちを愛して下さいました。それを見て、今度は私たちが一方的に神を愛するかどうか。それが救いの完成へと繋がっていきます。実際、それを拒絶する人は多いのです。イエスが、招かれる人は多いが、救われる人は少ないといわれた通りです。

ルカの福音書で、イエスが語られた種まきのたとえがあります。1番目の種は、道端に落ちました。踏み固められた硬い土地では、種は根も芽も生やすことは出来ません。2番目は、岩地に落ちました。少しくらいは成長しますが、すぐにダメになります。3番目は、イバラの中に落ちました。イバラとは、この世的な発想であり、享楽などを意味しています。4番目は、良い地に落ち、何百倍、何千倍の実を結んだとあります。神は一方的に与えてくださるのですが、私たちがどのように受け止めるかが問題なのです。

神へどのように応答するか。神はとてつもなく大きな恵みを与えて下さっています。何よりもまず、神を畏れるということが大事です。イエスは、私たちを友、兄弟、と呼んでくださいました。そのように下へと降りてくださいました。しかし、イエスは神です。私たち人間の世界でも、師に対して尊敬したり、畏敬の念を持つということは大切なことです。

第1コリント7章7節で、パウロはこのように言っています。「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに生き方があります」私たちは、それぞれ与えられた賜物の中で生きています。だからバラバラの生き方です。それは、それぞれに役割があるということです。人間同士でも、先生を尊敬するという礼儀は大事です。まして神に対しては、どれほど私たちは畏れなければならないでしょうか。神を信じて生きるとは、神の領域に入ってはいけないということです。それは、「私たちが死ぬといけないから」と、一方的に神が命じているのです。

私たちがここにあるのは、神の一方的な愛によります。どんなに愛されているかを日々発見します。信仰生活を振り返るとき、人生のどんな場面、どんな細かいところにも、確かに神はそこにおられたと発見するのです。神は、私たちを造られた方であり、全てを知っておられます。神に対して畏れをもっていなければ、神のいうことを聞くということは出来ません。畏れるということなしに、神の言葉は分からないのです。いいかげんに扱ってしまいます。

「ユダヤ人と日本人」という本を書いたイザヤ・ベンダサンという人がいます。ヨーロッパのキリスト教は父性的であり厳しさがあるが、日本に入ってきたとたんに母性的になり、優しくなると彼は書いています。何もかも赦すという教育は子供をダメにするように、厳しさは必要です。神は厳しい方なのです。

これは、私たちの生活に直接関係します。全てを善意で受け止める訓練をさせられます。様々に起こってくることに対して、神が何か意図していることだと考えつづけていく訓練です。それは、人間関係にも適用出来ます。人間同士の全ての事柄を善意に解釈などしたら、裏切られるのではないかと心配になるかもしれません。しかし第1コリント6章7節でパウロは、「そもそも互いに訴えあうことがすでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」と語ります。むしろ、だまされちゃえと聖書は語っているのです。

人間不信になり、こんちくしょう!と問題になる。しかし、聖書は「だまされなさい」といいます。善意で解釈しようという姿勢が大事なのです。相手のことを神に祈りつつ、善意で解釈していきましょう。もちろん、何でも言いなりになっていなさいということではありません。聖書には、「保証人にならない方がいい」とも書いてあります。

神を畏れるということから、神の方法を学び、また人間関係を善で解釈しつづけるということ、その上でもし騙されるということがあるなら、神がそこにも御手を置いてくださることを信じて歩んで行きましょう。それをしないなら、人間関係は崩壊していきます。シナイ契約は、善意で解釈するということを教えてくれます。悪いと思ったらごめんと言う、ごめんと言われたら必ず赦す、ということを、私達の教会のモットーとしたいと思います。


2009年7月2日木曜日

立つべき場所に(出エジプト13)

第13回 出エジプト記18章1~27節(2009年5月24日)

「立つべき場所に」


***モーセのしゅうとイテロがやってきた。モーセが、イスラエルのために神がなさった全てのことを話し、イテロは喜んだ。翌日、朝から夕方までさばきのためにやってくる大勢の民をみてイテロはモーセに助言をした。民の中から誠実な人を見つけ、リーダーとするように、そして、小さい事件は彼らが裁き、大きい事件のみをモーセが裁くようにと。モーセはしゅうとの言われたとおりにした。***


モーセには、チッポラという妻がおり、今日出てくるイテロは、その父です。モーセはミデヤンに家族をおいて、1人でエジプトに行きました。それが命がけの仕事になるとわかっていたからです。出エジプトから数ヶ月たち、旅の群れはミデヤン近くを通ったため、イテロが娘チッポラや孫たちを連れてモーセに会いに来て、語らいの時をもったのでした。神がイスラエルを守るために、海を分けられたこと、苦い水が甘くなったこと、岩をたたいたら水が出たことなど・・・イテロはさぞかし驚き、また喜んだことでしょう。

18章のテーマは、13節以降です。250万という群集、それは名古屋市全体の人口にも相当しますが、それだけの人々が出エジプトの旅を共にしています。モーセはそこで「裁きの座」についていたとありますが、これは、カウンセリングのようなことをしていたのです。また、刑事、民事の両方において裁きをしていました。

14節、イテロは、「なぜこんなことをしているのか」と言います。20節では、「あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい」と語ります。これは、教会の礼拝、また、説教と同じで、みことばから学びつづけることが大事だということです。どう生きたらいいかを民に教えよというのです。

17節、しかし、あなたが全てを裁くのは「良くない」と語ります。別の方法があるよ、と。千人の長、百人の長、50人の長、10人の長、つまりリーダーをたてよといいます。これは、行政を指しています。市、件、国、それぞれリーダーを立てるのはとても合理的です。聖書には、現在の行政や法律に通ずることが書かれているのです。

モーセは、イテロに言われるまで、何故このようにしていたのでしょうか。牧師として分かる気がします。自分がやらないとダメだと思ってしまうのです。自分で全てをやらないと治まらないと。人に任せるには、信頼することが必要ですが、それが難しい。そういうことが強くなっていくと、独裁主義に陥っていきます。ヒトラーは、誰をも信頼することが出来ず、どんな細かいことでも報告させたといいます。

人に任せず、自分で全てをやる方が、楽だという面があるのです。しかしそれは、いつか破綻します。モーセはここで、自分の使命は何かと教えられました。私たちは目の前にあることを片付けたいと思います。しかし、どこへ向かうためにそれをするかを分かっていなければ意味がありません。約束の地に人々を連れていくことがモーセの使命でした。しかし、現状の彼は、目の前のことに追われていたのです。

あなたの使命は何かを考えること。それは、一番大切なことは何か?を問われているということです。結婚カウンセリングで、結婚の決心がつかないという女性に出会ったことがあります。彼の言動を見ていると、自分と結婚したいのかが分からないと。しかし大事なことは、「自分はどう思うのか」です。

一番大事なこと、それをモーセは問われました。それは、民を連れていくこと、それを通して民が神を見、知っていく、分かっていくことでした。そして、モーセのえらいところは、しゅうとの言うことをすぐさま聞き入れたことです。

出エジプトは人生の旅と同じです。神を見るために仕事が与えられており、人生も与えられています。せっかく旅をしているのだから、その中で神の恵みを発見していけた方がいいに決まっています。私は実は、新婚旅行のことを何も覚えていません。運転するので精一杯だったからです。これはとてももったいないことです。運転しながらも、景色を味わうことが出来たら良かったのですが。同じことで、神を知るために仕事は与えられているのです。仕事そのものは、目的ではありません。家族すら、そうです。家族を通して、神を知らせていただくのです。

モーセは大切なことを忘れていました。民もそうです。モーセにただ付いてきただけの彼らは、いつも不平不満で満ち、神を分からないでいました。奇跡を見ても、すぐ忘れ、それどころか、もっと見せろという。しかしここで、民たちは役割が与えられたのです。同時に責任も与えられました。神の業に参加をし始めたのです。そうして初めて神を見ることができるのです。私たちは人間関係において、相手のことが分かったら、これをやってあげる、と考えます。しかし、本当は反対です。まず、相手のためにやってあげること、そうすれば、だんだんと相手のことが分かってくるのです。リーダーは七転八倒しながらも、神が見えてきます。奉仕をしていくなかで、新しい動きが始まり、主に出会うのです。民たちは、そのような、神をみるきっかけを与えられたのでした。

彼らは艱難の中で主を見ることができるようになります。神の働きのために業をしていくなかで、さらに見えてくるのです。私たちがどのように人生を歩むか、それを出エジプトから学ぶことができます。仕事、家族、人間関係、赦せないと思う人々との間でも、神を見ることが出来ます。私たちが立つべき場所は、「神をみるための旅人」だということなのです。


2009年5月30日土曜日

解放と自由と(出エジプト12)

第12回 出エジプト17章1~16節(2009年5月17日)

「解放と自由と」

***シンの荒野から出発した民は、旅を重ねてレフィディムで宿営した。そこには飲み水が無く、民は渇いてモーセにつぶやいた。モーセが主に叫ぶと、主はモーセが岩を打つとそこから水が出るようにされた。さてアマレクが来てイスラエルと戦った。モーセが手をあげているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になった。***



民は、「何故自分達をエジプトから連れ出したのか」と、何度もモーセにつぶやきます。エジプトにいれば、こんな長い旅に出て歩くことも無く、生きていられたのに。余計なお世話だ、自分たちは奴隷のままでよかったのだ、と言わんばかりです。

現代の教会も、外から見れば、余計なことをやっていると思われてある意味当然かもしれません。人間は自由を求めて生きています。自分の思うとおり、自由に稼いでいきたいという、資本主義はその歴史でした。一方で、社会主義とは、このままでいいのだという歴史だったといえます。神が民にされたのは、「奴隷のところから解放する」ことでした。神は、「自由にしてあげる」とは言っていません。

ところで、奴隷とは何でしょうか。それは今の社会でも存在します。共依存といって、夫のDVを受けてもついていく妻などは、夫の奴隷状態にあるといえます。また、アフリカで行われていたアパルトヘイトなど。南アフリカ共和国では、それが廃止された後、黒人が自分たちのことを白人と同じ人間だということがどうしても理解できなかったとか。それは、長い間、自分達は動物同様に扱われてきたからです。同じ人間であることを理解させるために白人のストリップを見せたということもあったそうです。

自分が奴隷であることが分からないことが問題です。何の奴隷になっているのか。共依存の夫婦の話ですが、法律的には問題がありません。なぜなら、お互い自由で、妻本人がどんなに夫からDVを受けようと、それで良いといっているのだからと、具体的には何も出来ません。そこでどうするかというと、止む無く法を犯すという手段をとります。妻を隔離してカウンセリングするのです。

問題なのは、迫害を受けていること事態ではなく、自分が奴隷状態であるということが分からないことなのです。民たちも、自分が奴隷であったことに気付いていませんでした。それに気付くために、何度も何度もこういったことが繰り返されていきます。それが第1の目的です。エジプトより今の方が苦しいかどうかは、神にとって問題ではありません。奴隷から解放することが出エジプトの目的なのです。

救いとは、恵みの全てではありません。奴隷であったことを知ること、そこからの解放が大きなことです。パウロは、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています(ローマ8:19)」といいましたが、それが罪の奴隷です。罪とは、神から離れていることです。そして神の発想が出来ない状態のことです。何を思うにしても、よく考えてみると、全て自分中心であることに気付きます。神がどう思うかは、考えることが出きるとしても、思考の半分くらいでしょうか。

細かいことを決めて、これはダメ、これは良いと、律法的に判断することも罪の奴隷です。ある教会学校の中高生担当教師が、生徒から性的な悩みを告白されたそうです。そのような場合、教師としてどのように子供を導いたらよいのかと彼は悩んでいました。どのような問題でも、苦しむことが大事といえます。どうしたら余計なものをコントロールして、神が祝福される結婚の大切なものを自分のものにしていけるか。何でも自由でいいのだというのではなく、主が共にいて、一緒に苦しんで、道を開いていってくださる、それが解放です。

私たちは、どこまでいっても自分中心の罪の奴隷であることを発見します。主はそこから解放してくださるのです。悩みは多いでしょう。だから、これからは神と一緒に悩んでいこうと決断することが大切です。礼拝はそれを学んでいく場です。民はそのようにして、いつでも文句をいいながらも、自分が奴隷であったことに気付いていくのです。私たちは、安心して、自分が罪人であると発見していきましょう。決して落ち込む必要はありません。私たちが弱いからこそ、主が導かれると分かるのですから。

後半は、アマレク人との戦いです。ヨシュアが初登場しています。モーセが手を挙げている間はイスラエルが優勢だったとあります。モーセの手が疲れて降りてこないように、アロンとフルが支えたとあります。

ここを霊的に解釈するなら、アマレクとの戦いは罪との戦いです。そして、私たちにはサポーターが与えられているということです。あなただけの戦いではないのです。手をあげつづけるなら自動的に勝つということではなく、支える人も主は与えて下さっているということです。

神の導きに従っていく歩みは、解放の人生です。それは自分のやりたいようにやるということではありません。神に従う歩みこそ、もっとも美しく、また強いところを歩いていくことができます。解放された人生とは、生き生きと生きられ、生まれてよかったと実感できる人生です。イエスは私たちを招かれるときに、共にくびきを背負うと言われました(マタイ11章)。解放された人生を、兄弟姉妹と共に生き生きと歩んでいきたいと願います。



2009年5月18日月曜日

神の試み(出エジプト11)

第11回 出エジプト16章1~36節(2009年5月10日)

「神の試み」

***エリムを出発した民は、シンの荒野に向かった。彼らはモーセとアロンに不平を述べ立て、「エジプトで死んだ方がましだった。あの時は肉やパンを腹いっぱい食べられたのに、ここで飢え死にしなければいけないとは。」と言った。夕方になると、うずらがとんできて、朝には宿営の周りに露が降り、それが渇くと薄くて壊れやすいものが残った。それは主が彼らのために食物として与えられたパンで、マナと呼ばれた。主は民に命じて、必要な分のみ毎日それぞれが集め、6日目だけは7日目の安息日のために二日分集めるように言った。主の命に従わずに余分に集めたマナは翌日には虫がつき、臭くなった。***


シンの荒野へと向かった民。出発してから1ヶ月ほどたっています。疲れきってへとへとだったことでしょう。なにしろ、250万人という大群衆です。昼は雲の柱、夜は火の柱でもって主が導かれ、その後をついていったのですが、そのような異常事態、奇跡的状況の中を、ただひたすら歩いていきました。

1ヶ月前に、海が分かれる奇跡も目撃した彼らです。しかし、ここでもまた、リーダーにつぶやいています。エジプトで死んだ方がましだったとさえ言います。何しろ、この旅はこの先40年続くことになります。40年かけた引越しですから、ストレスがたまるのも当然です。

ある程度、この辺りの地理を把握していた彼らは、主の導きに対して、どうしてこんな場所を通らなければいけないのかと不安になり、そして不信仰になっていきます。神が何といおうと、自分はもうこれ以上行きたくない。エジプトに帰りたい、と。

私たちは、自分の人生には選択権があると感じて生きています。しかし、聖書を読み始めてみると、神が一番良い道を備えて下さるのだと分かるようになります。神を信じないのであれば、今の人生ではない、違う生き方があるのかも、と思っても当然かもしれません。

神は、彼らに食事を与えました。4節、「試す」とありますが、これは大事なことです。人生に試みが無ければ大変つまらないものになります。試験がなかったら、何も勉強しようとしないでしょうし、ノルマや責任があるからこそ、チャレンジしようという意欲が湧くものです。日々のいろんな問題は試みと理解することができます。才能が無いから苦労するのだと思うでしょうか?全く違います。「試みる」と神が言ったのです。それは、私たちが成長するために必要なことでした。

食べ物が無い!と民が不満をぶちまけたときに、主はウズラとマナを与えられました。この辺りの海岸には、ウズラの集団がよくやってくるのだそうです。そしてその肉は、250万人の腹を満たしました。これは神の業です。自然界の法則を用いつつ、神の力でそれをなさるのです。

私たちは、人生を諦めないことです。自分の、この小さな力で、一体何が出来るのかと思うかもしれませんが、今やっていることを止めない方がいいです。なぜなら、それは絶対できるようになるからです。以前、マルコの福音書で、5000人の給食の話を聞きました。男だけで5000人ですから、女性や子供含めて1万数千人はいたでしょう。たった5つのパンと2匹の魚をもって、イエスは彼らを満たしました。最初にイエスは、「持っているのは何か」と問われ、それをされました。主は、それを何億倍にもされる方です。

私は、これがやりたい。これを持っている。その時に、主よ、あなたを信じてやってみます、と歩み始めるときに、そのような人生が送れるのです。私たちは、全てのことを自分の力だけでやろうとします。そしてそれがダメなら、自分の才能が無いからだと落ち込みますが、本当はそうではありません。ユダヤの民は、このようにして訓練させられていきました。主がおられる、主が守ってくださるということを知るための徹底的な訓練です。

1日分のマナだけ集めよ、と主は言われました。6日目には、次の日の分もとってよいとされました。しかし、多く集めて残しておくと、それは腐ったとあります。その日その日の分を与えられて、その日を生きるということです。明日のことは、全て主に委ねるのです。もちろん、貯金することは大事なことではあります。しかし、人生そのものについて考えるときに、明日について確実な約束はありません。病気か、事故か、生死さえ明日については分かりません。貯金は悪くありませんが、それだけでは、人生そのものが大丈夫ということにはならないのです。神に頼るという訓練、「神が私たちを養う」ということを心においておくということです。

7日目は安息日で、働かなくても良い日です。1週間に一度休もうというのは、ここが始まりです。十戒、シナイ契約の原形です。週に一回は仕事を離れ、神を思い、全てのことをおいておく日とするということです。神は、民に実際にそれをさせて覚えさせています。ある医者の論文によれば、7日に1日休むことが、体には一番良いとのことです。昔日本では、30日に1日、良くても10日で1回、あるいは休みなど無いということもあったのです。西暦が入ってきてから日曜休みが定着するようになりました。それは体に良いということもありますが、もう一つの大事な目的は、「神を覚えるため」です。

この日、と決めておくことは大事です。そうでなければ忘れてしまうからです。この日に母に会いに行くのだと決めておかないことには、自分は、あれほど私を愛してくれた大切な母に会いに行くことを忘れてしまいます。人間とはそういうものです。1週間に1回、神に出会い、忘れないでいこうということ、それをここでは主ご自身が教えているのです。

13節、各自食べる分だけ集めるようにとあります。人間は、備蓄に安心します。他の動物は備蓄をすることはありません。今の分だけ食べます。それは、人間が罪人だからといえます。自分の力だけに頼ろうとするがゆえです。私たちが健全であるなら、すなわち、礼拝を大切にしていくなら、人生はそれだけで変わります。今は分からないかもしれませんが、礼拝にとにかく来てみることです。最初は分からなくても、そのうちに、それがどれだけ深いものかが分かってきます。

ユダヤ人は、現代においても、とても強い民族です。その能力を生かし、様々な分野で大変活躍しています。歴史的には、迫害を何度も受けてきましたが、しかし強いのです。それは、1週間に1度、神から頂く恵みの時をもつという決断をしているからです。神は、祝福を私たちが受けるために、私たちを訓練してくださいます。

礼拝では、寝てしまうかもしれません。それでもOKです。ここに呼ばれたこと、主に心を向けていることが大切なのです。その中で祝福を受けていきます。「集まることをやめないで」と聖書にはありますから、ここから、始まるのです。

33節、モーセは1オメルのマナを保存しました。それは、後世に伝えるためでした。子供たちに私たちの宝を伝えます。その宝とは、「生き方」といえます。心理学でこんな実験があるそうです。何万人と働くようなある大きな仕事場で、1人の人が抜けるとどんな影響があるのか調べたのです。私たちは、自分1人くらい抜けても何も変わらないと思っています。ところが、何万分かの1であるその人が抜けただけで、全てに影響があり、全体が変わっていくというのです。1人が変わったら、全てが変わっていきます。その影響は大きいのです。次の代に、そのような「生き方」を伝えていくなら、どんなに世の中が変わっていくでしょうか。

「神の試み」すぐには、よく分からないかもしれません。しかし、やってみることです。ユダヤ人は、それを何千年と続けています。この1時間で、何かが変わっていくはずです。



2009年5月17日日曜日

契約が与えられて生きる(出エジプト10)

第10回 出エジプト記 15章22~27節(2009年5月3日)

「契約が与えられて生きる」

***葦の海から旅立った民は、荒れ野を三日間進んだが、水が無かった。マラに着いたがそこの水は苦くて飲むことが出来ず、民は「何を飲んだらいいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水は甘くなった。***


民はマラという場所にやってきました。そこでは、水が苦くて不平を言ったとあります。つい先日まで、神の素晴らしい業を目の当たりにした民です。海が分かれて、渇いた地を歩くという、信じられないようなことを経験したのです。自分達は助けられ、エジプト軍は海の藻屑と消えていきました。この経験を通して、神によって守られるということを分かったはずの民でした。

しかし、現実にぶつかりました。水が無いのです。マラ、また葦の海の辺りは、湿地や川の水は飲むことの出来ない悪いものだったようです。生きていくために大切な水がないという現実。民は絶望しました。神様によって導かれているなら、とんとん拍子に上手く事が行っても良さそうなものなのに。今までは上手く行きました。だからこれからも上手くいくというのが大前提になっていたのです。

24節、民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った、とありますが、これには「どうしてくれるんだ」という強い意味があります。そこでモーセが主に叫ぶと、主はある木を示されたとあります。フロリダやペルーには、水を浄化する植物が実際にあるそうです。備長炭などもそうですね。その木を水に沈めると、水が甘くなったというのです。

水が無いということは、確かに死を意味するでしょう。しかし、砂や石を使って水を浄化する方法があるということは、この当時既に知られていました。なのに、彼らはパニックになってしまったのです。今の、豚インフルエンザについてもそうです。そのことしか見えず、他の角度で見ることが出来なくなってしまうのです。神の契約を疑うようになります。「本当に守ってくれるのか?」といいたくなってしまうのです。

25節、神は、もう一度契約を民と結びます。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」 何かをしないと罰を与える、というものではありません。この契約は、一方的に祝福を与えるというものです。

人同士の契約には、種類があります。一つは双務契約。お互いが義務を負う、Give&Takeの関係です。もう一つは、片務契約といい、片方が一方的に義務を持つものです。相続などがそれで、相続させる方のみその義務を持っています。神の契約とは、この片務契約です。しかし私たちは、契約といわれると全て双務契約と考えてしまいます。

結婚を含め、人間関係を全てGive&Takeで考えます。人間同士の契約としては、そういうものになってしまうと思います。しかし、聖書的に言うなら、夫婦は片務契約なのです。片方が一方的に義務を持ちます。夫婦だけでなく、親子関係もそうです。双方の、片務契約です。何かをやったからではなく、~であっても愛する、というお互いの片務j契約で成り立つものなのです。

双務契約で人間関係を捉えるとき、ダメになっていきます。この時、民たちは信仰をそのように考えていたのではないでしょうか。神が自分達のために働いてくれるのは当たり前だという発想だったのかもしれません。しかし、あなたがどんなものであれ、愛し、助ける。正しい道をわたしは示す、だから諦めるな、と神は言われるのです。

一方で、私たちは、神が何をなさろうと、愛するということです。神の導きに、一方的に身をおくのです。そして、神も、私たちがどうあろうとも愛してくださいます。片務契約で関係を捉えることが、最大の平和、最大の愛です。全ての人間関係において、何かをしたから、やってもらって当たり前という考え方は、神の示す愛ではありません。

27節、エリム(安らぎの地)につきました。そこには12の泉があったとありますが、12とは完全数で、本当の平安を意味しています。神の契約は、一方的な愛です。私たちがどのような問題があろうとも、愛して下さる神を信頼するとき、平安に歩んでいくことができるのです。


2009年4月23日木曜日

主の喜ばれることを(出エジプト9)

第9回 出エジプト記15章1~21節(2009年3月8日)

「主の喜ばれることを」

***モーセとイスラエル人は主に向かってこの歌を歌った。アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手にとり、女達もタンバリンを持って踊りながら彼女について出てきた。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」***


ミリアムとは、モーセの姉です。ここは、出エジプトの中ではとても詞的であり美しい箇所といえます。とんでもないと思えるような神の業を目の当たりにし、溢れんばかりの感動に満たされている様子が伝わってきます。しかし、出エジプト全体から見るなら、この直後にイスラエルは神に対して文句を言いつづけるという現実があります。

イスラエルの何が問題だったのか?それを考えるのはいいことかもしれませんが、むしろ私たちはそれをどう捉えるべきかを考えていきたいと思います。

葦の海とは「紅海」のことです。エジプト軍から逃れたイスラエル人たちが、紅海の渇いた地面を渡り、岸辺に上がったと同時に海の水が戻って、多くのエジプト人が死に絶えました。それを確認の意味でもう一度記述しながら即興の歌を歌っています。タンバリンをもって、踊りながら、大変な喜びを見せています。助けられたこと、救われたことが土台であり、その中心は「神は偉大」という言葉です。

ある学者は、この箇所を1~6節、7~11節、12~16節の3つに分け、17,18節はエピローグだと主張します。それぞれ特徴があるからです。1つ1つに比喩やテーマが見えます。1つ目は、パロに対する神の圧倒的な力、優位性、強さです。2つ目は、自然や敵に対する支配性、そして3つ目は主の御手の大きさと聖なる方であること。統一しているのは、神はなんと偉大で、自然やあらゆる問題を支配し、聖い方であるかということです。それは、日本人の持ってきた信仰感とは違います。

日本人は、「問題が良きに変えられますように」と願い、その問題が解決した時には「ああ良かった」となり、どんな場合も中心にあるのは自分です。罪とは自己中心のことを指しますが、アダムとエバが善悪の実を食べた結果です。自分にとって都合がいいかどうかがテーマなのです。

出エジプト記に見るようなユダヤ人のリーダーたちにしても、新約聖書のリーダーたちにしても、どんな祈りを捧げているかを見るときに分かります。彼らはいつも、「神は偉大な方、全知全能」というところに持っていくのです。神が全能であるから、全てを解決してくれると理解してよいでしょう。

身の上に起きた事柄について、いいことであるなら「万歳」、悪いことなら「神は一体何をしているのか」となるのが日本人ではないでしょうか。今ある現状について、良いか悪いかではなく、ここに働く神の力を見ようとすること。それが今日のところに出てくるのです。

民はこれから成長していきます。この賛歌は神によって与えられ、神が語らせて下さいました。それは、単なる「助かって良かった」ということではなく、「神はなんと素晴らしい方なのか」というところです。

16節、「買いとられた」とは「贖われた」の意味です。贖(あがな)いとは、契約に基づく行為です。神が約束に基づいて、それに従い、民を買いとられたのです。それは奴隷から救い出すという意味であり、また、神のものとしたからにはずっと大事にするよという意味もあります。

ここで突然出てきたような話ではありません。長い歴史の中、アブラハムの頃より神と人間との契約があり、それは更新されてきたのです。「必ずあなたを救う」と。神の単なる気まぐれではなく、約束に基づいて成されたことでした。

3節、「主はいくさびと」とあります。これは神の戦いでした。詩篇など旧約聖書のいたるところに、万軍の主という表現が出てきます。神を「軍隊」としてとらえるのです。神は戦って下さっています。それは、私たちを取り戻すために。

私たちは神とつきあっているのです。結婚カウンセリングをするとき、お互いのどこが好きなのかという話になりますが、お互いのことなど何年つきあっても本当には分からないものです。しかし、つきあううちにどんどん分かっていきます。結婚は、全部分かった上でするものではありません。夫婦になって、少しずつ分かっていくのです。

神は、私たちを選び、奴隷状態から救い出された、そういうことを学ぶのです。イスラエルも少しずつ理解していきました。私たちは、相手がいい人か嫌な人かで決めて遮断してしまいます。どういうつきあいをしたらいいか分からないのが人間関係でも、相手がどういう人か理解していくことが大事です。

助かった、万歳!だけではなく、この方がどういう方なのか、その側面が見えたということ。そしてここから、いろんな試練が始まって行きます。その都度、神がどういう方か更に分かっていくのです。

もう一つの側面は、私たち自身が神の戦いに参加していけるということです。神の戦いであるということは、自分が中心ではありません。「あなたの人生をわたしが戦う」と神が言われるのです。それに私たちが参加するのです。神が困難も喜びも成し遂げられます。人間関係はある意味戦いです。しかしそれも神が成し遂げてくださるのです。

この世では、おまえが自分で考えて何とかしろと言われます。しかし神の戦いなのですから、人生の主役は神です。人間関係に悩むとき、どうして聖書の言葉を守れないのか、だから上手く行かないと思うことがあるかもしれません、しかし本質は、どうやったらそれを守れるかではなく、どうしたら主が喜ばれるかです。

「律法が守れない」と相手や自分を裁きます。それは、皆さんが主役になっているからです。自分を疎外する相手をなぜ?と思い、裁きます。しかし神が主役であるなら、その主役を喜ばせるために、自分は何をしたら良いのかを考えられるのです。そして、裁くのではなく、探ることが出来るようになります。

律法をどう守らせるかを教えるより、それを守る喜びを教える方がいいに決まっています。その喜びを伝えることが教育です。ユダヤ人は、今日の箇所で、神は偉大であり人生の主役であることを表明しました。神は何を喜ぶかを考えること、それが私たちの人生を生き生きとさせるのです。

人生は確かに大変な重労働です。学ぶことも働くことも、生きることそのものが大変です。しかしそれは、自分が主役でなければならないと思っているからです。一歩引いて、神が主役であり、「神様、何か手伝うことがあったら行ってくださいくらい」の気持ちでいた方がいいのかもしれません。

神が成してくださる人生。また、「自分に何が出来るか」という姿勢。それがキリストの体である教会が成長するために大切なことです。キリスト者の人生は脇役に徹することです。神の脇役に徹することがどんなに素晴らしいことかということを学んで行きたいと願います。