2009年4月23日木曜日

主の喜ばれることを(出エジプト9)

第9回 出エジプト記15章1~21節(2009年3月8日)

「主の喜ばれることを」

***モーセとイスラエル人は主に向かってこの歌を歌った。アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手にとり、女達もタンバリンを持って踊りながら彼女について出てきた。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」***


ミリアムとは、モーセの姉です。ここは、出エジプトの中ではとても詞的であり美しい箇所といえます。とんでもないと思えるような神の業を目の当たりにし、溢れんばかりの感動に満たされている様子が伝わってきます。しかし、出エジプト全体から見るなら、この直後にイスラエルは神に対して文句を言いつづけるという現実があります。

イスラエルの何が問題だったのか?それを考えるのはいいことかもしれませんが、むしろ私たちはそれをどう捉えるべきかを考えていきたいと思います。

葦の海とは「紅海」のことです。エジプト軍から逃れたイスラエル人たちが、紅海の渇いた地面を渡り、岸辺に上がったと同時に海の水が戻って、多くのエジプト人が死に絶えました。それを確認の意味でもう一度記述しながら即興の歌を歌っています。タンバリンをもって、踊りながら、大変な喜びを見せています。助けられたこと、救われたことが土台であり、その中心は「神は偉大」という言葉です。

ある学者は、この箇所を1~6節、7~11節、12~16節の3つに分け、17,18節はエピローグだと主張します。それぞれ特徴があるからです。1つ1つに比喩やテーマが見えます。1つ目は、パロに対する神の圧倒的な力、優位性、強さです。2つ目は、自然や敵に対する支配性、そして3つ目は主の御手の大きさと聖なる方であること。統一しているのは、神はなんと偉大で、自然やあらゆる問題を支配し、聖い方であるかということです。それは、日本人の持ってきた信仰感とは違います。

日本人は、「問題が良きに変えられますように」と願い、その問題が解決した時には「ああ良かった」となり、どんな場合も中心にあるのは自分です。罪とは自己中心のことを指しますが、アダムとエバが善悪の実を食べた結果です。自分にとって都合がいいかどうかがテーマなのです。

出エジプト記に見るようなユダヤ人のリーダーたちにしても、新約聖書のリーダーたちにしても、どんな祈りを捧げているかを見るときに分かります。彼らはいつも、「神は偉大な方、全知全能」というところに持っていくのです。神が全能であるから、全てを解決してくれると理解してよいでしょう。

身の上に起きた事柄について、いいことであるなら「万歳」、悪いことなら「神は一体何をしているのか」となるのが日本人ではないでしょうか。今ある現状について、良いか悪いかではなく、ここに働く神の力を見ようとすること。それが今日のところに出てくるのです。

民はこれから成長していきます。この賛歌は神によって与えられ、神が語らせて下さいました。それは、単なる「助かって良かった」ということではなく、「神はなんと素晴らしい方なのか」というところです。

16節、「買いとられた」とは「贖われた」の意味です。贖(あがな)いとは、契約に基づく行為です。神が約束に基づいて、それに従い、民を買いとられたのです。それは奴隷から救い出すという意味であり、また、神のものとしたからにはずっと大事にするよという意味もあります。

ここで突然出てきたような話ではありません。長い歴史の中、アブラハムの頃より神と人間との契約があり、それは更新されてきたのです。「必ずあなたを救う」と。神の単なる気まぐれではなく、約束に基づいて成されたことでした。

3節、「主はいくさびと」とあります。これは神の戦いでした。詩篇など旧約聖書のいたるところに、万軍の主という表現が出てきます。神を「軍隊」としてとらえるのです。神は戦って下さっています。それは、私たちを取り戻すために。

私たちは神とつきあっているのです。結婚カウンセリングをするとき、お互いのどこが好きなのかという話になりますが、お互いのことなど何年つきあっても本当には分からないものです。しかし、つきあううちにどんどん分かっていきます。結婚は、全部分かった上でするものではありません。夫婦になって、少しずつ分かっていくのです。

神は、私たちを選び、奴隷状態から救い出された、そういうことを学ぶのです。イスラエルも少しずつ理解していきました。私たちは、相手がいい人か嫌な人かで決めて遮断してしまいます。どういうつきあいをしたらいいか分からないのが人間関係でも、相手がどういう人か理解していくことが大事です。

助かった、万歳!だけではなく、この方がどういう方なのか、その側面が見えたということ。そしてここから、いろんな試練が始まって行きます。その都度、神がどういう方か更に分かっていくのです。

もう一つの側面は、私たち自身が神の戦いに参加していけるということです。神の戦いであるということは、自分が中心ではありません。「あなたの人生をわたしが戦う」と神が言われるのです。それに私たちが参加するのです。神が困難も喜びも成し遂げられます。人間関係はある意味戦いです。しかしそれも神が成し遂げてくださるのです。

この世では、おまえが自分で考えて何とかしろと言われます。しかし神の戦いなのですから、人生の主役は神です。人間関係に悩むとき、どうして聖書の言葉を守れないのか、だから上手く行かないと思うことがあるかもしれません、しかし本質は、どうやったらそれを守れるかではなく、どうしたら主が喜ばれるかです。

「律法が守れない」と相手や自分を裁きます。それは、皆さんが主役になっているからです。自分を疎外する相手をなぜ?と思い、裁きます。しかし神が主役であるなら、その主役を喜ばせるために、自分は何をしたら良いのかを考えられるのです。そして、裁くのではなく、探ることが出来るようになります。

律法をどう守らせるかを教えるより、それを守る喜びを教える方がいいに決まっています。その喜びを伝えることが教育です。ユダヤ人は、今日の箇所で、神は偉大であり人生の主役であることを表明しました。神は何を喜ぶかを考えること、それが私たちの人生を生き生きとさせるのです。

人生は確かに大変な重労働です。学ぶことも働くことも、生きることそのものが大変です。しかしそれは、自分が主役でなければならないと思っているからです。一歩引いて、神が主役であり、「神様、何か手伝うことがあったら行ってくださいくらい」の気持ちでいた方がいいのかもしれません。

神が成してくださる人生。また、「自分に何が出来るか」という姿勢。それがキリストの体である教会が成長するために大切なことです。キリスト者の人生は脇役に徹することです。神の脇役に徹することがどんなに素晴らしいことかということを学んで行きたいと願います。


2009年3月7日土曜日

困難は主の戦い(出エジプト8)

第8回 出エジプト記14章1~31節(2009年3月1日)

「困難は主の戦い」

***イスラエル人が逃げたことを知らされるとパロは考えを変え、軍勢を率いて彼らを追跡した。臆することなく出て行ったイスラエルだったが、エジプト軍が迫っているのを見て彼らは非常に恐れ、主に叫んだ。モーセが杖を上げ、手を海の上にさし伸ばすと、海が分かれ、海の真中の乾いた地をイスラエル人が進んでいくことが出来た。エジプト人は追いかけてきて海に入ったが、主は水がエジプト軍の上に返る様にされ、残されたものは誰もいなかった。***


とても有名な箇所です。映画「十戒」を観た人なら、その場面を思い浮かべることが出来るでしょう。解放されたばかりの奴隷たちは、どんな思いで旅の始まりを迎えたのでしょうか。「主はモーセに告げて」と、何度も出てきます。いつも主が語って下さり、モーセに告げて仰せられました。あなたの判断でやれ、とは殆ど言われませんでした。

語ってくださることをどう聞くか、が私たちの姿勢です。その中でいろいろ考えるのです。主は私たちに理由やチャレンジを与え、その中で考え、行動せよと言っているのです。

2節、主は民に引き返して、海辺で宿営せよと言われました。なぜでしょうか?3、4節、イスラエル人が道に迷っているとパロが思い、彼が民の後を追えば、パロとその全軍勢を通して主が栄光を現し、エジプトは主を知るようになる、というのです。8節、イスラエルは臆することなく出て行きました。それは、ここに至るまでに、パロに対しての神の力を繰り返し見てきたからです。エジプト全土で初子の命が取られる中でもイスラエルが救われるのを目の当たりにして、神がおられ、自分たちを導かれることを確信していました。

しかし、10節。その確信は一転、非常に恐れた、とあります。私たちも、安心して日々を送っていても、何かの拍子に急に不安に陥るということがあります。絶えずゆらゆらしており、信仰とは何かと思うでしょう。この時、そのゆれ幅は大きくゆれているように見えますが、神に向かってだんだん小さくなっていきます。もし全く揺れないとしたら、それは「洗脳」です。私たちは罪人なので、揺れるのは当たり前のことなのです。自転車のハンドルは揺らした方がいいといいます。状況にあわせながら、神を中心にして揺れている間は前に進むのです。諦めてしまったり、人間がやることが全てなのだと思うなら、倒れてしまいます。

恐れに満たされた民は、言わなくてもいいことを言ってしまいます。11節、「エジプトには墓がないのであなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか」言葉で神とリーダーであるモーセを呪っています。これは責任転嫁です。しかしこれは、まだ彼らが成長してないからなのだと理解できます。

エジプトを脱出したのは、彼ら自身が決断によるものです。それを認めなければいけません。しかし責任転嫁をする。これは成長の段階です。このような場合、神と格闘し、祈ったら良いのです。主の怒りを買うこともありますが、私たちは出エジプトのどこも非難できません。それは、この中で民が確実に成長しているからです。

12節、エジプトにいた方が良かったと民は言います。その民に向かってモーセは、あなたがたのために行われる主の救いを見よと言います。これは、1つ目の訓練です。私たちの心がざわつくとき、「恐れてはいけない」という神のことばを合言葉にしたいと思います。アブラハム、モーセ、そしてヨシュアにも主がそのように語ったではないかと思い出すのです。

2つ目は、「主があなた方のために戦われる」ということです。ダビデがゴリアテと戦ったとき、それは神の戦いだとして戦い勝利を収めました。主が守られるのです。今の困難は神が戦ってくださる戦いなのです。

3つ目、「だからだまっていなければいけない」ということです。言いたいことを言っていいのです。主は何でも聞いてくださいます。しかし、どこかで黙る訓練も必要です。「黙って待つ」ことも教えて下さいます。

エジプト軍の戦車600台。もし、60進法を用いていたとしたら60は完全数ということになり、莫大な数という意味になります。世界で最も強い軍隊であるエジプト軍が、編隊を組んで追ってきた。イスラエルは絶望しますが、それと共に神の言葉が与えられました。現実は絶望的に見え、その状態が変わることは絶対にないように見えます。しかし、神の言葉はたしかにあるのです。現実だけがあるのなら、私たちは諦めてしまうか、自暴自棄になって犯罪を犯すかでしょう。しかしそこに神の言葉があるから、迷うことが出来ます。

「なぜ叫ぶのか、前進するように言え」と主は言われ、民は海の中を進めというのです。現実は変わらない。迷う。しかし、神の方向へ進めといわれたのです。「神が栄光を現すのを見るだろう」という言葉のみがあるだけでした。そこには決断しかありませんでした。

人生は決断の連続です。バプテスマを決断するということもそうです。現実を見、神の言葉に信頼して歩んでいくとき、主の確かな守りに気付いていきます。

Wet&Dryという言葉があります。不安でどうしようもないという時は、先を見ない方がいいのです。詩篇103篇では、未来を見るより過去を見ようと言っています。過去に主が何をして下さったか、どんなに良くしてくださったかを思い返すのです。たくさんの恵みと祝福を思い出し、落ち着くことができます。

Wetとは現実の雨です。一旦家の中に入って乾かして、また出て行くのです。乾かして落ち着いて、また準備をしましょう。未来のことばかりではなく、過去のことを思い返すときに、それは私たちの力になります。

全てのことは、神の栄光が現される方向で動いていきます。迷い苦しむ中、主の良くして下さったことを思い出して、改めて出て行くとき、そこに主は栄光を現されます。25節、「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられる」エジプトはイスラエルに勝てるわけがないと知りました。その艱難は、人でしょうか、環境でしょうか。物でしょうか。何であれ、それとの戦いは、背後におられる神が戦っておられるのです。神がそこに働いたと分かるということ、それが栄光を現すの意味です。私たちは主の栄光を現すための器です。

豊田みのり教会は、この地で6年間の開拓伝道を行ってきましたが、それはもう感謝以外にない6年間でした。人々が、みのり教会を通して、神の業を見てくださったこと知る時に大きな感動を覚えます。私たちが生活していくだけで、周りの人々に神を感じてもらえるようになっていくのです。

30節、「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」どんな気持ちで民はそれを見たのでしょう。まさか、ざまあみろというような気持ちでは無かったでしょう。エジプトが神をもっと早く知っていたら、こんな失敗はしなかったろうに。私たちはこうならないようにしよう。そのように思ったのではないでしょうか。これは、ざまあみろというようなレベルの事柄ではありません。ここから私たちは、どのように主の栄光を現すかということを学んでいくのです。


主は力強く私たちを導かれる(出エジプト7)

第7回 出エジプト記13章1~22節(2009年2月22日)

「主は力強く私たちを導かれる」


***主はモーセに告げて仰せられ、モーセは民に言った。「イスラエルで生まれる初子は人であれ家畜であれ、主のために聖別せよ。」「奴隷の家であるエジプトから出てきたこの日を覚えていなさい。この月に、種を入れないパンを食べて、主が私たちにしてくださったことを覚え、後にそれを息子に説明しなさい。主が力強い御手であなたをエジプトから連れ出されたからである」***



エジプトを出る、準備の時を迎えています。私たちは、学年が新しくなったり、就職や進学、新年度を迎えるときにどんな助言が欲しいと願うでしょうか。毎朝、一日が始まる時に、一番最初に聞きたい言葉は何でしょうか。それは、「大丈夫だよ」という言葉ではないでしょうか。また、私たちは、結論を聞きたいと思うのではないでしょうか。

2節、神がモーセに告げられます。40年続く旅の最初に語られた神の言葉。それは、「あなたがたの初子を聖別せよ」ということでした。最初に生まれたものは家畜でも人の子でも、聖別、つまり捧げなさいということです。それは、「神のものとして歩んでいきましょう」ということです。

9節「主が力強い御手で、あなたがたをエジプトから連れ出されたからである」このフレーズは何回も出てきます。力強い御手が既に準備されている。だから大切なのは、その神に頼ることだということです。せっかく力強い御手があっても、それに頼らないなら全く意味がなく何にもなりません。

「初子を捧げる」とは、その表明です。神を信じる決断として、その子を見るたびに、神にこの子を捧げたと思い出すためです。神の導きを信じ、その御用のために用いてやってください、この地上において、神のため人のために仕える人としてください、ということです。

信じるという行為、それは、自分の表明をしなければなりません。その決断、表明に対して、大きな祝福と憐れみを受けるのです。一般的にも、一つの決断をしたなら、これをします、と表明します。ここでは、「捧げることを覚えよ」といわれているのです。

決して強制ではありませんが、例えば礼拝で捧げられる献金について。収入が入ったら、一番最初に献金をそこから取り分けること。初子とはそういう意味です。また、1週間のうち日曜は礼拝の日として捧げること。これも一つの決断です。それら一つ一つの決断を確認するため、この準備の時に、「初子を捧げよ」と神は仰せられたのです。それは、信じ続けるという点でとても大切なことです。

ノアの洪水が起こったとき、神は契約のしるしとして虹を示されました。虹を見るたび、主の約束を私たちが思い起こすためです。今、旅の準備をするにあたって、神を信じるためにイスラエル人たちがやるべきことを主は示されたのです。それを見るたびに思い出すためにです。今の私たちでいうなら、それは献金であり、日曜に礼拝を捧げることにあたります。

そして主は、順序を与えられました。17節、神が導かれた道すじについて書かれています。地図をみると分かりますが、カナンに向かうには通常3本の道があり、いずれもとられませんでした。川沿いか、内陸を通ってか、南へ下るか。神の示された道は全く違う道でした。それは、民がエジプトに引き返すといけないからです。海沿いには、エジプトの要塞、関所のようなものがあり、兵隊が多く駐在していました。長いこと奴隷だった彼らには、エジプトと戦う力はありません。何も教えてもらっていないからです。戦い方も、統制の知恵もありません。また精神的にも弱かったのです。

教育には時間がかかります。その成長の過程で、焦ってはなりません。信仰をもった後の自分の人生を見るときに、せっかく聖書に出会ったのに全く成長できていないではないか、と思う必要は無いのです。クリスチャンでなかったときは、奴隷状態でした。自分はダメな人間だと思い込み、そういう価値観でがんじがらめになっていたのです。今、そこから解き放たれて、自分自身を神の作品として見つめ、自分だけの人生を生きることが出来るようになったのです。「なのに、なぜ夫婦喧嘩ばかりしているのか・・・」などと思うかもしれません。しかし、まだ出始めです。ようやくこれから解放への道へと歩きだしたところです。もし劣等感がよぎったとしたら、「昔の自分はそうだった」と思えばいいのです。今からは違います。エジプトから出たのですから。

神の業が始まるとき、準備があり、順序があります。多治見にはカトリックの修道院がありますが、宣教200年計画というものがあるそうです。それくらい長い目で見ることも大切です。私たちは少しずつ成長していきます。最後に完成しますが、今の段階ではまだ見えていません。しかし、聖書の中の預言によって、それは約束されているのです。

14節、後になって子供たちに尋ねられたらこのように言え、とあります。「どうして教会に行ってたの。どうして信仰もったの」と子供たちに聞かれたら、「神は力強い御手で精神的霊的に奴隷だった私を連れだして解放したのだ」と子供たちに伝えるのです。まだ、ここでは、経験していないことです。しかし、約束されているのです。だから大丈夫、歩き続けなさいと主は言われます。それが、この恵みに与る一歩一歩になるのです。

26節、具体的な例として、雲の柱、火の柱のことが書かれています。今の私たちにとっては、教会であり、礼拝、祈りであります。小さな祈りで良いのです。これを与えて下さったと確認し、今日も使命を頂いていると確認、そして今日も守ってくださったと確認する、それが雲の柱、火の柱です。イスラエルがみことばに1つになっていったように、私たちも今日あたえられた御言葉「力強い御手で導かれた」を心に留めて歩み、将来子供たちにも伝えていきましょう。


2009年2月13日金曜日

主の与えられる裁き(出エジプト6)

第6回目 出エジプト記11章1~10節(2009年2月8日)

「主の与えられる裁き」


***ナイル川を血に、カエル、ブヨ、アブを大量発生させる、家畜の疫病・・・ここまで主は9つの災いをエジプトに対し行ってきた。あいも変わらず頑ななパロに対して最後の災いを行われる。エジプトの初子は、王の初子から家畜の初子に至るまでみな死ぬと主は仰せられた。***


10番目の災い、それは、王の子から家畜の子にいたるまで、最初に生まれたエジプト人の子供の命をとってしまうというものでした。この事件が、ユダヤ人がエジプトを出て行く分岐点となります。

9つの災いについては、エジプトの季節にあわせた順番に起こったのではないかという学者がいます。ナイルに藻が発生する季節だったのではないか、また、11月には雹が降ったということが実際にあることなどからそう言われます。主はそのようにして、自然のなりゆきを用いつつも、エジプト人に対して警告を行ったのです。

今までの災いは、モーセとアロンの杖を用いて成されました。しかし今回は違います。神ご自身が出て行って、エジプトの初子の命を絶つということをされたのです。

モーセの杖が蛇になった。しかし、エジプトの呪術師も同じことが出来ました。しかしそれは、途中までのことです。ある時点以降は、そんな不思議合戦も出来なくなって行き、エジプト人たちはだんだん追い込まれていきました。この、追い込まれていく順番にも意味があります。

アニミズムといって、岩、木、など自然のどこにも力が宿っているという概念があります。それが神とされ、いつしか神の顔が出来、人格神となっていく。その一つ一つである、カエルやブヨを断罪していったのです。これは、人間の愚かさの一つです。何か不思議なことがあると、それを神に仕立て上げ、その顔色を伺いながら生きていこうとするのです。

10番目の裁きは決定的でした。主自ら出て行ってそれをされたのです。9番目までは、警告でした。私たちは、トヨタなど企業のことを含め、今の時代の中に「警告」を読み取らなければなりません。エジプトの繁栄のさなか、奴隷であるユダヤ人たちが突然いなくなるなどということを、エジプト人たちは考えたことがあったでしょうか。突然、200万以上の奴隷達が一挙にいなくなって、一体エジプトの経済はこれからどうなるのかと思ったのではないでしょうか。

主の警告。それは既に起きており、結果は必ず出ます。つい先日、カトリック司祭の猥褻事件がありました。仏教のお坊さんもそういった事件を起こしたことがありますが、「なんだ、キリスト教も同じか」と思われるかもしれません。実際、プロテスタント教会でも、大変なことが起こっています。

日本での「弟子訓練」第一人者である、Bという韓国人宣教師がいます。現在、彼の、女性信徒への猥褻疑惑でキリスト教メディアを騒がせているという、大変情けない事件が起こっています。10年前、ある集会で彼の講演を聞きました。Bは言いました。「教会形成のためには、牧師のために死ねる信徒を作らなければならない」そのフレーズは、講演会の中で何度も出てきました。当時神学生だった私は、質疑応答の際に、「牧師のためにではなく、イエス様のために、の間違いではないでしょうか」と聞きましたが、ひどく反論され、説教をされたものです。

既に結果が出ています。ここに至るまでに、警告は何度も与えられてきたはずです。おかしいものはおかしいと気付いた人たちがいたでしょう。彼の事件は、私たちの責任でもあります。何故止められなかったのかと考えると、涙が出るほどイライラし、夜眠ることも出来ないほどです。相談できる人はいなかったのでしょうか。教会の信徒たちは皆、「B様、B様」といって、カルトを作ってしまったのです。これが、日本の教会全体にとって、どんなに負となっているか。私たちも悔い改めなければなりません。

出エジプトに戻ります。ここまで見ると、パロとモーセだけの関係のように見えますが、エジプト人とユダヤ人に対しての主からの警告であると分かります。パロは、何故それを理解できなかったのでしょう。今の経済状況も同じです。こうなるまでに、警告があったはずです。つまり、私たちの責任もあるということです。企業のために、国家のために、上司のために、私たちはもっと祈るべきでした。

神を畏れないことへの警告。悔い改めと反省は違います。悔いて涙し、神の方向を向いて戻るときに、赦されます。そしてそのチャンスはいつでも与えられているのです。パロはここで悔い改めるべきでした。

3節、エジプトの家臣たちは、この艱難の中でモーセを理解し始め、好意をもつようになっていたようです。パロのみ、聞く耳を持っていませんでした。神の言葉を聞こうと思うとき、教会や家族のことを省みて振り返るべきであることに気付きます。そして自分は、本当にそれらのことを理解していたかと省みるのです。

「何故こんなことになってしまったのか」パロにとっては最後のチャンスでした。主による断罪の中、ユダヤ人たちは約束の地へ向かって旅立ちます。一方パロたちには、絶命という悲惨な最期が待っていました。真実な悔い改めがあるなら、主は必ず赦してくださいます。前提として完全な赦しがあり、私たちがどのようにあるべきかを知ることが出来ます。

ここは、出エジプトの最大の山場です。今は隠されていても、その大きな罪はいつか必ず明るみに出され、社会をズタズタにします。しかし、主は、赦しの御手をもって、いつも待っていて下さっています。これを伝えていくことが、どんなに大切でしょうか。

イエスの十字架の意味が、出エジプトにも大きく係わっています。社会を見つめ、自分を見つめる。クリスチャンとして見つめ、個人として見つめ、悔い改めるべきことを悔い改めるなら、変わります。一人一人が変わっていき、そして、企業の上の方の人々にも伝わっていくでしょう。どんな小さなことでも食いあらめる姿勢をもって歩んでいきましょう。そうするなら、この社会が変わっていくのです。


2009年2月5日木曜日

主の守りを知らない民(出エジプト5)

第5回目 出エジプト記7章1~25節(2009年2月1日)

「主の守りを知らない民」


***主は、パロに、イスラエル人をエジプトから出て行かせるように告げるよう、モーセに仰せられた。また、パロの心をかたくなにし、しるしと不思議を多く行うとも言われた。その言葉どおり、主による様々なしるしが行われたが、パロの心はかたくなで、モーセらの言うことを聞き入れなかった。***


エジプトを脱出する前のところです。神は、モーセとアロンを用いて、パロに対してユダヤ人解放に至るための第1の災いを起こしました。(災いという言葉をここで使うのは抵抗がありますが、今日はそこには触れないでおきます)

出エジプトに至るまでに、10の災いが国を襲います。その1つめ、ナイル川が血になったというところです。これに続いてこの後に、カエル、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、雹、いなご・・・と、災いが続いて行きます。

パロ王の下でユダヤ人は奴隷の民としての扱いを受けていました。そこに、神が、民をエジプトから脱出させ、約束の地カナンへ連れて行くというのです。パロの心は揺らいだことでしょう。彼にとって、奴隷は財産です。奴隷は、エジプトの経済活動そのものを担っていました。

10節、モーセが主の言われたとおり、杖をパロと家臣たちの前に投げると、それは蛇になりました。しかし、同じことを、エジプトの呪術師たちもやってのけたために、「だから何だ」とパロは心を開きませんでした。そこで主は、ナイル川を血に変えてしまいました。本当の血だったのかという疑問もあります。赤潮だったのではないか、または赤色の藻が大発生したのでは、という説もあります。いずれにせよ、真っ赤に染まったナイル川のために大変困った状態になり、パロの心は揺らぎます。この先行われる災いに耐えかね「もうたくさんだ、出て行け」といいますが、その災難が無くなると、また頑なになるという繰り返しでした。

ところで、この場面を、現場ではなく、違う角度で見てみましょう。10の災いが起こっているとき、神の伝達訳としてモーセとアロンがパロと対峙しています。この時、民たちにフォーカスしてみたとしたらどうでしょうか。この間も、民たちは生きています。彼らの思いはどうだったのでしょう。聖書には出てこないので推測しか出来ません。民たちには全く知られないところで、モーセとアロンが死を覚悟でパロと対決していたのかもしれません。

モーセとアロンは、この時まだそんなに強くはありませんでした。パロに殺されても仕方が無い状況の中、「神がおっしゃることだから」それを告げたのです。そして民はそれをどのように見ていたでしょう。彼らの働きによってかえって自分達の苦役が増し加わり、モーセたちは民に疎まれ、あまり推挙されるということはなかったのではないでしょうか。

モーセは、パロと民の両方からプレッシャーを掛けられていました。神に従うということは、こういうことになることがあるということです。モーセは神の言葉を伝え、実現しなければなりませんでした。神は、わざわざパロの心を頑なにされました。神が直接パロの心に語りかけられたとしたらどんなに簡単に事が済んだでしょう。しかし、これはモーセたちがリーダーになっていくための訓練の一つだったのです。

キリスト者は神の言葉を聞くものです。日本でクリスチャンは1%もいません。この社会を見、立場を見、その上で、神の言葉を聞き、どう生きるかが私たちには問われています。ある時は誤解を受け、無駄に思える努力をしなければいけない時もあるでしょう。キリスト者が聖書の言葉を頂いている存在だとしたら、モーセとアロンと同じような立場にあるとはいえないでしょうか。

そして、私たちは、同時に「民」の立場でもあります。昨日と変わらない生活を今日も普通に送り、モーセとアロンが何をしているか見ていません。しかし、エジプトに対する災いは、見て体験しています。エジプト全体に様々な災いが起きているが、自分たちの生活がそうそう大きな変化があるわけではない。しかし、主の導かれる方向に確実に向かっているのです。実際、この先に民たちはエジプトを出て、40年間の旅に入っていきますが、この時点では、何も分かってはいません。

私たちは、海外でパスポートを無くしたり強盗にあうなど、何か問題が起こったときに、日本大使館に行きます。それは、「日本人」だからです。本来、日本人だからという理由だけで、日本という国によって完璧に守られているのが私たちです。民法は、人と人の関係を扱うもの。刑法は、国が私を守るもの。そして、憲法は、国から私たちを守るもの。憲法によって、日本人であれば誰でも絶対に守るという保証がされているのです。

神の恵みは、これと同じです。人間として生まれた私たちは、その時点で完全に主の恵みに浸っているのです。それが分からなくて右往左往してしまうのです。御言葉、そして教会にかけこむとき、神の完全な守りに気付きます。それはクリスチャンになる前からそうです。守られているのに気付かないだけなのです。

民は、昨日も今日も同じ生活をしていますが、モーセによって確実に準備が成されていきました。今、100年に一度の経済危機といわれ、特にこの豊田の地は、多くの方からご心配を頂いていますが、私たちのために祈って下さっている多くの方々がいることを覚えたいと思います。祈りは積み上げられています。何もないように思えるかもしれませんが、私たちは恵みの中に浸りきっているのです。大変なことが始まっていると、ユダヤ人も思ったことでしょう。その時水面下では、主の働きが始まっていたことに気付き初めていたのではないでしょうか。

皆さん一人一人には、人生のプロになっていただきたいと思います。学習曲線というお話を先日しましたが、私という人生のプロになるのです。神にある生き方を学びつつ、私にしか出来ない人生を私がやるのです。モーセとアロンによる、何度かの交渉の末に、最後にパロが「ユダヤ人出て行け」と、出エジプトをするに至りました。気の弱い、小さな存在だったモーセですが、コツコツとやりつづけたことが大きな動きへと繋がったのです。

マイナス要因しか見えないかもしれません。しかし、今やるべきことをやりつづけましょう。大失敗のように見えたとしても、すでに働いている神のご計画があることを覚えて歩んでいくなら結果も与えられます。キリストにある生き方を学び、実践して行きましょう。


2009年1月31日土曜日

総力を用いて生きる(出エジプト4)

第4回目 出エジプト記4章10節~17節(2009年1月25日)

「総力を用いて生きる」


***エジプトに戻って民を導くよう主なる神が仰せられたのに対して、モーセは自分には力がないから他の人を遣わしてくださいと言った。しかし主は、「誰が人に口をつけたのか。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」と仰せられた。***


ユダヤ人にとって、「第1の預言者」と言われるモーセ。生まれてからの40年間エジプトの最高の教育を受け、その後の40年は、野の中に逃げて羊飼いとして生活しました。今やモーセは80歳になっています。そのモーセに、主なる神が、「エジプトに戻り、ユダヤ人たちを引き上げて来なさい」と言われたのです。

モーセは答えます。10節「ああ主よ、私はことばの人ではありません。口が重く、舌が重いのです」世の中には、弁舌の巧みな人もいれば、話ベタな人もいます。モーセは後者だったのです。だから、ユダヤ人を導き出すなど出来ないというわけです。

しかしこれは、おかしな応え方ではありませんか。ユダヤ人を導き出すということを、話上手でなければ出来ないことだという前提がモーセにあるので、こういう応え方になるのでしょう。

私たちは、何か起きたときに、すぐ反応します。自分の常識の中で、物事を判断するのです。「あなたが○○が上手いから、○○の技術が必要だから、それを練習して行け」、などと主は言っていません。「連れ出せ」の一言のみです。それに対してのモーセの応答は、「自分は言葉の人ではない」でした。

主は仰せられます。11節「誰が人に口をつけたのか。誰が口を聞けなくしたり、耳を聞こえなくしたり、あるいは目をあけたり、盲目にしたりするのか。それは、このわたし、主ではないか」

主は、「大丈夫、あなたは弁舌が巧みになる」と言われたのではありません。あなたを造ったのは誰だというのか。あなた以上にあなたを知っているのは、このわたしだ。口下手というのなら、言うべきことはわたしが教える(12節)といわれたのです。

モーセは、そこに劣等感を持っていたのでしょう。そこで抗弁するのです。「だって、○○が出来ません。」「○○にいたのですから」しかし、神は言われるのです。「わたしはあなたに、最高のものとして与えたはずである」と。そして、それを「使え」とは、一言も言われなかったのです。

生きるとは、総力戦です。私たちの身体は、目だけで仕事をしませんし、足だけでもしません。身体全体を使って、全てのことをしています。偏頭痛がどのように起きるのかを愛知医大の先生に聞いたことがあります。私たちの見ているものが、歩く度に揺れているとしたら気分が悪くなりますが、その上下運動を脳がパソコンのようにプログラミングし、いつも揺れないでいられるように制御されるため、まともに歩けるのだと。偏頭痛は、その機能が弱くなると起きるといわれました。私たちは歩くとき、足のみでなく、目、脳などフルに使って、その視点の位置を定め、バランスをとって、やっと一歩を踏み出せるというわけです。その1歩に、身体全体の総力をあげているのです。

200万人から250万人もの、奴隷の民。奴隷という身分の彼らには、アイデンティティはありません。どうせ俺達は・・と、全てを諦めてしまっている人々です。彼らを導いて一国を造ろうというのは、どれほど大変なことでしょうか。

国を造りあげるために、教育は大切です。万里の長城は、莫大な金と人夫によって造られましたが、番兵の教育を忘れました。そのためにやすやすと穴をあけられ、国が滅んでいきました。モーセはこの後、40年間、民を教育しつつカナンへ導くことになります。

13節、「どうか他の人を」と懇願するモーセに対し、主の怒りが燃え上がります。ここだけを見ても、モーセは「第1の預言者」と呼ばれるにふさわしい、神々しいひとでも偉大な人でもありません。でも、主は見捨てられませんでした。口達者でないことが自分のウィークポイントだと言うのなら、あなたの兄アロンがいるではないか、と言われます。

決して「アロンを遣わす」とは言われません。主が選んだのは、あくまでもモーセです。モーセに足りないところがあれば、アロンにと、しかもアロンはモーセの兄です。ここで、主の言葉が、「あなた」から「あなたがた」へと変わりました。

私たちは、才能が無いからといって嘆きます。才能が無いから出来ない、というのです。しかし、大切なことは「約束の地に入ること」です。そして、「私たちは」という主語を使うことです。

「私が」幸せになりたい、と言っている間は、決して幸せにはなれません。「私たちが」と、主語が変わるときに、結婚や家庭が上手くいくのです。モーセを選んだ主の言葉、「あなた」から「あなたがた」とその主語が変わったのは、「ユダヤ人全体」という意味です。この後、エジプトに戻ったモーセは、様々な戦い、葛藤の中におかれます。モーセの働きは、主とユダヤ人の取次ぎのようなものでした。そこに徹したのです。群れが群れとして生きていくとき、個人がどこに徹するかで、その群れが変わります。自分がどこに徹するのかは主によって語られ、教えられます。

250万人もの人々の、40年の荒野での旅が始まろうとしています。「私が」という主語ではなく、「私たちが」さらには、「あなたが」が多くなっていくことが大切です。それを学ぶためにモーセはリーダーにさせられ、人々をまとめて行きました。総力で生きる。私たちは、一人で生きるのではなく、交わりの中でどう生きるか、です。その視点に立ったときに、がんじがらめの価値観から解き放たれます。奴隷からの解放です。皆さん一人一人が、解き放たれて、生き生きと生きるということが「解放」なのです。


2009年1月26日月曜日

神のご計画を受ける(出エジプト3)

第3回目 出エジプト記3章1節~22節(2009年1月18日)

「神のご計画を受ける」


***ミデヤンの地で羊飼いとして生きていたモーセに主の使いが現れた。ホレブの山で、燃えているのに焼き尽きない柴の中から主がモーセを呼ばれ、モーセがこれからユダヤの民をエジプトから脱出させるために遣わすといわれた。***


100年の一度といわれる経済不況。それに過剰に反応して、真実が見えなくなるとしたら怖いことです。松下幸之助という人は、どんな不況下でも一人もクビにしなかったそうですが、今現在実際にあるのは、合理的な考えによる派遣切り、そして前に進もうとする企業の姿。しかし、本当は別の道、考え方があるのではないでしょうか?ある法則に従って、こういうことが起きたら会社がダメになる、この人は良くて、この人はダメだと、私たちは決め勝ちですが、それは進化論的発想が土台になっています。弱い人は自分の責任で死んでいってくださいと言っているようなものです。

出エジプトを読むとき、人間の弱さを見ます。登場する人物が何と弱いのか。モーセは殺されるべき赤ちゃんでした。それがなんと王女に拾われてエジプトの王子として育てられ、しかし殺人を犯し、ミデヤンに逃れました。この主人公が何と弱い存在かと思います。しかし神は見捨てませんでした。モーセは神と共に成長しました。あらゆる艱難を通り、「あの預言者モーセ」と現代のユダヤ人にもいわしめる存在となりました。

新約聖書に、乗り越えられない艱難は無いのだとありますが、出エジプトでもそれを見ることができます。40年エジプトという大都会で、最高の学問、文化文明を享受したモーセが、今度は40年間、大自然の中で羊飼いとして放牧の暮らしをしました。今日の箇所では、モーセは80歳になっています。ところでモーセの態度が、以前とは変わってきているのではないでしょうか。2節、主の声が柴の中からし、「あなたのくつを脱げ、ここは聖なる地である」と言われます。ユダヤでは、聖なるところでクツを脱ぐという文化がありました。クツを脱ぐとは従うという態度を示します。

裁き司のようだったモーセが、この40年の間に変わったのではないでしょうか。自然の中で、従わなければならないということを学ばされた。所謂いいとこのボンボンだった彼は、傲慢だったかもしれません。傲慢になるのは、自然の中で生きてこなかったからです。自然には何をもってしても勝つことが出来ません。かつてチェルノブイリで原発事故があった後、1万年または数万年、そこは死の世界となり命は育たないだろうと言われました。ところがあれから100年もたっていないのに、草が生え、自然が戻ってきているというのです。自然とは何と強く偉大でしょうか。

モーセはミデヤンでの40年の間に、徹底的に学ばされたのです。「従うべきこと」そして、エジプトにいた40年は、「従わせる」ことを学んだのかもしれません。どちらも、リーダーとして学ぶべき大事なことです。私たちは、親として子を従わせなければならないのと同時に、会社では従わなければならないからです。従うことを学ぶのは、同時に従わせることを学ぶことでもあります。

6節から、主は、自分が誰であるかをモーセに話して聞かせます。また、モーセが捨ててきたユダヤの同胞たちを自分はずっと見ているよと言われたのです。モーセはどんな気持ちだったでしょう。自分を受け入れなかったユダヤ人を恨んでいたかもしれません。また、ミデヤンでゆっくりと余生を送りたかったかもしれません。しかし、苦しむ同胞を導くために、あなたを選んで遣わすと主は言われるのです。

モーセは40年間、神を忘れたわけではありませんでした。しかし、最悪な状況のなか、命からがら逃げてきて、今になって主にそのように言われたからといって、すぐに従えるはずもありませんでした。「私はいったい何者なのでしょう。」そのような立場ではないのだと訴えます。

主は、「私はあなたと共にいる」ということを柴が燃えることで示されました。14節、「わたしは『わたしはある』というものである」と言われました。ユダヤ人は神という言葉を発しません。それは彼らにとってあまりにも畏れ多いことだからです。「あってあるもの」それは、過去、現時、未来も、同時にいる、ということです。神の普遍性を示しているのです。人間は誰も、今しか生きていません。時間は一定に流れています。しかし、時間というのは実は一定ではないといいます。一人一人流れ方が違うのだと。それは心理学的に違うということでしょう。小学校の6年間と、中高年の6年間は、まったく違う感じ方になります。12年間生きてきた中の6年間は人生の半分だから長く感じるでしょうし、60年生きたなかの6年はたった1割です。

神とは、そういった時間の概念から全く外れたものです。そして、ここにも、あそこにも居られます。私たちには理解できません。理解できたとしたらその人は「神様」でしょう。時間にも場所にも束縛されないで、全てを統治される、それが神です。「わたしはある」それは、あなたがたとは次元の違う方であるということを言え、ということなのです。

そして、主は、エジプトで何が起こるかを順番にモーセに話します。まず長老たちに会って、パロ王のところへ行け、しかし王はなかなか民を行かせないだろう。わたしはそのことをよく知っている、と。預言、というか、神のご計画を語られたのです。そして、エジプトで民が働いた分だけはちゃんと持ってこいと言われました。

モーセはこの時、80歳。エジプトで40年、ミデヤンで40年。そしてこの後、出エジプトを通してまた40年間の旅をするということになります。そしてイスラエルという国家が出来ていきます。一人で終るならそれまでですが、たくさんの人が集まって組織となり、そして国が出来るのです。単に集まれば出来るということではありません。一つの国民として協力していくとは何かをこれから40年間かかって教えていくのです。大切なのは、歩きながら、ユダヤ人が一つの国になるということを学ぶこと。そして、その40年はモーセが本当のリーダーになるための学びでありました。

モーセを励まし、時には叱咤しながら、神が彼を選ばれたということは、「大丈夫、わたしがいつも共にいる、リーダーになっていける」と主がいわれているのです。神のご計画とは、今だけを見ても全然わかりません。しかし、何か意味があるのです。それは、いつか何かが良くなるというレベルのものではなく、この期間を通してあなたが大きく成長していくことが出来るという約束です。奴隷だった民が、国家を作るということ。国を作るとは本当に大変なことでしょう。家族一つまとめるのさえ大変なのですから。

今まさに引退しようとしているモーセを用いて、神は国を造ろうとされます。しかも奴隷である人々を導いて・・・奴隷とは、言われたとおりしかやってこれなかったのですから何もかも未熟な人々です。しかし、イスラエルは今や世界一民主主義的な国といわれる程に成長しました。彼らは自分の国を誇りとし大切にしています。

この試練の中、期待していいのです。主にあって、最高のことになっていくでしょう。その経緯を通して、人生そのものが変えられるという希望を持っていいのです。モーセは、今まで奴隷としての発想しか出来なかった人々たちを変えて、大いなる強い国にし、今なお残る国家としていくため用いられていきます。

モーセを読むとき、同じように私たちも期待され、聖書を通して主が語りかけてくださっています。モーセを見よ。どれほど神に守られ、成長し、強くなっていくことか。それはあなた自身の人生でもあると。モーセを通して主が私たちに語りかけてくださっているのです。