第13回 出エジプト記18章1~27節(2009年5月24日)
「立つべき場所に」
***モーセのしゅうとイテロがやってきた。モーセが、イスラエルのために神がなさった全てのことを話し、イテロは喜んだ。翌日、朝から夕方までさばきのためにやってくる大勢の民をみてイテロはモーセに助言をした。民の中から誠実な人を見つけ、リーダーとするように、そして、小さい事件は彼らが裁き、大きい事件のみをモーセが裁くようにと。モーセはしゅうとの言われたとおりにした。***
モーセには、チッポラという妻がおり、今日出てくるイテロは、その父です。モーセはミデヤンに家族をおいて、1人でエジプトに行きました。それが命がけの仕事になるとわかっていたからです。出エジプトから数ヶ月たち、旅の群れはミデヤン近くを通ったため、イテロが娘チッポラや孫たちを連れてモーセに会いに来て、語らいの時をもったのでした。神がイスラエルを守るために、海を分けられたこと、苦い水が甘くなったこと、岩をたたいたら水が出たことなど・・・イテロはさぞかし驚き、また喜んだことでしょう。
18章のテーマは、13節以降です。250万という群集、それは名古屋市全体の人口にも相当しますが、それだけの人々が出エジプトの旅を共にしています。モーセはそこで「裁きの座」についていたとありますが、これは、カウンセリングのようなことをしていたのです。また、刑事、民事の両方において裁きをしていました。
14節、イテロは、「なぜこんなことをしているのか」と言います。20節では、「あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい」と語ります。これは、教会の礼拝、また、説教と同じで、みことばから学びつづけることが大事だということです。どう生きたらいいかを民に教えよというのです。
17節、しかし、あなたが全てを裁くのは「良くない」と語ります。別の方法があるよ、と。千人の長、百人の長、50人の長、10人の長、つまりリーダーをたてよといいます。これは、行政を指しています。市、件、国、それぞれリーダーを立てるのはとても合理的です。聖書には、現在の行政や法律に通ずることが書かれているのです。
モーセは、イテロに言われるまで、何故このようにしていたのでしょうか。牧師として分かる気がします。自分がやらないとダメだと思ってしまうのです。自分で全てをやらないと治まらないと。人に任せるには、信頼することが必要ですが、それが難しい。そういうことが強くなっていくと、独裁主義に陥っていきます。ヒトラーは、誰をも信頼することが出来ず、どんな細かいことでも報告させたといいます。
人に任せず、自分で全てをやる方が、楽だという面があるのです。しかしそれは、いつか破綻します。モーセはここで、自分の使命は何かと教えられました。私たちは目の前にあることを片付けたいと思います。しかし、どこへ向かうためにそれをするかを分かっていなければ意味がありません。約束の地に人々を連れていくことがモーセの使命でした。しかし、現状の彼は、目の前のことに追われていたのです。
あなたの使命は何かを考えること。それは、一番大切なことは何か?を問われているということです。結婚カウンセリングで、結婚の決心がつかないという女性に出会ったことがあります。彼の言動を見ていると、自分と結婚したいのかが分からないと。しかし大事なことは、「自分はどう思うのか」です。
一番大事なこと、それをモーセは問われました。それは、民を連れていくこと、それを通して民が神を見、知っていく、分かっていくことでした。そして、モーセのえらいところは、しゅうとの言うことをすぐさま聞き入れたことです。
出エジプトは人生の旅と同じです。神を見るために仕事が与えられており、人生も与えられています。せっかく旅をしているのだから、その中で神の恵みを発見していけた方がいいに決まっています。私は実は、新婚旅行のことを何も覚えていません。運転するので精一杯だったからです。これはとてももったいないことです。運転しながらも、景色を味わうことが出来たら良かったのですが。同じことで、神を知るために仕事は与えられているのです。仕事そのものは、目的ではありません。家族すら、そうです。家族を通して、神を知らせていただくのです。
モーセは大切なことを忘れていました。民もそうです。モーセにただ付いてきただけの彼らは、いつも不平不満で満ち、神を分からないでいました。奇跡を見ても、すぐ忘れ、それどころか、もっと見せろという。しかしここで、民たちは役割が与えられたのです。同時に責任も与えられました。神の業に参加をし始めたのです。そうして初めて神を見ることができるのです。私たちは人間関係において、相手のことが分かったら、これをやってあげる、と考えます。しかし、本当は反対です。まず、相手のためにやってあげること、そうすれば、だんだんと相手のことが分かってくるのです。リーダーは七転八倒しながらも、神が見えてきます。奉仕をしていくなかで、新しい動きが始まり、主に出会うのです。民たちは、そのような、神をみるきっかけを与えられたのでした。
彼らは艱難の中で主を見ることができるようになります。神の働きのために業をしていくなかで、さらに見えてくるのです。私たちがどのように人生を歩むか、それを出エジプトから学ぶことができます。仕事、家族、人間関係、赦せないと思う人々との間でも、神を見ることが出来ます。私たちが立つべき場所は、「神をみるための旅人」だということなのです。
2009年7月2日木曜日
2009年5月30日土曜日
解放と自由と(出エジプト12)
第12回 出エジプト17章1~16節(2009年5月17日)
「解放と自由と」
***シンの荒野から出発した民は、旅を重ねてレフィディムで宿営した。そこには飲み水が無く、民は渇いてモーセにつぶやいた。モーセが主に叫ぶと、主はモーセが岩を打つとそこから水が出るようにされた。さてアマレクが来てイスラエルと戦った。モーセが手をあげているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になった。***
民は、「何故自分達をエジプトから連れ出したのか」と、何度もモーセにつぶやきます。エジプトにいれば、こんな長い旅に出て歩くことも無く、生きていられたのに。余計なお世話だ、自分たちは奴隷のままでよかったのだ、と言わんばかりです。
現代の教会も、外から見れば、余計なことをやっていると思われてある意味当然かもしれません。人間は自由を求めて生きています。自分の思うとおり、自由に稼いでいきたいという、資本主義はその歴史でした。一方で、社会主義とは、このままでいいのだという歴史だったといえます。神が民にされたのは、「奴隷のところから解放する」ことでした。神は、「自由にしてあげる」とは言っていません。
ところで、奴隷とは何でしょうか。それは今の社会でも存在します。共依存といって、夫のDVを受けてもついていく妻などは、夫の奴隷状態にあるといえます。また、アフリカで行われていたアパルトヘイトなど。南アフリカ共和国では、それが廃止された後、黒人が自分たちのことを白人と同じ人間だということがどうしても理解できなかったとか。それは、長い間、自分達は動物同様に扱われてきたからです。同じ人間であることを理解させるために白人のストリップを見せたということもあったそうです。
自分が奴隷であることが分からないことが問題です。何の奴隷になっているのか。共依存の夫婦の話ですが、法律的には問題がありません。なぜなら、お互い自由で、妻本人がどんなに夫からDVを受けようと、それで良いといっているのだからと、具体的には何も出来ません。そこでどうするかというと、止む無く法を犯すという手段をとります。妻を隔離してカウンセリングするのです。
問題なのは、迫害を受けていること事態ではなく、自分が奴隷状態であるということが分からないことなのです。民たちも、自分が奴隷であったことに気付いていませんでした。それに気付くために、何度も何度もこういったことが繰り返されていきます。それが第1の目的です。エジプトより今の方が苦しいかどうかは、神にとって問題ではありません。奴隷から解放することが出エジプトの目的なのです。
救いとは、恵みの全てではありません。奴隷であったことを知ること、そこからの解放が大きなことです。パウロは、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています(ローマ8:19)」といいましたが、それが罪の奴隷です。罪とは、神から離れていることです。そして神の発想が出来ない状態のことです。何を思うにしても、よく考えてみると、全て自分中心であることに気付きます。神がどう思うかは、考えることが出きるとしても、思考の半分くらいでしょうか。
細かいことを決めて、これはダメ、これは良いと、律法的に判断することも罪の奴隷です。ある教会学校の中高生担当教師が、生徒から性的な悩みを告白されたそうです。そのような場合、教師としてどのように子供を導いたらよいのかと彼は悩んでいました。どのような問題でも、苦しむことが大事といえます。どうしたら余計なものをコントロールして、神が祝福される結婚の大切なものを自分のものにしていけるか。何でも自由でいいのだというのではなく、主が共にいて、一緒に苦しんで、道を開いていってくださる、それが解放です。
私たちは、どこまでいっても自分中心の罪の奴隷であることを発見します。主はそこから解放してくださるのです。悩みは多いでしょう。だから、これからは神と一緒に悩んでいこうと決断することが大切です。礼拝はそれを学んでいく場です。民はそのようにして、いつでも文句をいいながらも、自分が奴隷であったことに気付いていくのです。私たちは、安心して、自分が罪人であると発見していきましょう。決して落ち込む必要はありません。私たちが弱いからこそ、主が導かれると分かるのですから。
後半は、アマレク人との戦いです。ヨシュアが初登場しています。モーセが手を挙げている間はイスラエルが優勢だったとあります。モーセの手が疲れて降りてこないように、アロンとフルが支えたとあります。
ここを霊的に解釈するなら、アマレクとの戦いは罪との戦いです。そして、私たちにはサポーターが与えられているということです。あなただけの戦いではないのです。手をあげつづけるなら自動的に勝つということではなく、支える人も主は与えて下さっているということです。
神の導きに従っていく歩みは、解放の人生です。それは自分のやりたいようにやるということではありません。神に従う歩みこそ、もっとも美しく、また強いところを歩いていくことができます。解放された人生とは、生き生きと生きられ、生まれてよかったと実感できる人生です。イエスは私たちを招かれるときに、共にくびきを背負うと言われました(マタイ11章)。解放された人生を、兄弟姉妹と共に生き生きと歩んでいきたいと願います。
「解放と自由と」
***シンの荒野から出発した民は、旅を重ねてレフィディムで宿営した。そこには飲み水が無く、民は渇いてモーセにつぶやいた。モーセが主に叫ぶと、主はモーセが岩を打つとそこから水が出るようにされた。さてアマレクが来てイスラエルと戦った。モーセが手をあげているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になった。***
民は、「何故自分達をエジプトから連れ出したのか」と、何度もモーセにつぶやきます。エジプトにいれば、こんな長い旅に出て歩くことも無く、生きていられたのに。余計なお世話だ、自分たちは奴隷のままでよかったのだ、と言わんばかりです。
現代の教会も、外から見れば、余計なことをやっていると思われてある意味当然かもしれません。人間は自由を求めて生きています。自分の思うとおり、自由に稼いでいきたいという、資本主義はその歴史でした。一方で、社会主義とは、このままでいいのだという歴史だったといえます。神が民にされたのは、「奴隷のところから解放する」ことでした。神は、「自由にしてあげる」とは言っていません。
ところで、奴隷とは何でしょうか。それは今の社会でも存在します。共依存といって、夫のDVを受けてもついていく妻などは、夫の奴隷状態にあるといえます。また、アフリカで行われていたアパルトヘイトなど。南アフリカ共和国では、それが廃止された後、黒人が自分たちのことを白人と同じ人間だということがどうしても理解できなかったとか。それは、長い間、自分達は動物同様に扱われてきたからです。同じ人間であることを理解させるために白人のストリップを見せたということもあったそうです。
自分が奴隷であることが分からないことが問題です。何の奴隷になっているのか。共依存の夫婦の話ですが、法律的には問題がありません。なぜなら、お互い自由で、妻本人がどんなに夫からDVを受けようと、それで良いといっているのだからと、具体的には何も出来ません。そこでどうするかというと、止む無く法を犯すという手段をとります。妻を隔離してカウンセリングするのです。
問題なのは、迫害を受けていること事態ではなく、自分が奴隷状態であるということが分からないことなのです。民たちも、自分が奴隷であったことに気付いていませんでした。それに気付くために、何度も何度もこういったことが繰り返されていきます。それが第1の目的です。エジプトより今の方が苦しいかどうかは、神にとって問題ではありません。奴隷から解放することが出エジプトの目的なのです。
救いとは、恵みの全てではありません。奴隷であったことを知ること、そこからの解放が大きなことです。パウロは、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています(ローマ8:19)」といいましたが、それが罪の奴隷です。罪とは、神から離れていることです。そして神の発想が出来ない状態のことです。何を思うにしても、よく考えてみると、全て自分中心であることに気付きます。神がどう思うかは、考えることが出きるとしても、思考の半分くらいでしょうか。
細かいことを決めて、これはダメ、これは良いと、律法的に判断することも罪の奴隷です。ある教会学校の中高生担当教師が、生徒から性的な悩みを告白されたそうです。そのような場合、教師としてどのように子供を導いたらよいのかと彼は悩んでいました。どのような問題でも、苦しむことが大事といえます。どうしたら余計なものをコントロールして、神が祝福される結婚の大切なものを自分のものにしていけるか。何でも自由でいいのだというのではなく、主が共にいて、一緒に苦しんで、道を開いていってくださる、それが解放です。
私たちは、どこまでいっても自分中心の罪の奴隷であることを発見します。主はそこから解放してくださるのです。悩みは多いでしょう。だから、これからは神と一緒に悩んでいこうと決断することが大切です。礼拝はそれを学んでいく場です。民はそのようにして、いつでも文句をいいながらも、自分が奴隷であったことに気付いていくのです。私たちは、安心して、自分が罪人であると発見していきましょう。決して落ち込む必要はありません。私たちが弱いからこそ、主が導かれると分かるのですから。
後半は、アマレク人との戦いです。ヨシュアが初登場しています。モーセが手を挙げている間はイスラエルが優勢だったとあります。モーセの手が疲れて降りてこないように、アロンとフルが支えたとあります。
ここを霊的に解釈するなら、アマレクとの戦いは罪との戦いです。そして、私たちにはサポーターが与えられているということです。あなただけの戦いではないのです。手をあげつづけるなら自動的に勝つということではなく、支える人も主は与えて下さっているということです。
神の導きに従っていく歩みは、解放の人生です。それは自分のやりたいようにやるということではありません。神に従う歩みこそ、もっとも美しく、また強いところを歩いていくことができます。解放された人生とは、生き生きと生きられ、生まれてよかったと実感できる人生です。イエスは私たちを招かれるときに、共にくびきを背負うと言われました(マタイ11章)。解放された人生を、兄弟姉妹と共に生き生きと歩んでいきたいと願います。
2009年5月18日月曜日
神の試み(出エジプト11)
第11回 出エジプト16章1~36節(2009年5月10日)
「神の試み」
***エリムを出発した民は、シンの荒野に向かった。彼らはモーセとアロンに不平を述べ立て、「エジプトで死んだ方がましだった。あの時は肉やパンを腹いっぱい食べられたのに、ここで飢え死にしなければいけないとは。」と言った。夕方になると、うずらがとんできて、朝には宿営の周りに露が降り、それが渇くと薄くて壊れやすいものが残った。それは主が彼らのために食物として与えられたパンで、マナと呼ばれた。主は民に命じて、必要な分のみ毎日それぞれが集め、6日目だけは7日目の安息日のために二日分集めるように言った。主の命に従わずに余分に集めたマナは翌日には虫がつき、臭くなった。***
シンの荒野へと向かった民。出発してから1ヶ月ほどたっています。疲れきってへとへとだったことでしょう。なにしろ、250万人という大群衆です。昼は雲の柱、夜は火の柱でもって主が導かれ、その後をついていったのですが、そのような異常事態、奇跡的状況の中を、ただひたすら歩いていきました。
1ヶ月前に、海が分かれる奇跡も目撃した彼らです。しかし、ここでもまた、リーダーにつぶやいています。エジプトで死んだ方がましだったとさえ言います。何しろ、この旅はこの先40年続くことになります。40年かけた引越しですから、ストレスがたまるのも当然です。
ある程度、この辺りの地理を把握していた彼らは、主の導きに対して、どうしてこんな場所を通らなければいけないのかと不安になり、そして不信仰になっていきます。神が何といおうと、自分はもうこれ以上行きたくない。エジプトに帰りたい、と。
私たちは、自分の人生には選択権があると感じて生きています。しかし、聖書を読み始めてみると、神が一番良い道を備えて下さるのだと分かるようになります。神を信じないのであれば、今の人生ではない、違う生き方があるのかも、と思っても当然かもしれません。
神は、彼らに食事を与えました。4節、「試す」とありますが、これは大事なことです。人生に試みが無ければ大変つまらないものになります。試験がなかったら、何も勉強しようとしないでしょうし、ノルマや責任があるからこそ、チャレンジしようという意欲が湧くものです。日々のいろんな問題は試みと理解することができます。才能が無いから苦労するのだと思うでしょうか?全く違います。「試みる」と神が言ったのです。それは、私たちが成長するために必要なことでした。
食べ物が無い!と民が不満をぶちまけたときに、主はウズラとマナを与えられました。この辺りの海岸には、ウズラの集団がよくやってくるのだそうです。そしてその肉は、250万人の腹を満たしました。これは神の業です。自然界の法則を用いつつ、神の力でそれをなさるのです。
私たちは、人生を諦めないことです。自分の、この小さな力で、一体何が出来るのかと思うかもしれませんが、今やっていることを止めない方がいいです。なぜなら、それは絶対できるようになるからです。以前、マルコの福音書で、5000人の給食の話を聞きました。男だけで5000人ですから、女性や子供含めて1万数千人はいたでしょう。たった5つのパンと2匹の魚をもって、イエスは彼らを満たしました。最初にイエスは、「持っているのは何か」と問われ、それをされました。主は、それを何億倍にもされる方です。
私は、これがやりたい。これを持っている。その時に、主よ、あなたを信じてやってみます、と歩み始めるときに、そのような人生が送れるのです。私たちは、全てのことを自分の力だけでやろうとします。そしてそれがダメなら、自分の才能が無いからだと落ち込みますが、本当はそうではありません。ユダヤの民は、このようにして訓練させられていきました。主がおられる、主が守ってくださるということを知るための徹底的な訓練です。
1日分のマナだけ集めよ、と主は言われました。6日目には、次の日の分もとってよいとされました。しかし、多く集めて残しておくと、それは腐ったとあります。その日その日の分を与えられて、その日を生きるということです。明日のことは、全て主に委ねるのです。もちろん、貯金することは大事なことではあります。しかし、人生そのものについて考えるときに、明日について確実な約束はありません。病気か、事故か、生死さえ明日については分かりません。貯金は悪くありませんが、それだけでは、人生そのものが大丈夫ということにはならないのです。神に頼るという訓練、「神が私たちを養う」ということを心においておくということです。
7日目は安息日で、働かなくても良い日です。1週間に一度休もうというのは、ここが始まりです。十戒、シナイ契約の原形です。週に一回は仕事を離れ、神を思い、全てのことをおいておく日とするということです。神は、民に実際にそれをさせて覚えさせています。ある医者の論文によれば、7日に1日休むことが、体には一番良いとのことです。昔日本では、30日に1日、良くても10日で1回、あるいは休みなど無いということもあったのです。西暦が入ってきてから日曜休みが定着するようになりました。それは体に良いということもありますが、もう一つの大事な目的は、「神を覚えるため」です。
この日、と決めておくことは大事です。そうでなければ忘れてしまうからです。この日に母に会いに行くのだと決めておかないことには、自分は、あれほど私を愛してくれた大切な母に会いに行くことを忘れてしまいます。人間とはそういうものです。1週間に1回、神に出会い、忘れないでいこうということ、それをここでは主ご自身が教えているのです。
13節、各自食べる分だけ集めるようにとあります。人間は、備蓄に安心します。他の動物は備蓄をすることはありません。今の分だけ食べます。それは、人間が罪人だからといえます。自分の力だけに頼ろうとするがゆえです。私たちが健全であるなら、すなわち、礼拝を大切にしていくなら、人生はそれだけで変わります。今は分からないかもしれませんが、礼拝にとにかく来てみることです。最初は分からなくても、そのうちに、それがどれだけ深いものかが分かってきます。
ユダヤ人は、現代においても、とても強い民族です。その能力を生かし、様々な分野で大変活躍しています。歴史的には、迫害を何度も受けてきましたが、しかし強いのです。それは、1週間に1度、神から頂く恵みの時をもつという決断をしているからです。神は、祝福を私たちが受けるために、私たちを訓練してくださいます。
礼拝では、寝てしまうかもしれません。それでもOKです。ここに呼ばれたこと、主に心を向けていることが大切なのです。その中で祝福を受けていきます。「集まることをやめないで」と聖書にはありますから、ここから、始まるのです。
33節、モーセは1オメルのマナを保存しました。それは、後世に伝えるためでした。子供たちに私たちの宝を伝えます。その宝とは、「生き方」といえます。心理学でこんな実験があるそうです。何万人と働くようなある大きな仕事場で、1人の人が抜けるとどんな影響があるのか調べたのです。私たちは、自分1人くらい抜けても何も変わらないと思っています。ところが、何万分かの1であるその人が抜けただけで、全てに影響があり、全体が変わっていくというのです。1人が変わったら、全てが変わっていきます。その影響は大きいのです。次の代に、そのような「生き方」を伝えていくなら、どんなに世の中が変わっていくでしょうか。
「神の試み」すぐには、よく分からないかもしれません。しかし、やってみることです。ユダヤ人は、それを何千年と続けています。この1時間で、何かが変わっていくはずです。
「神の試み」
***エリムを出発した民は、シンの荒野に向かった。彼らはモーセとアロンに不平を述べ立て、「エジプトで死んだ方がましだった。あの時は肉やパンを腹いっぱい食べられたのに、ここで飢え死にしなければいけないとは。」と言った。夕方になると、うずらがとんできて、朝には宿営の周りに露が降り、それが渇くと薄くて壊れやすいものが残った。それは主が彼らのために食物として与えられたパンで、マナと呼ばれた。主は民に命じて、必要な分のみ毎日それぞれが集め、6日目だけは7日目の安息日のために二日分集めるように言った。主の命に従わずに余分に集めたマナは翌日には虫がつき、臭くなった。***
シンの荒野へと向かった民。出発してから1ヶ月ほどたっています。疲れきってへとへとだったことでしょう。なにしろ、250万人という大群衆です。昼は雲の柱、夜は火の柱でもって主が導かれ、その後をついていったのですが、そのような異常事態、奇跡的状況の中を、ただひたすら歩いていきました。
1ヶ月前に、海が分かれる奇跡も目撃した彼らです。しかし、ここでもまた、リーダーにつぶやいています。エジプトで死んだ方がましだったとさえ言います。何しろ、この旅はこの先40年続くことになります。40年かけた引越しですから、ストレスがたまるのも当然です。
ある程度、この辺りの地理を把握していた彼らは、主の導きに対して、どうしてこんな場所を通らなければいけないのかと不安になり、そして不信仰になっていきます。神が何といおうと、自分はもうこれ以上行きたくない。エジプトに帰りたい、と。
私たちは、自分の人生には選択権があると感じて生きています。しかし、聖書を読み始めてみると、神が一番良い道を備えて下さるのだと分かるようになります。神を信じないのであれば、今の人生ではない、違う生き方があるのかも、と思っても当然かもしれません。
神は、彼らに食事を与えました。4節、「試す」とありますが、これは大事なことです。人生に試みが無ければ大変つまらないものになります。試験がなかったら、何も勉強しようとしないでしょうし、ノルマや責任があるからこそ、チャレンジしようという意欲が湧くものです。日々のいろんな問題は試みと理解することができます。才能が無いから苦労するのだと思うでしょうか?全く違います。「試みる」と神が言ったのです。それは、私たちが成長するために必要なことでした。
食べ物が無い!と民が不満をぶちまけたときに、主はウズラとマナを与えられました。この辺りの海岸には、ウズラの集団がよくやってくるのだそうです。そしてその肉は、250万人の腹を満たしました。これは神の業です。自然界の法則を用いつつ、神の力でそれをなさるのです。
私たちは、人生を諦めないことです。自分の、この小さな力で、一体何が出来るのかと思うかもしれませんが、今やっていることを止めない方がいいです。なぜなら、それは絶対できるようになるからです。以前、マルコの福音書で、5000人の給食の話を聞きました。男だけで5000人ですから、女性や子供含めて1万数千人はいたでしょう。たった5つのパンと2匹の魚をもって、イエスは彼らを満たしました。最初にイエスは、「持っているのは何か」と問われ、それをされました。主は、それを何億倍にもされる方です。
私は、これがやりたい。これを持っている。その時に、主よ、あなたを信じてやってみます、と歩み始めるときに、そのような人生が送れるのです。私たちは、全てのことを自分の力だけでやろうとします。そしてそれがダメなら、自分の才能が無いからだと落ち込みますが、本当はそうではありません。ユダヤの民は、このようにして訓練させられていきました。主がおられる、主が守ってくださるということを知るための徹底的な訓練です。
1日分のマナだけ集めよ、と主は言われました。6日目には、次の日の分もとってよいとされました。しかし、多く集めて残しておくと、それは腐ったとあります。その日その日の分を与えられて、その日を生きるということです。明日のことは、全て主に委ねるのです。もちろん、貯金することは大事なことではあります。しかし、人生そのものについて考えるときに、明日について確実な約束はありません。病気か、事故か、生死さえ明日については分かりません。貯金は悪くありませんが、それだけでは、人生そのものが大丈夫ということにはならないのです。神に頼るという訓練、「神が私たちを養う」ということを心においておくということです。
7日目は安息日で、働かなくても良い日です。1週間に一度休もうというのは、ここが始まりです。十戒、シナイ契約の原形です。週に一回は仕事を離れ、神を思い、全てのことをおいておく日とするということです。神は、民に実際にそれをさせて覚えさせています。ある医者の論文によれば、7日に1日休むことが、体には一番良いとのことです。昔日本では、30日に1日、良くても10日で1回、あるいは休みなど無いということもあったのです。西暦が入ってきてから日曜休みが定着するようになりました。それは体に良いということもありますが、もう一つの大事な目的は、「神を覚えるため」です。
この日、と決めておくことは大事です。そうでなければ忘れてしまうからです。この日に母に会いに行くのだと決めておかないことには、自分は、あれほど私を愛してくれた大切な母に会いに行くことを忘れてしまいます。人間とはそういうものです。1週間に1回、神に出会い、忘れないでいこうということ、それをここでは主ご自身が教えているのです。
13節、各自食べる分だけ集めるようにとあります。人間は、備蓄に安心します。他の動物は備蓄をすることはありません。今の分だけ食べます。それは、人間が罪人だからといえます。自分の力だけに頼ろうとするがゆえです。私たちが健全であるなら、すなわち、礼拝を大切にしていくなら、人生はそれだけで変わります。今は分からないかもしれませんが、礼拝にとにかく来てみることです。最初は分からなくても、そのうちに、それがどれだけ深いものかが分かってきます。
ユダヤ人は、現代においても、とても強い民族です。その能力を生かし、様々な分野で大変活躍しています。歴史的には、迫害を何度も受けてきましたが、しかし強いのです。それは、1週間に1度、神から頂く恵みの時をもつという決断をしているからです。神は、祝福を私たちが受けるために、私たちを訓練してくださいます。
礼拝では、寝てしまうかもしれません。それでもOKです。ここに呼ばれたこと、主に心を向けていることが大切なのです。その中で祝福を受けていきます。「集まることをやめないで」と聖書にはありますから、ここから、始まるのです。
33節、モーセは1オメルのマナを保存しました。それは、後世に伝えるためでした。子供たちに私たちの宝を伝えます。その宝とは、「生き方」といえます。心理学でこんな実験があるそうです。何万人と働くようなある大きな仕事場で、1人の人が抜けるとどんな影響があるのか調べたのです。私たちは、自分1人くらい抜けても何も変わらないと思っています。ところが、何万分かの1であるその人が抜けただけで、全てに影響があり、全体が変わっていくというのです。1人が変わったら、全てが変わっていきます。その影響は大きいのです。次の代に、そのような「生き方」を伝えていくなら、どんなに世の中が変わっていくでしょうか。
「神の試み」すぐには、よく分からないかもしれません。しかし、やってみることです。ユダヤ人は、それを何千年と続けています。この1時間で、何かが変わっていくはずです。
2009年5月17日日曜日
契約が与えられて生きる(出エジプト10)
第10回 出エジプト記 15章22~27節(2009年5月3日)
「契約が与えられて生きる」
***葦の海から旅立った民は、荒れ野を三日間進んだが、水が無かった。マラに着いたがそこの水は苦くて飲むことが出来ず、民は「何を飲んだらいいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水は甘くなった。***
民はマラという場所にやってきました。そこでは、水が苦くて不平を言ったとあります。つい先日まで、神の素晴らしい業を目の当たりにした民です。海が分かれて、渇いた地を歩くという、信じられないようなことを経験したのです。自分達は助けられ、エジプト軍は海の藻屑と消えていきました。この経験を通して、神によって守られるということを分かったはずの民でした。
しかし、現実にぶつかりました。水が無いのです。マラ、また葦の海の辺りは、湿地や川の水は飲むことの出来ない悪いものだったようです。生きていくために大切な水がないという現実。民は絶望しました。神様によって導かれているなら、とんとん拍子に上手く事が行っても良さそうなものなのに。今までは上手く行きました。だからこれからも上手くいくというのが大前提になっていたのです。
24節、民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った、とありますが、これには「どうしてくれるんだ」という強い意味があります。そこでモーセが主に叫ぶと、主はある木を示されたとあります。フロリダやペルーには、水を浄化する植物が実際にあるそうです。備長炭などもそうですね。その木を水に沈めると、水が甘くなったというのです。
水が無いということは、確かに死を意味するでしょう。しかし、砂や石を使って水を浄化する方法があるということは、この当時既に知られていました。なのに、彼らはパニックになってしまったのです。今の、豚インフルエンザについてもそうです。そのことしか見えず、他の角度で見ることが出来なくなってしまうのです。神の契約を疑うようになります。「本当に守ってくれるのか?」といいたくなってしまうのです。
25節、神は、もう一度契約を民と結びます。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」 何かをしないと罰を与える、というものではありません。この契約は、一方的に祝福を与えるというものです。
人同士の契約には、種類があります。一つは双務契約。お互いが義務を負う、Give&Takeの関係です。もう一つは、片務契約といい、片方が一方的に義務を持つものです。相続などがそれで、相続させる方のみその義務を持っています。神の契約とは、この片務契約です。しかし私たちは、契約といわれると全て双務契約と考えてしまいます。
結婚を含め、人間関係を全てGive&Takeで考えます。人間同士の契約としては、そういうものになってしまうと思います。しかし、聖書的に言うなら、夫婦は片務契約なのです。片方が一方的に義務を持ちます。夫婦だけでなく、親子関係もそうです。双方の、片務契約です。何かをやったからではなく、~であっても愛する、というお互いの片務j契約で成り立つものなのです。
双務契約で人間関係を捉えるとき、ダメになっていきます。この時、民たちは信仰をそのように考えていたのではないでしょうか。神が自分達のために働いてくれるのは当たり前だという発想だったのかもしれません。しかし、あなたがどんなものであれ、愛し、助ける。正しい道をわたしは示す、だから諦めるな、と神は言われるのです。
一方で、私たちは、神が何をなさろうと、愛するということです。神の導きに、一方的に身をおくのです。そして、神も、私たちがどうあろうとも愛してくださいます。片務契約で関係を捉えることが、最大の平和、最大の愛です。全ての人間関係において、何かをしたから、やってもらって当たり前という考え方は、神の示す愛ではありません。
27節、エリム(安らぎの地)につきました。そこには12の泉があったとありますが、12とは完全数で、本当の平安を意味しています。神の契約は、一方的な愛です。私たちがどのような問題があろうとも、愛して下さる神を信頼するとき、平安に歩んでいくことができるのです。
「契約が与えられて生きる」
***葦の海から旅立った民は、荒れ野を三日間進んだが、水が無かった。マラに着いたがそこの水は苦くて飲むことが出来ず、民は「何を飲んだらいいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水は甘くなった。***
民はマラという場所にやってきました。そこでは、水が苦くて不平を言ったとあります。つい先日まで、神の素晴らしい業を目の当たりにした民です。海が分かれて、渇いた地を歩くという、信じられないようなことを経験したのです。自分達は助けられ、エジプト軍は海の藻屑と消えていきました。この経験を通して、神によって守られるということを分かったはずの民でした。
しかし、現実にぶつかりました。水が無いのです。マラ、また葦の海の辺りは、湿地や川の水は飲むことの出来ない悪いものだったようです。生きていくために大切な水がないという現実。民は絶望しました。神様によって導かれているなら、とんとん拍子に上手く事が行っても良さそうなものなのに。今までは上手く行きました。だからこれからも上手くいくというのが大前提になっていたのです。
24節、民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った、とありますが、これには「どうしてくれるんだ」という強い意味があります。そこでモーセが主に叫ぶと、主はある木を示されたとあります。フロリダやペルーには、水を浄化する植物が実際にあるそうです。備長炭などもそうですね。その木を水に沈めると、水が甘くなったというのです。
水が無いということは、確かに死を意味するでしょう。しかし、砂や石を使って水を浄化する方法があるということは、この当時既に知られていました。なのに、彼らはパニックになってしまったのです。今の、豚インフルエンザについてもそうです。そのことしか見えず、他の角度で見ることが出来なくなってしまうのです。神の契約を疑うようになります。「本当に守ってくれるのか?」といいたくなってしまうのです。
25節、神は、もう一度契約を民と結びます。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」 何かをしないと罰を与える、というものではありません。この契約は、一方的に祝福を与えるというものです。
人同士の契約には、種類があります。一つは双務契約。お互いが義務を負う、Give&Takeの関係です。もう一つは、片務契約といい、片方が一方的に義務を持つものです。相続などがそれで、相続させる方のみその義務を持っています。神の契約とは、この片務契約です。しかし私たちは、契約といわれると全て双務契約と考えてしまいます。
結婚を含め、人間関係を全てGive&Takeで考えます。人間同士の契約としては、そういうものになってしまうと思います。しかし、聖書的に言うなら、夫婦は片務契約なのです。片方が一方的に義務を持ちます。夫婦だけでなく、親子関係もそうです。双方の、片務契約です。何かをやったからではなく、~であっても愛する、というお互いの片務j契約で成り立つものなのです。
双務契約で人間関係を捉えるとき、ダメになっていきます。この時、民たちは信仰をそのように考えていたのではないでしょうか。神が自分達のために働いてくれるのは当たり前だという発想だったのかもしれません。しかし、あなたがどんなものであれ、愛し、助ける。正しい道をわたしは示す、だから諦めるな、と神は言われるのです。
一方で、私たちは、神が何をなさろうと、愛するということです。神の導きに、一方的に身をおくのです。そして、神も、私たちがどうあろうとも愛してくださいます。片務契約で関係を捉えることが、最大の平和、最大の愛です。全ての人間関係において、何かをしたから、やってもらって当たり前という考え方は、神の示す愛ではありません。
27節、エリム(安らぎの地)につきました。そこには12の泉があったとありますが、12とは完全数で、本当の平安を意味しています。神の契約は、一方的な愛です。私たちがどのような問題があろうとも、愛して下さる神を信頼するとき、平安に歩んでいくことができるのです。
2009年4月23日木曜日
主の喜ばれることを(出エジプト9)
第9回 出エジプト記15章1~21節(2009年3月8日)
「主の喜ばれることを」
***モーセとイスラエル人は主に向かってこの歌を歌った。アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手にとり、女達もタンバリンを持って踊りながら彼女について出てきた。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」***
ミリアムとは、モーセの姉です。ここは、出エジプトの中ではとても詞的であり美しい箇所といえます。とんでもないと思えるような神の業を目の当たりにし、溢れんばかりの感動に満たされている様子が伝わってきます。しかし、出エジプト全体から見るなら、この直後にイスラエルは神に対して文句を言いつづけるという現実があります。
イスラエルの何が問題だったのか?それを考えるのはいいことかもしれませんが、むしろ私たちはそれをどう捉えるべきかを考えていきたいと思います。
葦の海とは「紅海」のことです。エジプト軍から逃れたイスラエル人たちが、紅海の渇いた地面を渡り、岸辺に上がったと同時に海の水が戻って、多くのエジプト人が死に絶えました。それを確認の意味でもう一度記述しながら即興の歌を歌っています。タンバリンをもって、踊りながら、大変な喜びを見せています。助けられたこと、救われたことが土台であり、その中心は「神は偉大」という言葉です。
ある学者は、この箇所を1~6節、7~11節、12~16節の3つに分け、17,18節はエピローグだと主張します。それぞれ特徴があるからです。1つ1つに比喩やテーマが見えます。1つ目は、パロに対する神の圧倒的な力、優位性、強さです。2つ目は、自然や敵に対する支配性、そして3つ目は主の御手の大きさと聖なる方であること。統一しているのは、神はなんと偉大で、自然やあらゆる問題を支配し、聖い方であるかということです。それは、日本人の持ってきた信仰感とは違います。
日本人は、「問題が良きに変えられますように」と願い、その問題が解決した時には「ああ良かった」となり、どんな場合も中心にあるのは自分です。罪とは自己中心のことを指しますが、アダムとエバが善悪の実を食べた結果です。自分にとって都合がいいかどうかがテーマなのです。
出エジプト記に見るようなユダヤ人のリーダーたちにしても、新約聖書のリーダーたちにしても、どんな祈りを捧げているかを見るときに分かります。彼らはいつも、「神は偉大な方、全知全能」というところに持っていくのです。神が全能であるから、全てを解決してくれると理解してよいでしょう。
身の上に起きた事柄について、いいことであるなら「万歳」、悪いことなら「神は一体何をしているのか」となるのが日本人ではないでしょうか。今ある現状について、良いか悪いかではなく、ここに働く神の力を見ようとすること。それが今日のところに出てくるのです。
民はこれから成長していきます。この賛歌は神によって与えられ、神が語らせて下さいました。それは、単なる「助かって良かった」ということではなく、「神はなんと素晴らしい方なのか」というところです。
16節、「買いとられた」とは「贖われた」の意味です。贖(あがな)いとは、契約に基づく行為です。神が約束に基づいて、それに従い、民を買いとられたのです。それは奴隷から救い出すという意味であり、また、神のものとしたからにはずっと大事にするよという意味もあります。
ここで突然出てきたような話ではありません。長い歴史の中、アブラハムの頃より神と人間との契約があり、それは更新されてきたのです。「必ずあなたを救う」と。神の単なる気まぐれではなく、約束に基づいて成されたことでした。
3節、「主はいくさびと」とあります。これは神の戦いでした。詩篇など旧約聖書のいたるところに、万軍の主という表現が出てきます。神を「軍隊」としてとらえるのです。神は戦って下さっています。それは、私たちを取り戻すために。
私たちは神とつきあっているのです。結婚カウンセリングをするとき、お互いのどこが好きなのかという話になりますが、お互いのことなど何年つきあっても本当には分からないものです。しかし、つきあううちにどんどん分かっていきます。結婚は、全部分かった上でするものではありません。夫婦になって、少しずつ分かっていくのです。
神は、私たちを選び、奴隷状態から救い出された、そういうことを学ぶのです。イスラエルも少しずつ理解していきました。私たちは、相手がいい人か嫌な人かで決めて遮断してしまいます。どういうつきあいをしたらいいか分からないのが人間関係でも、相手がどういう人か理解していくことが大事です。
助かった、万歳!だけではなく、この方がどういう方なのか、その側面が見えたということ。そしてここから、いろんな試練が始まって行きます。その都度、神がどういう方か更に分かっていくのです。
もう一つの側面は、私たち自身が神の戦いに参加していけるということです。神の戦いであるということは、自分が中心ではありません。「あなたの人生をわたしが戦う」と神が言われるのです。それに私たちが参加するのです。神が困難も喜びも成し遂げられます。人間関係はある意味戦いです。しかしそれも神が成し遂げてくださるのです。
この世では、おまえが自分で考えて何とかしろと言われます。しかし神の戦いなのですから、人生の主役は神です。人間関係に悩むとき、どうして聖書の言葉を守れないのか、だから上手く行かないと思うことがあるかもしれません、しかし本質は、どうやったらそれを守れるかではなく、どうしたら主が喜ばれるかです。
「律法が守れない」と相手や自分を裁きます。それは、皆さんが主役になっているからです。自分を疎外する相手をなぜ?と思い、裁きます。しかし神が主役であるなら、その主役を喜ばせるために、自分は何をしたら良いのかを考えられるのです。そして、裁くのではなく、探ることが出来るようになります。
律法をどう守らせるかを教えるより、それを守る喜びを教える方がいいに決まっています。その喜びを伝えることが教育です。ユダヤ人は、今日の箇所で、神は偉大であり人生の主役であることを表明しました。神は何を喜ぶかを考えること、それが私たちの人生を生き生きとさせるのです。
人生は確かに大変な重労働です。学ぶことも働くことも、生きることそのものが大変です。しかしそれは、自分が主役でなければならないと思っているからです。一歩引いて、神が主役であり、「神様、何か手伝うことがあったら行ってくださいくらい」の気持ちでいた方がいいのかもしれません。
神が成してくださる人生。また、「自分に何が出来るか」という姿勢。それがキリストの体である教会が成長するために大切なことです。キリスト者の人生は脇役に徹することです。神の脇役に徹することがどんなに素晴らしいことかということを学んで行きたいと願います。
「主の喜ばれることを」
***モーセとイスラエル人は主に向かってこの歌を歌った。アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手にとり、女達もタンバリンを持って踊りながら彼女について出てきた。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」***
ミリアムとは、モーセの姉です。ここは、出エジプトの中ではとても詞的であり美しい箇所といえます。とんでもないと思えるような神の業を目の当たりにし、溢れんばかりの感動に満たされている様子が伝わってきます。しかし、出エジプト全体から見るなら、この直後にイスラエルは神に対して文句を言いつづけるという現実があります。
イスラエルの何が問題だったのか?それを考えるのはいいことかもしれませんが、むしろ私たちはそれをどう捉えるべきかを考えていきたいと思います。
葦の海とは「紅海」のことです。エジプト軍から逃れたイスラエル人たちが、紅海の渇いた地面を渡り、岸辺に上がったと同時に海の水が戻って、多くのエジプト人が死に絶えました。それを確認の意味でもう一度記述しながら即興の歌を歌っています。タンバリンをもって、踊りながら、大変な喜びを見せています。助けられたこと、救われたことが土台であり、その中心は「神は偉大」という言葉です。
ある学者は、この箇所を1~6節、7~11節、12~16節の3つに分け、17,18節はエピローグだと主張します。それぞれ特徴があるからです。1つ1つに比喩やテーマが見えます。1つ目は、パロに対する神の圧倒的な力、優位性、強さです。2つ目は、自然や敵に対する支配性、そして3つ目は主の御手の大きさと聖なる方であること。統一しているのは、神はなんと偉大で、自然やあらゆる問題を支配し、聖い方であるかということです。それは、日本人の持ってきた信仰感とは違います。
日本人は、「問題が良きに変えられますように」と願い、その問題が解決した時には「ああ良かった」となり、どんな場合も中心にあるのは自分です。罪とは自己中心のことを指しますが、アダムとエバが善悪の実を食べた結果です。自分にとって都合がいいかどうかがテーマなのです。
出エジプト記に見るようなユダヤ人のリーダーたちにしても、新約聖書のリーダーたちにしても、どんな祈りを捧げているかを見るときに分かります。彼らはいつも、「神は偉大な方、全知全能」というところに持っていくのです。神が全能であるから、全てを解決してくれると理解してよいでしょう。
身の上に起きた事柄について、いいことであるなら「万歳」、悪いことなら「神は一体何をしているのか」となるのが日本人ではないでしょうか。今ある現状について、良いか悪いかではなく、ここに働く神の力を見ようとすること。それが今日のところに出てくるのです。
民はこれから成長していきます。この賛歌は神によって与えられ、神が語らせて下さいました。それは、単なる「助かって良かった」ということではなく、「神はなんと素晴らしい方なのか」というところです。
16節、「買いとられた」とは「贖われた」の意味です。贖(あがな)いとは、契約に基づく行為です。神が約束に基づいて、それに従い、民を買いとられたのです。それは奴隷から救い出すという意味であり、また、神のものとしたからにはずっと大事にするよという意味もあります。
ここで突然出てきたような話ではありません。長い歴史の中、アブラハムの頃より神と人間との契約があり、それは更新されてきたのです。「必ずあなたを救う」と。神の単なる気まぐれではなく、約束に基づいて成されたことでした。
3節、「主はいくさびと」とあります。これは神の戦いでした。詩篇など旧約聖書のいたるところに、万軍の主という表現が出てきます。神を「軍隊」としてとらえるのです。神は戦って下さっています。それは、私たちを取り戻すために。
私たちは神とつきあっているのです。結婚カウンセリングをするとき、お互いのどこが好きなのかという話になりますが、お互いのことなど何年つきあっても本当には分からないものです。しかし、つきあううちにどんどん分かっていきます。結婚は、全部分かった上でするものではありません。夫婦になって、少しずつ分かっていくのです。
神は、私たちを選び、奴隷状態から救い出された、そういうことを学ぶのです。イスラエルも少しずつ理解していきました。私たちは、相手がいい人か嫌な人かで決めて遮断してしまいます。どういうつきあいをしたらいいか分からないのが人間関係でも、相手がどういう人か理解していくことが大事です。
助かった、万歳!だけではなく、この方がどういう方なのか、その側面が見えたということ。そしてここから、いろんな試練が始まって行きます。その都度、神がどういう方か更に分かっていくのです。
もう一つの側面は、私たち自身が神の戦いに参加していけるということです。神の戦いであるということは、自分が中心ではありません。「あなたの人生をわたしが戦う」と神が言われるのです。それに私たちが参加するのです。神が困難も喜びも成し遂げられます。人間関係はある意味戦いです。しかしそれも神が成し遂げてくださるのです。
この世では、おまえが自分で考えて何とかしろと言われます。しかし神の戦いなのですから、人生の主役は神です。人間関係に悩むとき、どうして聖書の言葉を守れないのか、だから上手く行かないと思うことがあるかもしれません、しかし本質は、どうやったらそれを守れるかではなく、どうしたら主が喜ばれるかです。
「律法が守れない」と相手や自分を裁きます。それは、皆さんが主役になっているからです。自分を疎外する相手をなぜ?と思い、裁きます。しかし神が主役であるなら、その主役を喜ばせるために、自分は何をしたら良いのかを考えられるのです。そして、裁くのではなく、探ることが出来るようになります。
律法をどう守らせるかを教えるより、それを守る喜びを教える方がいいに決まっています。その喜びを伝えることが教育です。ユダヤ人は、今日の箇所で、神は偉大であり人生の主役であることを表明しました。神は何を喜ぶかを考えること、それが私たちの人生を生き生きとさせるのです。
人生は確かに大変な重労働です。学ぶことも働くことも、生きることそのものが大変です。しかしそれは、自分が主役でなければならないと思っているからです。一歩引いて、神が主役であり、「神様、何か手伝うことがあったら行ってくださいくらい」の気持ちでいた方がいいのかもしれません。
神が成してくださる人生。また、「自分に何が出来るか」という姿勢。それがキリストの体である教会が成長するために大切なことです。キリスト者の人生は脇役に徹することです。神の脇役に徹することがどんなに素晴らしいことかということを学んで行きたいと願います。
2009年3月7日土曜日
困難は主の戦い(出エジプト8)
第8回 出エジプト記14章1~31節(2009年3月1日)
「困難は主の戦い」
***イスラエル人が逃げたことを知らされるとパロは考えを変え、軍勢を率いて彼らを追跡した。臆することなく出て行ったイスラエルだったが、エジプト軍が迫っているのを見て彼らは非常に恐れ、主に叫んだ。モーセが杖を上げ、手を海の上にさし伸ばすと、海が分かれ、海の真中の乾いた地をイスラエル人が進んでいくことが出来た。エジプト人は追いかけてきて海に入ったが、主は水がエジプト軍の上に返る様にされ、残されたものは誰もいなかった。***
とても有名な箇所です。映画「十戒」を観た人なら、その場面を思い浮かべることが出来るでしょう。解放されたばかりの奴隷たちは、どんな思いで旅の始まりを迎えたのでしょうか。「主はモーセに告げて」と、何度も出てきます。いつも主が語って下さり、モーセに告げて仰せられました。あなたの判断でやれ、とは殆ど言われませんでした。
語ってくださることをどう聞くか、が私たちの姿勢です。その中でいろいろ考えるのです。主は私たちに理由やチャレンジを与え、その中で考え、行動せよと言っているのです。
2節、主は民に引き返して、海辺で宿営せよと言われました。なぜでしょうか?3、4節、イスラエル人が道に迷っているとパロが思い、彼が民の後を追えば、パロとその全軍勢を通して主が栄光を現し、エジプトは主を知るようになる、というのです。8節、イスラエルは臆することなく出て行きました。それは、ここに至るまでに、パロに対しての神の力を繰り返し見てきたからです。エジプト全土で初子の命が取られる中でもイスラエルが救われるのを目の当たりにして、神がおられ、自分たちを導かれることを確信していました。
しかし、10節。その確信は一転、非常に恐れた、とあります。私たちも、安心して日々を送っていても、何かの拍子に急に不安に陥るということがあります。絶えずゆらゆらしており、信仰とは何かと思うでしょう。この時、そのゆれ幅は大きくゆれているように見えますが、神に向かってだんだん小さくなっていきます。もし全く揺れないとしたら、それは「洗脳」です。私たちは罪人なので、揺れるのは当たり前のことなのです。自転車のハンドルは揺らした方がいいといいます。状況にあわせながら、神を中心にして揺れている間は前に進むのです。諦めてしまったり、人間がやることが全てなのだと思うなら、倒れてしまいます。
恐れに満たされた民は、言わなくてもいいことを言ってしまいます。11節、「エジプトには墓がないのであなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか」言葉で神とリーダーであるモーセを呪っています。これは責任転嫁です。しかしこれは、まだ彼らが成長してないからなのだと理解できます。
エジプトを脱出したのは、彼ら自身が決断によるものです。それを認めなければいけません。しかし責任転嫁をする。これは成長の段階です。このような場合、神と格闘し、祈ったら良いのです。主の怒りを買うこともありますが、私たちは出エジプトのどこも非難できません。それは、この中で民が確実に成長しているからです。
12節、エジプトにいた方が良かったと民は言います。その民に向かってモーセは、あなたがたのために行われる主の救いを見よと言います。これは、1つ目の訓練です。私たちの心がざわつくとき、「恐れてはいけない」という神のことばを合言葉にしたいと思います。アブラハム、モーセ、そしてヨシュアにも主がそのように語ったではないかと思い出すのです。
2つ目は、「主があなた方のために戦われる」ということです。ダビデがゴリアテと戦ったとき、それは神の戦いだとして戦い勝利を収めました。主が守られるのです。今の困難は神が戦ってくださる戦いなのです。
3つ目、「だからだまっていなければいけない」ということです。言いたいことを言っていいのです。主は何でも聞いてくださいます。しかし、どこかで黙る訓練も必要です。「黙って待つ」ことも教えて下さいます。
エジプト軍の戦車600台。もし、60進法を用いていたとしたら60は完全数ということになり、莫大な数という意味になります。世界で最も強い軍隊であるエジプト軍が、編隊を組んで追ってきた。イスラエルは絶望しますが、それと共に神の言葉が与えられました。現実は絶望的に見え、その状態が変わることは絶対にないように見えます。しかし、神の言葉はたしかにあるのです。現実だけがあるのなら、私たちは諦めてしまうか、自暴自棄になって犯罪を犯すかでしょう。しかしそこに神の言葉があるから、迷うことが出来ます。
「なぜ叫ぶのか、前進するように言え」と主は言われ、民は海の中を進めというのです。現実は変わらない。迷う。しかし、神の方向へ進めといわれたのです。「神が栄光を現すのを見るだろう」という言葉のみがあるだけでした。そこには決断しかありませんでした。
人生は決断の連続です。バプテスマを決断するということもそうです。現実を見、神の言葉に信頼して歩んでいくとき、主の確かな守りに気付いていきます。
Wet&Dryという言葉があります。不安でどうしようもないという時は、先を見ない方がいいのです。詩篇103篇では、未来を見るより過去を見ようと言っています。過去に主が何をして下さったか、どんなに良くしてくださったかを思い返すのです。たくさんの恵みと祝福を思い出し、落ち着くことができます。
Wetとは現実の雨です。一旦家の中に入って乾かして、また出て行くのです。乾かして落ち着いて、また準備をしましょう。未来のことばかりではなく、過去のことを思い返すときに、それは私たちの力になります。
全てのことは、神の栄光が現される方向で動いていきます。迷い苦しむ中、主の良くして下さったことを思い出して、改めて出て行くとき、そこに主は栄光を現されます。25節、「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられる」エジプトはイスラエルに勝てるわけがないと知りました。その艱難は、人でしょうか、環境でしょうか。物でしょうか。何であれ、それとの戦いは、背後におられる神が戦っておられるのです。神がそこに働いたと分かるということ、それが栄光を現すの意味です。私たちは主の栄光を現すための器です。
豊田みのり教会は、この地で6年間の開拓伝道を行ってきましたが、それはもう感謝以外にない6年間でした。人々が、みのり教会を通して、神の業を見てくださったこと知る時に大きな感動を覚えます。私たちが生活していくだけで、周りの人々に神を感じてもらえるようになっていくのです。
30節、「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」どんな気持ちで民はそれを見たのでしょう。まさか、ざまあみろというような気持ちでは無かったでしょう。エジプトが神をもっと早く知っていたら、こんな失敗はしなかったろうに。私たちはこうならないようにしよう。そのように思ったのではないでしょうか。これは、ざまあみろというようなレベルの事柄ではありません。ここから私たちは、どのように主の栄光を現すかということを学んでいくのです。
「困難は主の戦い」
***イスラエル人が逃げたことを知らされるとパロは考えを変え、軍勢を率いて彼らを追跡した。臆することなく出て行ったイスラエルだったが、エジプト軍が迫っているのを見て彼らは非常に恐れ、主に叫んだ。モーセが杖を上げ、手を海の上にさし伸ばすと、海が分かれ、海の真中の乾いた地をイスラエル人が進んでいくことが出来た。エジプト人は追いかけてきて海に入ったが、主は水がエジプト軍の上に返る様にされ、残されたものは誰もいなかった。***
とても有名な箇所です。映画「十戒」を観た人なら、その場面を思い浮かべることが出来るでしょう。解放されたばかりの奴隷たちは、どんな思いで旅の始まりを迎えたのでしょうか。「主はモーセに告げて」と、何度も出てきます。いつも主が語って下さり、モーセに告げて仰せられました。あなたの判断でやれ、とは殆ど言われませんでした。
語ってくださることをどう聞くか、が私たちの姿勢です。その中でいろいろ考えるのです。主は私たちに理由やチャレンジを与え、その中で考え、行動せよと言っているのです。
2節、主は民に引き返して、海辺で宿営せよと言われました。なぜでしょうか?3、4節、イスラエル人が道に迷っているとパロが思い、彼が民の後を追えば、パロとその全軍勢を通して主が栄光を現し、エジプトは主を知るようになる、というのです。8節、イスラエルは臆することなく出て行きました。それは、ここに至るまでに、パロに対しての神の力を繰り返し見てきたからです。エジプト全土で初子の命が取られる中でもイスラエルが救われるのを目の当たりにして、神がおられ、自分たちを導かれることを確信していました。
しかし、10節。その確信は一転、非常に恐れた、とあります。私たちも、安心して日々を送っていても、何かの拍子に急に不安に陥るということがあります。絶えずゆらゆらしており、信仰とは何かと思うでしょう。この時、そのゆれ幅は大きくゆれているように見えますが、神に向かってだんだん小さくなっていきます。もし全く揺れないとしたら、それは「洗脳」です。私たちは罪人なので、揺れるのは当たり前のことなのです。自転車のハンドルは揺らした方がいいといいます。状況にあわせながら、神を中心にして揺れている間は前に進むのです。諦めてしまったり、人間がやることが全てなのだと思うなら、倒れてしまいます。
恐れに満たされた民は、言わなくてもいいことを言ってしまいます。11節、「エジプトには墓がないのであなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか」言葉で神とリーダーであるモーセを呪っています。これは責任転嫁です。しかしこれは、まだ彼らが成長してないからなのだと理解できます。
エジプトを脱出したのは、彼ら自身が決断によるものです。それを認めなければいけません。しかし責任転嫁をする。これは成長の段階です。このような場合、神と格闘し、祈ったら良いのです。主の怒りを買うこともありますが、私たちは出エジプトのどこも非難できません。それは、この中で民が確実に成長しているからです。
12節、エジプトにいた方が良かったと民は言います。その民に向かってモーセは、あなたがたのために行われる主の救いを見よと言います。これは、1つ目の訓練です。私たちの心がざわつくとき、「恐れてはいけない」という神のことばを合言葉にしたいと思います。アブラハム、モーセ、そしてヨシュアにも主がそのように語ったではないかと思い出すのです。
2つ目は、「主があなた方のために戦われる」ということです。ダビデがゴリアテと戦ったとき、それは神の戦いだとして戦い勝利を収めました。主が守られるのです。今の困難は神が戦ってくださる戦いなのです。
3つ目、「だからだまっていなければいけない」ということです。言いたいことを言っていいのです。主は何でも聞いてくださいます。しかし、どこかで黙る訓練も必要です。「黙って待つ」ことも教えて下さいます。
エジプト軍の戦車600台。もし、60進法を用いていたとしたら60は完全数ということになり、莫大な数という意味になります。世界で最も強い軍隊であるエジプト軍が、編隊を組んで追ってきた。イスラエルは絶望しますが、それと共に神の言葉が与えられました。現実は絶望的に見え、その状態が変わることは絶対にないように見えます。しかし、神の言葉はたしかにあるのです。現実だけがあるのなら、私たちは諦めてしまうか、自暴自棄になって犯罪を犯すかでしょう。しかしそこに神の言葉があるから、迷うことが出来ます。
「なぜ叫ぶのか、前進するように言え」と主は言われ、民は海の中を進めというのです。現実は変わらない。迷う。しかし、神の方向へ進めといわれたのです。「神が栄光を現すのを見るだろう」という言葉のみがあるだけでした。そこには決断しかありませんでした。
人生は決断の連続です。バプテスマを決断するということもそうです。現実を見、神の言葉に信頼して歩んでいくとき、主の確かな守りに気付いていきます。
Wet&Dryという言葉があります。不安でどうしようもないという時は、先を見ない方がいいのです。詩篇103篇では、未来を見るより過去を見ようと言っています。過去に主が何をして下さったか、どんなに良くしてくださったかを思い返すのです。たくさんの恵みと祝福を思い出し、落ち着くことができます。
Wetとは現実の雨です。一旦家の中に入って乾かして、また出て行くのです。乾かして落ち着いて、また準備をしましょう。未来のことばかりではなく、過去のことを思い返すときに、それは私たちの力になります。
全てのことは、神の栄光が現される方向で動いていきます。迷い苦しむ中、主の良くして下さったことを思い出して、改めて出て行くとき、そこに主は栄光を現されます。25節、「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられる」エジプトはイスラエルに勝てるわけがないと知りました。その艱難は、人でしょうか、環境でしょうか。物でしょうか。何であれ、それとの戦いは、背後におられる神が戦っておられるのです。神がそこに働いたと分かるということ、それが栄光を現すの意味です。私たちは主の栄光を現すための器です。
豊田みのり教会は、この地で6年間の開拓伝道を行ってきましたが、それはもう感謝以外にない6年間でした。人々が、みのり教会を通して、神の業を見てくださったこと知る時に大きな感動を覚えます。私たちが生活していくだけで、周りの人々に神を感じてもらえるようになっていくのです。
30節、「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」どんな気持ちで民はそれを見たのでしょう。まさか、ざまあみろというような気持ちでは無かったでしょう。エジプトが神をもっと早く知っていたら、こんな失敗はしなかったろうに。私たちはこうならないようにしよう。そのように思ったのではないでしょうか。これは、ざまあみろというようなレベルの事柄ではありません。ここから私たちは、どのように主の栄光を現すかということを学んでいくのです。
主は力強く私たちを導かれる(出エジプト7)
第7回 出エジプト記13章1~22節(2009年2月22日)
「主は力強く私たちを導かれる」
***主はモーセに告げて仰せられ、モーセは民に言った。「イスラエルで生まれる初子は人であれ家畜であれ、主のために聖別せよ。」「奴隷の家であるエジプトから出てきたこの日を覚えていなさい。この月に、種を入れないパンを食べて、主が私たちにしてくださったことを覚え、後にそれを息子に説明しなさい。主が力強い御手であなたをエジプトから連れ出されたからである」***
エジプトを出る、準備の時を迎えています。私たちは、学年が新しくなったり、就職や進学、新年度を迎えるときにどんな助言が欲しいと願うでしょうか。毎朝、一日が始まる時に、一番最初に聞きたい言葉は何でしょうか。それは、「大丈夫だよ」という言葉ではないでしょうか。また、私たちは、結論を聞きたいと思うのではないでしょうか。
2節、神がモーセに告げられます。40年続く旅の最初に語られた神の言葉。それは、「あなたがたの初子を聖別せよ」ということでした。最初に生まれたものは家畜でも人の子でも、聖別、つまり捧げなさいということです。それは、「神のものとして歩んでいきましょう」ということです。
9節「主が力強い御手で、あなたがたをエジプトから連れ出されたからである」このフレーズは何回も出てきます。力強い御手が既に準備されている。だから大切なのは、その神に頼ることだということです。せっかく力強い御手があっても、それに頼らないなら全く意味がなく何にもなりません。
「初子を捧げる」とは、その表明です。神を信じる決断として、その子を見るたびに、神にこの子を捧げたと思い出すためです。神の導きを信じ、その御用のために用いてやってください、この地上において、神のため人のために仕える人としてください、ということです。
信じるという行為、それは、自分の表明をしなければなりません。その決断、表明に対して、大きな祝福と憐れみを受けるのです。一般的にも、一つの決断をしたなら、これをします、と表明します。ここでは、「捧げることを覚えよ」といわれているのです。
決して強制ではありませんが、例えば礼拝で捧げられる献金について。収入が入ったら、一番最初に献金をそこから取り分けること。初子とはそういう意味です。また、1週間のうち日曜は礼拝の日として捧げること。これも一つの決断です。それら一つ一つの決断を確認するため、この準備の時に、「初子を捧げよ」と神は仰せられたのです。それは、信じ続けるという点でとても大切なことです。
ノアの洪水が起こったとき、神は契約のしるしとして虹を示されました。虹を見るたび、主の約束を私たちが思い起こすためです。今、旅の準備をするにあたって、神を信じるためにイスラエル人たちがやるべきことを主は示されたのです。それを見るたびに思い出すためにです。今の私たちでいうなら、それは献金であり、日曜に礼拝を捧げることにあたります。
そして主は、順序を与えられました。17節、神が導かれた道すじについて書かれています。地図をみると分かりますが、カナンに向かうには通常3本の道があり、いずれもとられませんでした。川沿いか、内陸を通ってか、南へ下るか。神の示された道は全く違う道でした。それは、民がエジプトに引き返すといけないからです。海沿いには、エジプトの要塞、関所のようなものがあり、兵隊が多く駐在していました。長いこと奴隷だった彼らには、エジプトと戦う力はありません。何も教えてもらっていないからです。戦い方も、統制の知恵もありません。また精神的にも弱かったのです。
教育には時間がかかります。その成長の過程で、焦ってはなりません。信仰をもった後の自分の人生を見るときに、せっかく聖書に出会ったのに全く成長できていないではないか、と思う必要は無いのです。クリスチャンでなかったときは、奴隷状態でした。自分はダメな人間だと思い込み、そういう価値観でがんじがらめになっていたのです。今、そこから解き放たれて、自分自身を神の作品として見つめ、自分だけの人生を生きることが出来るようになったのです。「なのに、なぜ夫婦喧嘩ばかりしているのか・・・」などと思うかもしれません。しかし、まだ出始めです。ようやくこれから解放への道へと歩きだしたところです。もし劣等感がよぎったとしたら、「昔の自分はそうだった」と思えばいいのです。今からは違います。エジプトから出たのですから。
神の業が始まるとき、準備があり、順序があります。多治見にはカトリックの修道院がありますが、宣教200年計画というものがあるそうです。それくらい長い目で見ることも大切です。私たちは少しずつ成長していきます。最後に完成しますが、今の段階ではまだ見えていません。しかし、聖書の中の預言によって、それは約束されているのです。
14節、後になって子供たちに尋ねられたらこのように言え、とあります。「どうして教会に行ってたの。どうして信仰もったの」と子供たちに聞かれたら、「神は力強い御手で精神的霊的に奴隷だった私を連れだして解放したのだ」と子供たちに伝えるのです。まだ、ここでは、経験していないことです。しかし、約束されているのです。だから大丈夫、歩き続けなさいと主は言われます。それが、この恵みに与る一歩一歩になるのです。
26節、具体的な例として、雲の柱、火の柱のことが書かれています。今の私たちにとっては、教会であり、礼拝、祈りであります。小さな祈りで良いのです。これを与えて下さったと確認し、今日も使命を頂いていると確認、そして今日も守ってくださったと確認する、それが雲の柱、火の柱です。イスラエルがみことばに1つになっていったように、私たちも今日あたえられた御言葉「力強い御手で導かれた」を心に留めて歩み、将来子供たちにも伝えていきましょう。
「主は力強く私たちを導かれる」
***主はモーセに告げて仰せられ、モーセは民に言った。「イスラエルで生まれる初子は人であれ家畜であれ、主のために聖別せよ。」「奴隷の家であるエジプトから出てきたこの日を覚えていなさい。この月に、種を入れないパンを食べて、主が私たちにしてくださったことを覚え、後にそれを息子に説明しなさい。主が力強い御手であなたをエジプトから連れ出されたからである」***
エジプトを出る、準備の時を迎えています。私たちは、学年が新しくなったり、就職や進学、新年度を迎えるときにどんな助言が欲しいと願うでしょうか。毎朝、一日が始まる時に、一番最初に聞きたい言葉は何でしょうか。それは、「大丈夫だよ」という言葉ではないでしょうか。また、私たちは、結論を聞きたいと思うのではないでしょうか。
2節、神がモーセに告げられます。40年続く旅の最初に語られた神の言葉。それは、「あなたがたの初子を聖別せよ」ということでした。最初に生まれたものは家畜でも人の子でも、聖別、つまり捧げなさいということです。それは、「神のものとして歩んでいきましょう」ということです。
9節「主が力強い御手で、あなたがたをエジプトから連れ出されたからである」このフレーズは何回も出てきます。力強い御手が既に準備されている。だから大切なのは、その神に頼ることだということです。せっかく力強い御手があっても、それに頼らないなら全く意味がなく何にもなりません。
「初子を捧げる」とは、その表明です。神を信じる決断として、その子を見るたびに、神にこの子を捧げたと思い出すためです。神の導きを信じ、その御用のために用いてやってください、この地上において、神のため人のために仕える人としてください、ということです。
信じるという行為、それは、自分の表明をしなければなりません。その決断、表明に対して、大きな祝福と憐れみを受けるのです。一般的にも、一つの決断をしたなら、これをします、と表明します。ここでは、「捧げることを覚えよ」といわれているのです。
決して強制ではありませんが、例えば礼拝で捧げられる献金について。収入が入ったら、一番最初に献金をそこから取り分けること。初子とはそういう意味です。また、1週間のうち日曜は礼拝の日として捧げること。これも一つの決断です。それら一つ一つの決断を確認するため、この準備の時に、「初子を捧げよ」と神は仰せられたのです。それは、信じ続けるという点でとても大切なことです。
ノアの洪水が起こったとき、神は契約のしるしとして虹を示されました。虹を見るたび、主の約束を私たちが思い起こすためです。今、旅の準備をするにあたって、神を信じるためにイスラエル人たちがやるべきことを主は示されたのです。それを見るたびに思い出すためにです。今の私たちでいうなら、それは献金であり、日曜に礼拝を捧げることにあたります。
そして主は、順序を与えられました。17節、神が導かれた道すじについて書かれています。地図をみると分かりますが、カナンに向かうには通常3本の道があり、いずれもとられませんでした。川沿いか、内陸を通ってか、南へ下るか。神の示された道は全く違う道でした。それは、民がエジプトに引き返すといけないからです。海沿いには、エジプトの要塞、関所のようなものがあり、兵隊が多く駐在していました。長いこと奴隷だった彼らには、エジプトと戦う力はありません。何も教えてもらっていないからです。戦い方も、統制の知恵もありません。また精神的にも弱かったのです。
教育には時間がかかります。その成長の過程で、焦ってはなりません。信仰をもった後の自分の人生を見るときに、せっかく聖書に出会ったのに全く成長できていないではないか、と思う必要は無いのです。クリスチャンでなかったときは、奴隷状態でした。自分はダメな人間だと思い込み、そういう価値観でがんじがらめになっていたのです。今、そこから解き放たれて、自分自身を神の作品として見つめ、自分だけの人生を生きることが出来るようになったのです。「なのに、なぜ夫婦喧嘩ばかりしているのか・・・」などと思うかもしれません。しかし、まだ出始めです。ようやくこれから解放への道へと歩きだしたところです。もし劣等感がよぎったとしたら、「昔の自分はそうだった」と思えばいいのです。今からは違います。エジプトから出たのですから。
神の業が始まるとき、準備があり、順序があります。多治見にはカトリックの修道院がありますが、宣教200年計画というものがあるそうです。それくらい長い目で見ることも大切です。私たちは少しずつ成長していきます。最後に完成しますが、今の段階ではまだ見えていません。しかし、聖書の中の預言によって、それは約束されているのです。
14節、後になって子供たちに尋ねられたらこのように言え、とあります。「どうして教会に行ってたの。どうして信仰もったの」と子供たちに聞かれたら、「神は力強い御手で精神的霊的に奴隷だった私を連れだして解放したのだ」と子供たちに伝えるのです。まだ、ここでは、経験していないことです。しかし、約束されているのです。だから大丈夫、歩き続けなさいと主は言われます。それが、この恵みに与る一歩一歩になるのです。
26節、具体的な例として、雲の柱、火の柱のことが書かれています。今の私たちにとっては、教会であり、礼拝、祈りであります。小さな祈りで良いのです。これを与えて下さったと確認し、今日も使命を頂いていると確認、そして今日も守ってくださったと確認する、それが雲の柱、火の柱です。イスラエルがみことばに1つになっていったように、私たちも今日あたえられた御言葉「力強い御手で導かれた」を心に留めて歩み、将来子供たちにも伝えていきましょう。
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