2009年11月15日日曜日

安息日を守るために(出エジプト28)

第28回 出エジプト記31章1~18節(2009年11月8日)

「安息日を守るために」

***神はモーセに仰せられ、天幕を作るための技術者を任命された。また、話の最後に、安息日を厳守するように仰せられた。***


18節にある「二枚の板」。これは聖画にもよく登場しますが、「十戒」が書かれているものです。今まで、山の中で、モーセと神の話がどのように進んできたのかを学んできました。天幕の作り方について。また、その御用をする祭司の装束など、事細かに神は示されました。天幕は、高価な材料を用いて大変荘厳な造りにするように書かれています。

今日の個所の前半では、その技術者として素晴らしい人を任命しています。これは、現代でいえば、棟梁と副棟梁のようなものだといえます。

後半では、「安息日を守れ」ということを語り、そこで話を終えて、モーセは下山し、民のところへ帰っていきます。安息日の厳守が、神の最後の言葉でした。

安息日を守るとは何か。それは、休め、という神の命令です。その理由として、17節に「主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたから」とあります。

現代風にいえば、こうでしょうか。「日曜日は必ず休むように。休まなかったら死刑だ」と。そんな会社はありません。収益のために、出来れば日曜も出勤してほしいというのが本当のところでしょう。しかし、必ず休まなければならないのは、考えてみれば当たり前のことです。なぜなら、休まないなら、次の仕事が出来ないからです。

日本人は、働くことが一番大事だと教えられてきました。月月火水木金金といわれたように、休みは10日に1回でよい、いや、15日、1ヶ月に1回で良いのだと言われていました。日本人の牧師も、なかなか休暇をとれないということがありますが、これは、神の命令に背いて罪を犯しているということになります。なぜなら、休むということは生きるということだからです。

健康のために適度な運動をするように、と医者に言われると、毎日一生懸命やってしまう。それでは、体を壊してしまいます。また、記憶というものは、眠ることによって整理が出来るといいます。今、アメリカの教会学校では、睡眠の仕方について教えるそうです。教育上、睡眠がとても大切だというのです。ドイツには、眠りの神学という分野もあるそうで… とにかく、休むということがどれほど大事なことで、それをしなければ罰が与えられるのだと神が仰せられるのです。

休むとは、一体何でしょうか。安息日とは、どう関係しているのでしょう。私たちはこれまで、安息日とは神にささげる時間だと学んできました。安息日、すなわち礼拝を捧げるということは、動物などを捧げて殺し、自分の罪を赦してもらうという儀式であり、神にまみえる時でした。休むことと安息日の関係は一体何でしょうか。

マルコ12章には、やもめの献金についての記事があります。当時の最小単位であるレプタ2枚(今でいえば数十円でしょうか)を捧げた女性について、イエスは言われました。「この貧しいやもめは誰よりもたくさん献金しました。皆は有り余る中から入れたが、この人は自分の持っているものをすべて入れたからだ」と。

ここに登場するのは、貧しいやもめ、イエス、弟子たち、金持ちたち。当時、多くの献金が捧げられると、ドラを鳴らして賞賛するというような風習があったようです。イエスは、ここで、金持ちを悪く言っているわけではありません。やもめが一番たくさん入れたと言っているだけです。これは、彼女が、彼女自身の命をかけるものをそこに見つけていたということです。

献金は、額が問題なのではありません。私たちは、自分の命をかけるものに財を投げ打って捧げます。私たちがお金を一番かけるところが、私たちの命をかけているところだといえます。このやもめは、神に命をかけることを決断したのです。その日のもの全てを捧げました。神に期待し、全てをかけていくという姿勢がそこに表れているのです。

「平安と喜びを得るためにはどうしたらいいでしょうか」と問われたら、どう答えますか。お金をたくさん得ること。健康であること。どれも大事ですが、それだけでは足りないことを私たちは既に知っています。日本では、年間の自殺者が三万人を超えています。一方、アフガニスタンでは自殺をする人は一人もいません。明日生きていられるかわからないギリギリの日々の中で、自ら死のうという人はいないのです。日本では、生きていくのに困るということは殆どありません憲法で私たちの最低限度の生活は保障され、生活保護を受けることもできます。そのための市の職人がたくさんいます。自殺をする人の殆どは、普通の生活をしている人々です。

一つ言えることがあります。命をかけて何かを始めるなら、周りにあるものは見えなくなるのではないでしょうか。私たちには、それがあるでしょうか?世の人々に問うなら、命をかけるまでのことは、おそらく殆どの人が、ないと答えるでしょう。やもめは、神に命をかけました。だから全部を捧げました。彼女にも生活はありました。しかし、神が自分の今日、そして明日をになってくださると確信し、その証としての献金だったのです。

安息日とは、命をかけてそれを守るという確認のための礼拝です。神が私を造られました。私にしか生きられない人生を私が生き生きと生きることで、周囲の多くの人に良い影響を与えることができるよう、神がそのように私を造られました。どんな仕事でも、立場でも、何歳でも、何人でも、あなたがそこにいるということが、どれほど意味があって重要なことかということを知らなければなりません。

人生が上手くいかない。それは、神を拒絶して生きてきたからです。神に立ち戻り、自分にしか生きられない与えられた人生を生きるということ、それを安息日の礼拝で確かめるのです。だから安息日、礼拝はいのちそのものなのです。

ユダヤ人も、このときはまだ分かっていませんでした。だから、「安息日を守らないものは殺されなければならない」と神はいわれました。民数記には、安息日に焚き木を拾いにいってそれが見つかり、死刑になった人について記事があります。「だから、私たちはそこまでして礼拝を守らなければならない」…と読むなら、方向を間違えてしまいます。神は、命かけるものの確認のために、私たちに礼拝を備えて下さったのです。

本当の平安を持つためには、命がけのものを持つことです。自分を造ってくださった方を知り、その方と共に歩むということです。私たちの命がなくならないために、神にまみえよ、と主は仰せられるのです。

休め、と神が仰せられるのは、単に仕事を休んで寝て休む、ということだけではありません。もっと大切なのは、どう生きるかを確認することをしなければ、次への力とはならないということです。礼拝はいのちそのものであると、理解し続けていくのです。それは、右向け右で一気に分かるものではありません。少しずつ、本気で、理解していくこと。そのために祈り求めていくこと。礼拝のいのちそのものを味わっていくこと。出エジプトで学んでいるのは、それをユダヤ人たちは40年もかけてやってきたということです。私たちも長い時間をかけて、人、神との関係の中で、それを学んでいくのです。

2009年11月14日土曜日

神と共に働くもの(出エジプト27)★

第27回 出エジプト記29章1~25節(2009年11月1日)

「神と共に働くもの」


後日作成します。

2009年11月13日金曜日

選ばれた祭司(出エジプト26)★

第26回 出エジプト記28章1~30節(2009年10月25日)


「選ばれた祭司」


後日作成します。

2009年11月12日木曜日

神に感謝し捧げる(出エジプト25)

第25回 出エジプト記25章1節~22節(2009年10月18日)

「神に感謝し捧げる」


***神はモーセに告げて仰せられた。「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心からささげるひとから、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」そしてどのような奉納物を受け取るか、詳細に定められた。***


ここでは、神を礼拝する場所である「幕屋」の設計図が詳細に示されています。一見して、つまらないと感じられる個所かもしれません。しかしとても大事なことなので、大きくスペースを割いて書かれています。

途中に出てくるケルブとは、ケルビムの単数形であり契約の箱を守るものです。この幕屋とは一体何なのでしょう。現代に生きる私たちにとって、どんな意味のあるものなのでしょうか。

新約聖書ローマ人への手紙15章4節「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」ヘブル人への手紙9章23節~「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。・・・」

幕屋とはまず一つ目に、神と出会う場所でした。「会見の幕屋」と言われます。二つ目に、至聖所であり、十戒とアロンの杖の保管場所でありました。3つ目には、いけにえを捧げる場所でした。このようにして、神に礼拝を捧げる場所が幕屋でした。

実は、もう少し意味があります。先ほどのヘブル人への手紙には、イエスは模型の聖所に入ったのではなく、
天そのものに入られたのだとあります。旧約聖書の時代、イエスはまだ現れていませんでした。幕屋は、それそのものが、神の「影」でした。影とは、本物は別にあって、それが映っているものです。影を見ると、本物があることが分かります。

幕屋で行われることを見て、人々は、神がおられることが分かったのです。多くの大事なことは目に見えません。しかし、その実体を知るために、人は神を求め、教会につながります。「見えれば安心する」ということでは無いと、ユダヤ人たちは分かっていたのでしょう。奴隷状態だったエジプトから出てきて、たくさん物を持っていたら安心出来るということではないのだと。出エジプトという出来事を通して、神がいることこそが安心なのだと教えられていきます。

テレビで、ある評論家が、現代アジアの状態をこのように言っていました。日本人は、お金や物がたくさんあったら幸せというのは幻想であると既に気付いている。韓国は、分かり始めているけれど、突っ走っている。中国は、まだそれに気付いていない。

ユダヤ人は、本当に信頼できるのは物ではないのだということを、40年かけて学んでいきます。影を見て、神がおられると分かっていったのです。たびたび、民たちは神に不平、文句を言います。しかし、神は姿をあらわされません。人や物事を通してご自分を示されました。しかし、まだまだ足りないと人々はつぶやきます。

幕屋は、影です。25章の最初で、奉納物について神は「心から捧げる人たちからとれ」と言われました。影を見て生きる人が、捧げて造るのが幕屋でした。これは強制ではありません。物やお金ではなく、神がおられないならダメなのだと知った人が、捧げて影を造ること、そこから始めましょうと聖書は言っているのです。

信じるということは、私たちが捧げるところから始まります。約2000年前、イエスが来られて十字架にかかられたのは事実です。キリストの影は、教会です。教会がある以上、キリストは今もおられ、生きて働いておられます。

それぞれの人生には艱難があります。しかし、その中で神が何を教えようとしておられるかを知り、生き生きと生きることが出来るなら、イエスがその人におられる証拠であり、それは影となります。

礼拝を捧げるということ。その時間を聖別しようとしてきた人たちによって世界は成り立ってきました。日曜に、礼拝に行くよりもアルバイトをして稼いだ方がいいかも、と私たちは思うかもしれません。しかし、杉原千畝さん、新渡戸稲造さんなど、それぞれの立場でクリスチャンとして大変良い働きをされた方々がおられます。田中正造さんがクリスチャンだったかどうかは不明ですが、彼がいつも聖書に親しみ、マタイ伝に生きたということは知られています。

学問や医学など、もともとは、全て教会から、捧げるというところから始まりました。人生を主に捧げた人々から始まっていったのです。人生を主に捧げるとは、キリストの思いで生きるということです。

ユダヤ人は、幕屋から始めました。最上のものを捧げるために、とても細かく決めごとをしました。教会のミッションは、礼拝、交わり、学び、奉仕、宣教に献身していくことです。幕屋には、全てそれが集まっているものです。捧げるとは、私たちがより少なくなることではありません。受けるより与えることが幸いであるとイエスは語りました。私たちにはキリストが住んでいます。キリストの影を、私たちが、生き生きと生きることで、世に対して良い影響を与えることが出来ます。

幕屋は、大きな出発点でした。同じように、私たちの教会も出発の原点です。そこで生き方を教えられ、私たちの日々の現場で、周りの人々が変えられていくことを体験して行きましょう。


2009年11月11日水曜日

シナイ山への準備(出エジプト24)★

第24回 出エジプト記24章1~18節(2009年10月11日)

「シナイ山への準備」


後日作成します。

2009年11月10日火曜日

神の約束を学ぶ(出エジプト23)

第23回 出エジプト23章10~33節(2009年10月4日)

「神の約束を学ぶ」

***引き続き神は、安息年、安息日、祭り、また違反に対する警告などの定めについて語られた。***


休むということは大切です。私たちが「休めない」と感じる時、それは、不安から来ているかもしれません。仕事をしなければいけない、休んでいる場合ではないと自分をせきたてるのです。

聖書は、6日間働いて1日休むように勧めています。7分の1は休めということです。昔は、半月または一月に1日休みということが一般的でした。神は私たちに「休め」、また約束として「大丈夫」と語られるのです。しかし人間側の心としては、「本当に休んでいいものかどうか」「新婚旅行から帰ったら机が無いのではないか」などと不安に思うものです。

14節から、年に3度の祭りを行うようにとあります。1つ目は種を入れないパンの祭り。これは、過ぎ越しの祭りともいわれ、モーセとユダヤの民が災いから守られ出エジプトしたことを記念して行われます。2つ目は初穂の刈入れの祭り。これは現在のペンテコステ(聖霊降臨)を指しており、時期としてはイースターの後に行われます。3つ目は収穫祭。これらの祭りに、大麦、小麦、ぶどう・オリーブをそれぞれ献げよといわれました。17節「男子は主の前に」とありますが、男子とは代表の意味です。

祭りというと、献げものをして、収穫を祈るものだと考えるかもしれませんが、逆です。収穫を下さってありがとう、というのがその意味です。「大丈夫」というのが最初なのです。大丈夫、あなたはお祭りが出来るようになる。祭りの意味は、その都度、感謝することが出来るように、ということです。「何も持たずに前へ出てはならない」というのは、「収穫の多いのに気付きなさい」ということなのです。それは、こんなに沢山与えられていたのだという発見です。

祭りとは、「礼拝」と考えることが出来ます。礼拝とは、聖書のお話を聞くことが全てではありません。1週間それぞれが歩んできて、物質的精神的に、どんなに神に支えられ愛されてきたかを確認し、感謝を献げる、それが礼拝です。7日に1日休んで礼拝を捧げよというのは、心の休みをとりなさいということです。人間はすぐ何でも忘れてしまいます。週に一度集まって、礼拝を献げ、聖書を読み讃美歌を歌うときに、それを確認することが出来るのです。

結婚式でするお話ですが、今まで主語が「私は」だったものが、「私たちは」に変わる、それが結婚です。クリスチャンもある意味そうです。イエスに出会ってから、「私たちは」に変わり、それが礼拝の姿です。キリストに愛されている「私たち」、その感謝をささげるのです。

19節、「子ヤギを、その母親の乳で煮てはならない」とあります。これは、異教の習慣だったようです。私たちは、習慣・文化の中で、それが普通と思いこみつつ、実はとんでもない方向へ走っていくということがあります。カルトにのめりこむ人々は、自分ではその異常さに気づくことが出来ません。普通と思っているのです。スイカ割りをするときに、目隠しをされて歩こうとすると、自分ではまっすぐ歩いているつもりが、とんでもない方向へ向かって行くようなものです。

礼拝を献げるということは、私たちの感覚がともすれば狂ってしまうのを、安定させる役割もあるのです。20節、「わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」1週間のうち1日の礼拝。それは、世の人には大変なことだと映るかもしれません。しかし、主は、物質的・霊的・精神的に祝福すると明確に約束して下さっています。だから、安心しなさいと語られるのです。

とはいえ、どんなに主イエスを思っていても、外れていくということはあります。それがサタンの仕事です。クリスチャンでなくても、素晴らしいことが出来る人はこの世に大勢います。そうなると、イエスが神であると信じる必要がどこにあるのか、と思えることがあるかもしれません。私たちが外れていくとき、その外れ方はとても微妙なものです。「これもいいのでは?」と、人間の判断で少しずつ外れ、狂っていくのです。しかし、その時に神から問われます。外れないために、私たちを造った方は何と言われるのか、十字架のイエスが何といわれるかを私たちは聞かなければなりません。その方を知り続けることをしなければ、私たちは簡単にサタンの誘惑に陥っていくでしょう。

32節、他の神々と契約を結んではならないと語られます。主なる神は、私たちを必ず祝福すると約束されました。ただ単に、これをしてはダメだ、と言われたのではありません。ユダヤの民は、世界中どこにいても、毎日同じ聖書の個所を読み続けています。それを4000年の間も続けてきたのです。神は、約束なしには、言葉を発せられない方です。全てのことに意味があり、また、主の約束がそこにあるのです。


2009年11月9日月曜日

正義に生きよう(出エジプト22)

第22回 出エジプト記23章1~9節(2009年9月27日)

「正義に生きよう」

***引き続き、主の掟について。訴訟において、権力者に偏るのも、貧しい人を特に重んずることも良くないとされるなど、事細かに定められた。***


主はルールを定められました。それは、民が一つの方向へ向かうためにとても大切なことでした。1節、「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」とありますが、これは一体、法律なのか、それとも情けに関わってくるものなのか、と思いませんか。前回、殺人罪についての規定から学びましたが、今回は訴訟についての学びです。

証人とは、法律用語です。悪意とは、相手を陥れてやろう…という意味もありますが、「意識してなくて」という意味も入ります。故意過失という言葉があり、良く分からないのにいい加減な証言をしてはいけないということも含んでいるのです。そのいい加減さが、相手を不利な立場に陥れていくからです。

たとえば、最近問題になっている痴漢冤罪など。本当はその人はやっていないのに、まるで見たかのような気になっていい加減な証言をするということがあります。交通事故で万が一加害者になったら、事故現場にいって一日考えることが大切です。本当のところ自分はどうだったのか、信号は青だったのか赤だったのか。でなければ、もしかして自分に過失がないところまで、流れによって及んできてしまう可能性があります。このように、悪意だけでなく、「いい加減さ」も大変困ることです。

2節、「悪を行う権力者の側に立ってはならない。」とあります。普通に考えるなら、権力者側に付く方が良いからです。なぜなら、権力者に対して私たちはNoと言えません。ともすれば悪を行う権力者の側に立ってしまう、そうなりかねない私たちだから、聖書はこう書くのです。人気のある指導者であったとしても、偏ってはいけません。日本の政治でいえば、あの小泉人気は一種の集団ヒステリーであり、異常でした。

3節、「貧しい人を特に重んじてもいけない」とあるのが、聖書のすごいところです。当時の法律にこういう文言はありません。情として、貧しい側に立ちたいとも私たちは思ってしまいます。ここで教えられるのは、聖書が教えるのは、「公平」ではなく、「公正」だということです。

公正とは公に正しいと書きますが、それは神が真ん中にいるかどうか。神の発想で物事をとらえられるかどうかということです。私たちの概念は常に「公平」です。ところで、公平とは、そんなに良いことばかりでしょうか?個性、環境、男女、国籍、全てにおいて違いばかりの私たちです。同じ教育を受けたとしても、それぞれ結果には差が出るのです。聖書では、実は公平という概念はあまり出てきません。

神の発想とは何でしょうか。4~5節、「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」とあります。敵の牛やろばです。起こしてやりたくなくても、起こすのです。「それは自己責任だから、私は知らない」と言うなら、それが神の目に正しいかどうか?その人物を憎んでいたとしても、そのロバは神の作品であり、それを管理しているその人がいる、ということ、それが神の発想です。ロバの気持ちを代弁するなら、「私も神の作品だから、大切にして下さい」というところでしょうか。

読み進んで行くと、土地も休ませるようにと、聖書は連作を禁止しています。ここでは、「土地が叫ぶ」という言語が用いられています。

世の中は動物愛護の風潮が高まっています。同じ哺乳類でも、牛は食べても良くて、イルカは食べてはいけない。何故かといえば、牛は馬鹿でイルカは頭がいいからと言います。聖書によれば、そもそも全ての動物が草食でした。そしてある時、食物としてこれを与えると神が宣言されました。人間はその頭として、動物は大切にしなければならないが、同時に管理することが許されたのです。神の正しさの中で、動物を大事にし、また、食べても良いとされたということです。

イルカは頭が良いから食べてはいけないという考えは、公平の概念から来ています。能力のないものは食べても良い、平均値より低いのだから、という考えです。平等とは私たちにとって大事ではありますが、公平と公正その両方を分けて考えなければなりません。公正、つまり神の言葉を基準に考えるのです。

6節~8節は、正しい裁判についての記述です。賄賂がどんなに世の中をダメにしているでしょうか。出エジプトして、何百万の人が共に一つの目的に向かうとき、こういったことが一番悪いことです。それは単に、ルールを守ったら良いという問題ではありません。こういうこと、つまり、神の言葉をおきざりにし、人間中心主義ヒューマニズムに陥っていくことが、実はとても怖いことなのです。

ある教会では、ヒューマニズムを大切にし、社会活動に専念するところもあります。しかし、真の意味で私たちが生き生きと生きるためには、神の公正がこれであるとはっきり伝えていくことの方が大事です。人間中心ではなく、神中心だという、その公正です。

自分の正しさ感で、貧しい人や権力者に偏るのではなく、常に神の方だけに向いていきましょう。神の言葉に身を置いて、一つ一つのことを生活の中で、神が何を言わんとしているかを問い続けていきましょう。