第4回目 出エジプト記4章10節~17節(2009年1月25日)
「総力を用いて生きる」
***エジプトに戻って民を導くよう主なる神が仰せられたのに対して、モーセは自分には力がないから他の人を遣わしてくださいと言った。しかし主は、「誰が人に口をつけたのか。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」と仰せられた。***
ユダヤ人にとって、「第1の預言者」と言われるモーセ。生まれてからの40年間エジプトの最高の教育を受け、その後の40年は、野の中に逃げて羊飼いとして生活しました。今やモーセは80歳になっています。そのモーセに、主なる神が、「エジプトに戻り、ユダヤ人たちを引き上げて来なさい」と言われたのです。
モーセは答えます。10節「ああ主よ、私はことばの人ではありません。口が重く、舌が重いのです」世の中には、弁舌の巧みな人もいれば、話ベタな人もいます。モーセは後者だったのです。だから、ユダヤ人を導き出すなど出来ないというわけです。
しかしこれは、おかしな応え方ではありませんか。ユダヤ人を導き出すということを、話上手でなければ出来ないことだという前提がモーセにあるので、こういう応え方になるのでしょう。
私たちは、何か起きたときに、すぐ反応します。自分の常識の中で、物事を判断するのです。「あなたが○○が上手いから、○○の技術が必要だから、それを練習して行け」、などと主は言っていません。「連れ出せ」の一言のみです。それに対してのモーセの応答は、「自分は言葉の人ではない」でした。
主は仰せられます。11節「誰が人に口をつけたのか。誰が口を聞けなくしたり、耳を聞こえなくしたり、あるいは目をあけたり、盲目にしたりするのか。それは、このわたし、主ではないか」
主は、「大丈夫、あなたは弁舌が巧みになる」と言われたのではありません。あなたを造ったのは誰だというのか。あなた以上にあなたを知っているのは、このわたしだ。口下手というのなら、言うべきことはわたしが教える(12節)といわれたのです。
モーセは、そこに劣等感を持っていたのでしょう。そこで抗弁するのです。「だって、○○が出来ません。」「○○にいたのですから」しかし、神は言われるのです。「わたしはあなたに、最高のものとして与えたはずである」と。そして、それを「使え」とは、一言も言われなかったのです。
生きるとは、総力戦です。私たちの身体は、目だけで仕事をしませんし、足だけでもしません。身体全体を使って、全てのことをしています。偏頭痛がどのように起きるのかを愛知医大の先生に聞いたことがあります。私たちの見ているものが、歩く度に揺れているとしたら気分が悪くなりますが、その上下運動を脳がパソコンのようにプログラミングし、いつも揺れないでいられるように制御されるため、まともに歩けるのだと。偏頭痛は、その機能が弱くなると起きるといわれました。私たちは歩くとき、足のみでなく、目、脳などフルに使って、その視点の位置を定め、バランスをとって、やっと一歩を踏み出せるというわけです。その1歩に、身体全体の総力をあげているのです。
200万人から250万人もの、奴隷の民。奴隷という身分の彼らには、アイデンティティはありません。どうせ俺達は・・と、全てを諦めてしまっている人々です。彼らを導いて一国を造ろうというのは、どれほど大変なことでしょうか。
国を造りあげるために、教育は大切です。万里の長城は、莫大な金と人夫によって造られましたが、番兵の教育を忘れました。そのためにやすやすと穴をあけられ、国が滅んでいきました。モーセはこの後、40年間、民を教育しつつカナンへ導くことになります。
13節、「どうか他の人を」と懇願するモーセに対し、主の怒りが燃え上がります。ここだけを見ても、モーセは「第1の預言者」と呼ばれるにふさわしい、神々しいひとでも偉大な人でもありません。でも、主は見捨てられませんでした。口達者でないことが自分のウィークポイントだと言うのなら、あなたの兄アロンがいるではないか、と言われます。
決して「アロンを遣わす」とは言われません。主が選んだのは、あくまでもモーセです。モーセに足りないところがあれば、アロンにと、しかもアロンはモーセの兄です。ここで、主の言葉が、「あなた」から「あなたがた」へと変わりました。
私たちは、才能が無いからといって嘆きます。才能が無いから出来ない、というのです。しかし、大切なことは「約束の地に入ること」です。そして、「私たちは」という主語を使うことです。
「私が」幸せになりたい、と言っている間は、決して幸せにはなれません。「私たちが」と、主語が変わるときに、結婚や家庭が上手くいくのです。モーセを選んだ主の言葉、「あなた」から「あなたがた」とその主語が変わったのは、「ユダヤ人全体」という意味です。この後、エジプトに戻ったモーセは、様々な戦い、葛藤の中におかれます。モーセの働きは、主とユダヤ人の取次ぎのようなものでした。そこに徹したのです。群れが群れとして生きていくとき、個人がどこに徹するかで、その群れが変わります。自分がどこに徹するのかは主によって語られ、教えられます。
250万人もの人々の、40年の荒野での旅が始まろうとしています。「私が」という主語ではなく、「私たちが」さらには、「あなたが」が多くなっていくことが大切です。それを学ぶためにモーセはリーダーにさせられ、人々をまとめて行きました。総力で生きる。私たちは、一人で生きるのではなく、交わりの中でどう生きるか、です。その視点に立ったときに、がんじがらめの価値観から解き放たれます。奴隷からの解放です。皆さん一人一人が、解き放たれて、生き生きと生きるということが「解放」なのです。
2009年1月31日土曜日
2009年1月26日月曜日
神のご計画を受ける(出エジプト3)
第3回目 出エジプト記3章1節~22節(2009年1月18日)
「神のご計画を受ける」
***ミデヤンの地で羊飼いとして生きていたモーセに主の使いが現れた。ホレブの山で、燃えているのに焼き尽きない柴の中から主がモーセを呼ばれ、モーセがこれからユダヤの民をエジプトから脱出させるために遣わすといわれた。***
100年の一度といわれる経済不況。それに過剰に反応して、真実が見えなくなるとしたら怖いことです。松下幸之助という人は、どんな不況下でも一人もクビにしなかったそうですが、今現在実際にあるのは、合理的な考えによる派遣切り、そして前に進もうとする企業の姿。しかし、本当は別の道、考え方があるのではないでしょうか?ある法則に従って、こういうことが起きたら会社がダメになる、この人は良くて、この人はダメだと、私たちは決め勝ちですが、それは進化論的発想が土台になっています。弱い人は自分の責任で死んでいってくださいと言っているようなものです。
出エジプトを読むとき、人間の弱さを見ます。登場する人物が何と弱いのか。モーセは殺されるべき赤ちゃんでした。それがなんと王女に拾われてエジプトの王子として育てられ、しかし殺人を犯し、ミデヤンに逃れました。この主人公が何と弱い存在かと思います。しかし神は見捨てませんでした。モーセは神と共に成長しました。あらゆる艱難を通り、「あの預言者モーセ」と現代のユダヤ人にもいわしめる存在となりました。
新約聖書に、乗り越えられない艱難は無いのだとありますが、出エジプトでもそれを見ることができます。40年エジプトという大都会で、最高の学問、文化文明を享受したモーセが、今度は40年間、大自然の中で羊飼いとして放牧の暮らしをしました。今日の箇所では、モーセは80歳になっています。ところでモーセの態度が、以前とは変わってきているのではないでしょうか。2節、主の声が柴の中からし、「あなたのくつを脱げ、ここは聖なる地である」と言われます。ユダヤでは、聖なるところでクツを脱ぐという文化がありました。クツを脱ぐとは従うという態度を示します。
裁き司のようだったモーセが、この40年の間に変わったのではないでしょうか。自然の中で、従わなければならないということを学ばされた。所謂いいとこのボンボンだった彼は、傲慢だったかもしれません。傲慢になるのは、自然の中で生きてこなかったからです。自然には何をもってしても勝つことが出来ません。かつてチェルノブイリで原発事故があった後、1万年または数万年、そこは死の世界となり命は育たないだろうと言われました。ところがあれから100年もたっていないのに、草が生え、自然が戻ってきているというのです。自然とは何と強く偉大でしょうか。
モーセはミデヤンでの40年の間に、徹底的に学ばされたのです。「従うべきこと」そして、エジプトにいた40年は、「従わせる」ことを学んだのかもしれません。どちらも、リーダーとして学ぶべき大事なことです。私たちは、親として子を従わせなければならないのと同時に、会社では従わなければならないからです。従うことを学ぶのは、同時に従わせることを学ぶことでもあります。
6節から、主は、自分が誰であるかをモーセに話して聞かせます。また、モーセが捨ててきたユダヤの同胞たちを自分はずっと見ているよと言われたのです。モーセはどんな気持ちだったでしょう。自分を受け入れなかったユダヤ人を恨んでいたかもしれません。また、ミデヤンでゆっくりと余生を送りたかったかもしれません。しかし、苦しむ同胞を導くために、あなたを選んで遣わすと主は言われるのです。
モーセは40年間、神を忘れたわけではありませんでした。しかし、最悪な状況のなか、命からがら逃げてきて、今になって主にそのように言われたからといって、すぐに従えるはずもありませんでした。「私はいったい何者なのでしょう。」そのような立場ではないのだと訴えます。
主は、「私はあなたと共にいる」ということを柴が燃えることで示されました。14節、「わたしは『わたしはある』というものである」と言われました。ユダヤ人は神という言葉を発しません。それは彼らにとってあまりにも畏れ多いことだからです。「あってあるもの」それは、過去、現時、未来も、同時にいる、ということです。神の普遍性を示しているのです。人間は誰も、今しか生きていません。時間は一定に流れています。しかし、時間というのは実は一定ではないといいます。一人一人流れ方が違うのだと。それは心理学的に違うということでしょう。小学校の6年間と、中高年の6年間は、まったく違う感じ方になります。12年間生きてきた中の6年間は人生の半分だから長く感じるでしょうし、60年生きたなかの6年はたった1割です。
神とは、そういった時間の概念から全く外れたものです。そして、ここにも、あそこにも居られます。私たちには理解できません。理解できたとしたらその人は「神様」でしょう。時間にも場所にも束縛されないで、全てを統治される、それが神です。「わたしはある」それは、あなたがたとは次元の違う方であるということを言え、ということなのです。
そして、主は、エジプトで何が起こるかを順番にモーセに話します。まず長老たちに会って、パロ王のところへ行け、しかし王はなかなか民を行かせないだろう。わたしはそのことをよく知っている、と。預言、というか、神のご計画を語られたのです。そして、エジプトで民が働いた分だけはちゃんと持ってこいと言われました。
モーセはこの時、80歳。エジプトで40年、ミデヤンで40年。そしてこの後、出エジプトを通してまた40年間の旅をするということになります。そしてイスラエルという国家が出来ていきます。一人で終るならそれまでですが、たくさんの人が集まって組織となり、そして国が出来るのです。単に集まれば出来るということではありません。一つの国民として協力していくとは何かをこれから40年間かかって教えていくのです。大切なのは、歩きながら、ユダヤ人が一つの国になるということを学ぶこと。そして、その40年はモーセが本当のリーダーになるための学びでありました。
モーセを励まし、時には叱咤しながら、神が彼を選ばれたということは、「大丈夫、わたしがいつも共にいる、リーダーになっていける」と主がいわれているのです。神のご計画とは、今だけを見ても全然わかりません。しかし、何か意味があるのです。それは、いつか何かが良くなるというレベルのものではなく、この期間を通してあなたが大きく成長していくことが出来るという約束です。奴隷だった民が、国家を作るということ。国を作るとは本当に大変なことでしょう。家族一つまとめるのさえ大変なのですから。
今まさに引退しようとしているモーセを用いて、神は国を造ろうとされます。しかも奴隷である人々を導いて・・・奴隷とは、言われたとおりしかやってこれなかったのですから何もかも未熟な人々です。しかし、イスラエルは今や世界一民主主義的な国といわれる程に成長しました。彼らは自分の国を誇りとし大切にしています。
この試練の中、期待していいのです。主にあって、最高のことになっていくでしょう。その経緯を通して、人生そのものが変えられるという希望を持っていいのです。モーセは、今まで奴隷としての発想しか出来なかった人々たちを変えて、大いなる強い国にし、今なお残る国家としていくため用いられていきます。
モーセを読むとき、同じように私たちも期待され、聖書を通して主が語りかけてくださっています。モーセを見よ。どれほど神に守られ、成長し、強くなっていくことか。それはあなた自身の人生でもあると。モーセを通して主が私たちに語りかけてくださっているのです。
「神のご計画を受ける」
***ミデヤンの地で羊飼いとして生きていたモーセに主の使いが現れた。ホレブの山で、燃えているのに焼き尽きない柴の中から主がモーセを呼ばれ、モーセがこれからユダヤの民をエジプトから脱出させるために遣わすといわれた。***
100年の一度といわれる経済不況。それに過剰に反応して、真実が見えなくなるとしたら怖いことです。松下幸之助という人は、どんな不況下でも一人もクビにしなかったそうですが、今現在実際にあるのは、合理的な考えによる派遣切り、そして前に進もうとする企業の姿。しかし、本当は別の道、考え方があるのではないでしょうか?ある法則に従って、こういうことが起きたら会社がダメになる、この人は良くて、この人はダメだと、私たちは決め勝ちですが、それは進化論的発想が土台になっています。弱い人は自分の責任で死んでいってくださいと言っているようなものです。
出エジプトを読むとき、人間の弱さを見ます。登場する人物が何と弱いのか。モーセは殺されるべき赤ちゃんでした。それがなんと王女に拾われてエジプトの王子として育てられ、しかし殺人を犯し、ミデヤンに逃れました。この主人公が何と弱い存在かと思います。しかし神は見捨てませんでした。モーセは神と共に成長しました。あらゆる艱難を通り、「あの預言者モーセ」と現代のユダヤ人にもいわしめる存在となりました。
新約聖書に、乗り越えられない艱難は無いのだとありますが、出エジプトでもそれを見ることができます。40年エジプトという大都会で、最高の学問、文化文明を享受したモーセが、今度は40年間、大自然の中で羊飼いとして放牧の暮らしをしました。今日の箇所では、モーセは80歳になっています。ところでモーセの態度が、以前とは変わってきているのではないでしょうか。2節、主の声が柴の中からし、「あなたのくつを脱げ、ここは聖なる地である」と言われます。ユダヤでは、聖なるところでクツを脱ぐという文化がありました。クツを脱ぐとは従うという態度を示します。
裁き司のようだったモーセが、この40年の間に変わったのではないでしょうか。自然の中で、従わなければならないということを学ばされた。所謂いいとこのボンボンだった彼は、傲慢だったかもしれません。傲慢になるのは、自然の中で生きてこなかったからです。自然には何をもってしても勝つことが出来ません。かつてチェルノブイリで原発事故があった後、1万年または数万年、そこは死の世界となり命は育たないだろうと言われました。ところがあれから100年もたっていないのに、草が生え、自然が戻ってきているというのです。自然とは何と強く偉大でしょうか。
モーセはミデヤンでの40年の間に、徹底的に学ばされたのです。「従うべきこと」そして、エジプトにいた40年は、「従わせる」ことを学んだのかもしれません。どちらも、リーダーとして学ぶべき大事なことです。私たちは、親として子を従わせなければならないのと同時に、会社では従わなければならないからです。従うことを学ぶのは、同時に従わせることを学ぶことでもあります。
6節から、主は、自分が誰であるかをモーセに話して聞かせます。また、モーセが捨ててきたユダヤの同胞たちを自分はずっと見ているよと言われたのです。モーセはどんな気持ちだったでしょう。自分を受け入れなかったユダヤ人を恨んでいたかもしれません。また、ミデヤンでゆっくりと余生を送りたかったかもしれません。しかし、苦しむ同胞を導くために、あなたを選んで遣わすと主は言われるのです。
モーセは40年間、神を忘れたわけではありませんでした。しかし、最悪な状況のなか、命からがら逃げてきて、今になって主にそのように言われたからといって、すぐに従えるはずもありませんでした。「私はいったい何者なのでしょう。」そのような立場ではないのだと訴えます。
主は、「私はあなたと共にいる」ということを柴が燃えることで示されました。14節、「わたしは『わたしはある』というものである」と言われました。ユダヤ人は神という言葉を発しません。それは彼らにとってあまりにも畏れ多いことだからです。「あってあるもの」それは、過去、現時、未来も、同時にいる、ということです。神の普遍性を示しているのです。人間は誰も、今しか生きていません。時間は一定に流れています。しかし、時間というのは実は一定ではないといいます。一人一人流れ方が違うのだと。それは心理学的に違うということでしょう。小学校の6年間と、中高年の6年間は、まったく違う感じ方になります。12年間生きてきた中の6年間は人生の半分だから長く感じるでしょうし、60年生きたなかの6年はたった1割です。
神とは、そういった時間の概念から全く外れたものです。そして、ここにも、あそこにも居られます。私たちには理解できません。理解できたとしたらその人は「神様」でしょう。時間にも場所にも束縛されないで、全てを統治される、それが神です。「わたしはある」それは、あなたがたとは次元の違う方であるということを言え、ということなのです。
そして、主は、エジプトで何が起こるかを順番にモーセに話します。まず長老たちに会って、パロ王のところへ行け、しかし王はなかなか民を行かせないだろう。わたしはそのことをよく知っている、と。預言、というか、神のご計画を語られたのです。そして、エジプトで民が働いた分だけはちゃんと持ってこいと言われました。
モーセはこの時、80歳。エジプトで40年、ミデヤンで40年。そしてこの後、出エジプトを通してまた40年間の旅をするということになります。そしてイスラエルという国家が出来ていきます。一人で終るならそれまでですが、たくさんの人が集まって組織となり、そして国が出来るのです。単に集まれば出来るということではありません。一つの国民として協力していくとは何かをこれから40年間かかって教えていくのです。大切なのは、歩きながら、ユダヤ人が一つの国になるということを学ぶこと。そして、その40年はモーセが本当のリーダーになるための学びでありました。
モーセを励まし、時には叱咤しながら、神が彼を選ばれたということは、「大丈夫、わたしがいつも共にいる、リーダーになっていける」と主がいわれているのです。神のご計画とは、今だけを見ても全然わかりません。しかし、何か意味があるのです。それは、いつか何かが良くなるというレベルのものではなく、この期間を通してあなたが大きく成長していくことが出来るという約束です。奴隷だった民が、国家を作るということ。国を作るとは本当に大変なことでしょう。家族一つまとめるのさえ大変なのですから。
今まさに引退しようとしているモーセを用いて、神は国を造ろうとされます。しかも奴隷である人々を導いて・・・奴隷とは、言われたとおりしかやってこれなかったのですから何もかも未熟な人々です。しかし、イスラエルは今や世界一民主主義的な国といわれる程に成長しました。彼らは自分の国を誇りとし大切にしています。
この試練の中、期待していいのです。主にあって、最高のことになっていくでしょう。その経緯を通して、人生そのものが変えられるという希望を持っていいのです。モーセは、今まで奴隷としての発想しか出来なかった人々たちを変えて、大いなる強い国にし、今なお残る国家としていくため用いられていきます。
モーセを読むとき、同じように私たちも期待され、聖書を通して主が語りかけてくださっています。モーセを見よ。どれほど神に守られ、成長し、強くなっていくことか。それはあなた自身の人生でもあると。モーセを通して主が私たちに語りかけてくださっているのです。
2009年1月17日土曜日
備えられた人モーセ(出エジプト2)
第2回目 出エジプト記2章1節~25節(2009年1月11日)
「備えられた人モーセ」
***あるレビの家で男の赤ちゃんが生まれた。母は、3ヶ月その子モーセを隠していたが、隠しきれなくなりカゴにその子を入れてナイルの岸の葦の茂みに置いた。パロの娘が水浴びをしようと降りてきてカゴを見つけ、その子をあわれに思い、自分の息子として引き取った。モーセが大人になって、同胞ユダヤ人の苦役を見、あるエジプト人が一人のヘブル人を打っているのをみて、義憤にかられ、そのエジプト人を殺して隠した。あくる日ヘブル人同士が争っているのを見て止めに入ったモーセにヘブル人が「エジプト人を殺したように私も殺すのか」と言うのを聞いて恐れ、パロもそれを聞いてモーセを殺そうとしたため、モーセは逃れてミデヤンの地に住んだ。そこで祭司の娘であるチッポラと結婚した。***
連日、イスラエルのガザに対する攻撃について報じられています。この戦争の背景には、はるか遠い歴史が深く関係していることを覚えなければなりません。その昔エジプトにいたユダヤ人たちがエジプトを脱出し、長い旅の末に約束の地カナンにたどり着きました。そういった歴史的な流れを理解することは、今を理解するためにとても大切です。政治的、社会的にしか普通は捉えられませんが、彼らの中に、聖書の神の理解、不理解があり、それがうごめいているのです。一時は、仲良く暮らしていた時期もありましたが、政治的におかしくなっていきました。覚えておかねばならないのは、彼らの救い主の概念は違っても、両者とも同じように神を慕っている民族であるということです。
2章は、モーセの誕生、そしてミデヤンに逃れるところまで記されています。物語としてとても早い展開です。レビ族の赤ちゃんとして生まれたモーセ。ここで父の名が記されていないのは、彼が普通の人だったからでしょう。(6章を見ると家系について書かれており、アムラムという名前だったとわかります。)モーセが生まれたとき、ヘブル人の男の赤ちゃんは皆殺せという命令が出ていたため、母は3ヶ月も隠していました。しかしとうとう、カゴに入れてナイル川に流します。誰かに拾ってほしいという願いを込めてそうしたのでしょう。そしてパロ王の娘、つまり王女にモーセは拾われ、王家の子として成長することになります。
使徒7:22を見ると、40歳になるまでモーセはエジプトにいたと分かります。エジプトのあらゆる技術を学び、最高の知恵、学問を頭に入れ、体で経験していったのです。
ある時、エジプト人が一人のユダヤ人をいじめているのをみて、義憤にかられたモーセはそのエジプト人を殺してしまいます。悪いとは思わなかったでしょう。同胞ヘブル人を迫害するとは何事かと。モーセはそれを隠蔽しました。翌朝、ヘブル人同士が争っているのを見て和解させようとしたところ、「おまえはエジプト人を殺した」といわれ、恐れ、逃げます。
モーセは、それを犯罪とはわかっていたでしょうが、道義的に悪くないと思っていたのでしょう。それをヘブル人に責められ、ショックを受けました。ここでは、モーセは単なる「殺人者」です。同時に、同胞へブル人からも嫌がられ疎まれる存在でした。なんと波乱万丈な人生でしょうか。もともと殺されるはずの赤ちゃんが、王女の息子として素晴らしい生活を40年送り、しかし今は犯罪者となり、身をかくすしかないというのです。
ミデヤンの地は、イスラエル人の故郷です。そこでモーセは祭司の娘チッポラと結婚します。40年間、エジプトの最高の文化、学問を自分のものとしてきた彼は、今度は40年間ユダヤの文化を自分のものとしました。そして、80歳になってから、「出エジプト」のためにエジプトへ戻り、ユダヤの民をカナンへと導くことになります。
ユダヤ人にとって、尊敬するユダヤ人はと聞かれれば、ダビデ、第1の預言者は、モーセと答えます。この2人は確かに偉大な人たちですが、人間以上の何者でもありません。日本人は、よく人間を神格化します。たとえば、イチローについて日本のメディアやファンはまるで神のように取り扱います。カルトではないかと思うほどです。聖書は正直に、偉大な預言者ではあっても、彼が一人の犯罪者であったことを包み隠さず書くのです。しかも、出エジプトした後40年間かけて約束の地カナンにいざ入ろうとするとき、モーセは入れないのです。彼の人生は波乱万丈ですが、その人生だけ見るなら、実は私たちとあまり変わりません。
才能と賜物。違いは何でしょうか。賜物とは、聖書でよく使われる言葉です。創世記にある、バベルの塔についての記述。人間は、やろうとしたらそれを止めることは出来ない。だから神が降りていってその言語を乱したとあります。人間は、やろうと思えば、何でも出きるというのです。学習曲線というのがあって、縦軸が能力、横軸が時間です。最初のうちはずっと長いこと「わからない、出来ない、もうやめようか」というところを時間だけが過ぎていくのが、ある地点でグン!と能力が伸びるといいます。もうだめだ、ここで諦めようと思って本当に止めてしまうならそこまでですが、もう2,3頑張れば、グンと伸びる地点へ辿りつくのです。ある家族がアメリカから帰国して、4,5歳の娘さんはそれまで英語ばかりの環境で育ってきたものの、両親の会話を日本語で聞いていたはずなのに、帰国したとたんに一言もしゃべらなくなったそうです。3週間して、急に堰を切ったようにしゃべるようになったといいます。その3週間の間、ずっと周りの会話を聞いていて、そのうちに頭の中で地図が出来ていき、突然しゃべれるようになったのでしょう。
そのように、仕事でも学問でも、ある地点でグンと上がるのです。問題は、そこまで頑張れるかどうか。ピアノでもなんでも、天才というのは無いということです。どれだけやったかの違いです。プロの料理人とお母さんの違いは、回数だといいます。才能があるとすれば、その地点まで続けること、もうだめだというところを乗り越えることが出きる才能があるかどうか。
一方、賜物は全く違います。それは、与えられているものです。才能が、低迷期を乗り越えればグンとあがるものだとすれば、そうしている間の環境も全て含めて「賜物」です。低迷期を一緒にサポートしてくれる人々、励ましてくれる環境そのものが賜物なのです。それは、家族であり、教会であり、祈りあう兄弟姉妹であり、生きているというそのものが「賜物」です。お互いの一人一人が「賜物」です。
才能といえば、せばめられ、あるかないか、になります。しかし賜物は、発見の連続です。与えられた環境の中で、励まされながら、自分の成すべきことも与えられていく。モーセはそういう賜物の中で生きたのです。法律的には殺されなければならなかった赤ちゃんのモーセを、かわいいからと殺さずに川に流した母の存在。カゴの中のモーセの行く末を見届け、王女に対して、その言葉でモーセを救った姉の存在。モーセが、40年間エジプトで学んだことは、出エジプトの時に役立ちました。犯罪を犯してしまったが、ミデヤンという彼を受け止める場所があったことも賜物です。
人間は、連続性の中で生きています。全てを「賜物」として理解するとき、今ここに自分がいることが、何かの準備だと分かります。モーセは、全てが出エジプトの準備だったと分かったのです。80歳。普通なら、既に引退している年代です。しかし、今まであったこと全てを含めて、自分がいることそのものは、その準備に向かわされていたということだと理解したのです。
誰でも、あなたでなければならない神のご計画があります。モーセだけスポットライトをあてるなら、普通の人にすぎないのですが、環境を含めた賜物の違いがありました。何か大きな働きをするための準備。主が、選んで、私たちをここに置いてくださっているのは、賜物に目覚めさせ、その大きな働きの準備をさせるためなのだと理解ができるのです。
「備えられた人モーセ」
***あるレビの家で男の赤ちゃんが生まれた。母は、3ヶ月その子モーセを隠していたが、隠しきれなくなりカゴにその子を入れてナイルの岸の葦の茂みに置いた。パロの娘が水浴びをしようと降りてきてカゴを見つけ、その子をあわれに思い、自分の息子として引き取った。モーセが大人になって、同胞ユダヤ人の苦役を見、あるエジプト人が一人のヘブル人を打っているのをみて、義憤にかられ、そのエジプト人を殺して隠した。あくる日ヘブル人同士が争っているのを見て止めに入ったモーセにヘブル人が「エジプト人を殺したように私も殺すのか」と言うのを聞いて恐れ、パロもそれを聞いてモーセを殺そうとしたため、モーセは逃れてミデヤンの地に住んだ。そこで祭司の娘であるチッポラと結婚した。***
連日、イスラエルのガザに対する攻撃について報じられています。この戦争の背景には、はるか遠い歴史が深く関係していることを覚えなければなりません。その昔エジプトにいたユダヤ人たちがエジプトを脱出し、長い旅の末に約束の地カナンにたどり着きました。そういった歴史的な流れを理解することは、今を理解するためにとても大切です。政治的、社会的にしか普通は捉えられませんが、彼らの中に、聖書の神の理解、不理解があり、それがうごめいているのです。一時は、仲良く暮らしていた時期もありましたが、政治的におかしくなっていきました。覚えておかねばならないのは、彼らの救い主の概念は違っても、両者とも同じように神を慕っている民族であるということです。
2章は、モーセの誕生、そしてミデヤンに逃れるところまで記されています。物語としてとても早い展開です。レビ族の赤ちゃんとして生まれたモーセ。ここで父の名が記されていないのは、彼が普通の人だったからでしょう。(6章を見ると家系について書かれており、アムラムという名前だったとわかります。)モーセが生まれたとき、ヘブル人の男の赤ちゃんは皆殺せという命令が出ていたため、母は3ヶ月も隠していました。しかしとうとう、カゴに入れてナイル川に流します。誰かに拾ってほしいという願いを込めてそうしたのでしょう。そしてパロ王の娘、つまり王女にモーセは拾われ、王家の子として成長することになります。
使徒7:22を見ると、40歳になるまでモーセはエジプトにいたと分かります。エジプトのあらゆる技術を学び、最高の知恵、学問を頭に入れ、体で経験していったのです。
ある時、エジプト人が一人のユダヤ人をいじめているのをみて、義憤にかられたモーセはそのエジプト人を殺してしまいます。悪いとは思わなかったでしょう。同胞ヘブル人を迫害するとは何事かと。モーセはそれを隠蔽しました。翌朝、ヘブル人同士が争っているのを見て和解させようとしたところ、「おまえはエジプト人を殺した」といわれ、恐れ、逃げます。
モーセは、それを犯罪とはわかっていたでしょうが、道義的に悪くないと思っていたのでしょう。それをヘブル人に責められ、ショックを受けました。ここでは、モーセは単なる「殺人者」です。同時に、同胞へブル人からも嫌がられ疎まれる存在でした。なんと波乱万丈な人生でしょうか。もともと殺されるはずの赤ちゃんが、王女の息子として素晴らしい生活を40年送り、しかし今は犯罪者となり、身をかくすしかないというのです。
ミデヤンの地は、イスラエル人の故郷です。そこでモーセは祭司の娘チッポラと結婚します。40年間、エジプトの最高の文化、学問を自分のものとしてきた彼は、今度は40年間ユダヤの文化を自分のものとしました。そして、80歳になってから、「出エジプト」のためにエジプトへ戻り、ユダヤの民をカナンへと導くことになります。
ユダヤ人にとって、尊敬するユダヤ人はと聞かれれば、ダビデ、第1の預言者は、モーセと答えます。この2人は確かに偉大な人たちですが、人間以上の何者でもありません。日本人は、よく人間を神格化します。たとえば、イチローについて日本のメディアやファンはまるで神のように取り扱います。カルトではないかと思うほどです。聖書は正直に、偉大な預言者ではあっても、彼が一人の犯罪者であったことを包み隠さず書くのです。しかも、出エジプトした後40年間かけて約束の地カナンにいざ入ろうとするとき、モーセは入れないのです。彼の人生は波乱万丈ですが、その人生だけ見るなら、実は私たちとあまり変わりません。
才能と賜物。違いは何でしょうか。賜物とは、聖書でよく使われる言葉です。創世記にある、バベルの塔についての記述。人間は、やろうとしたらそれを止めることは出来ない。だから神が降りていってその言語を乱したとあります。人間は、やろうと思えば、何でも出きるというのです。学習曲線というのがあって、縦軸が能力、横軸が時間です。最初のうちはずっと長いこと「わからない、出来ない、もうやめようか」というところを時間だけが過ぎていくのが、ある地点でグン!と能力が伸びるといいます。もうだめだ、ここで諦めようと思って本当に止めてしまうならそこまでですが、もう2,3頑張れば、グンと伸びる地点へ辿りつくのです。ある家族がアメリカから帰国して、4,5歳の娘さんはそれまで英語ばかりの環境で育ってきたものの、両親の会話を日本語で聞いていたはずなのに、帰国したとたんに一言もしゃべらなくなったそうです。3週間して、急に堰を切ったようにしゃべるようになったといいます。その3週間の間、ずっと周りの会話を聞いていて、そのうちに頭の中で地図が出来ていき、突然しゃべれるようになったのでしょう。
そのように、仕事でも学問でも、ある地点でグンと上がるのです。問題は、そこまで頑張れるかどうか。ピアノでもなんでも、天才というのは無いということです。どれだけやったかの違いです。プロの料理人とお母さんの違いは、回数だといいます。才能があるとすれば、その地点まで続けること、もうだめだというところを乗り越えることが出きる才能があるかどうか。
一方、賜物は全く違います。それは、与えられているものです。才能が、低迷期を乗り越えればグンとあがるものだとすれば、そうしている間の環境も全て含めて「賜物」です。低迷期を一緒にサポートしてくれる人々、励ましてくれる環境そのものが賜物なのです。それは、家族であり、教会であり、祈りあう兄弟姉妹であり、生きているというそのものが「賜物」です。お互いの一人一人が「賜物」です。
才能といえば、せばめられ、あるかないか、になります。しかし賜物は、発見の連続です。与えられた環境の中で、励まされながら、自分の成すべきことも与えられていく。モーセはそういう賜物の中で生きたのです。法律的には殺されなければならなかった赤ちゃんのモーセを、かわいいからと殺さずに川に流した母の存在。カゴの中のモーセの行く末を見届け、王女に対して、その言葉でモーセを救った姉の存在。モーセが、40年間エジプトで学んだことは、出エジプトの時に役立ちました。犯罪を犯してしまったが、ミデヤンという彼を受け止める場所があったことも賜物です。
人間は、連続性の中で生きています。全てを「賜物」として理解するとき、今ここに自分がいることが、何かの準備だと分かります。モーセは、全てが出エジプトの準備だったと分かったのです。80歳。普通なら、既に引退している年代です。しかし、今まであったこと全てを含めて、自分がいることそのものは、その準備に向かわされていたということだと理解したのです。
誰でも、あなたでなければならない神のご計画があります。モーセだけスポットライトをあてるなら、普通の人にすぎないのですが、環境を含めた賜物の違いがありました。何か大きな働きをするための準備。主が、選んで、私たちをここに置いてくださっているのは、賜物に目覚めさせ、その大きな働きの準備をさせるためなのだと理解ができるのです。
2009年1月5日月曜日
新しい旅立ちの準備(出エジプト1)
第1回目 出エジプト1章1~22節(2009年1月4日)
新しい旅立ちの準備
***ヤコブと息子達は自分の家族を連れてエジプトへ移り住んだ。時代は流れ、その時代の人々はみな死に、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。王はイスラエルの民を賢く取り扱おうと考え、過酷な労働を課した。また、ヘブル人の助産婦たちにヘブルの女が出産するとき男の子なら殺すように命じた。しかし助産婦たちは神を恐れ男の子を生かしておいた。王が彼女達を呼び寄せて問い詰めたが、ヘブル人の女はエジプト人と違って活力があり助産婦が行く前に産んでしまうのだと答えた。神は彼女達の家を栄えさせた。王は全ての民に、生まれた男の子を全てナイル川に投げ込まなければならないと命じた。***
今年は1年をかけて、出エジプトを学んで行きます。今、未曾有の経済危機といわれるその真っ只中にあって、私たちが豊田に置かれた意味が何なのかを神様が示してくださっているのではないでしょうか。
しばらく前の中日新聞に、中国の地下教会について書かれていました。大変な状況にあって中国の人々は神の言葉を求め、教会を頼るようになったとありました。要らないものが削ぎ落とされたとき本当に必要なものが見えてくるということがあります。豊田市もそういう時なのかもしれません。持っていたものが無くなっていくときとても心配になります。どうしたらいいのか、不安定な状態になります。それは人間だから仕方がないことです。しかし、そういう場合に、頼るべきところがあるというのは、それがない場合とは全く違ってきます。
中国では、長い間ずっと宣教し続けてきました。その活動によって殺されるかもしれないという、まさに生き死にの中でそうしてきたのです。そのようにして彼らが求めたのは神の言葉でした。生きるとは何か、何をめざすべきなのか。それが分かったとき、初めて「出発」を意識したのです。絶望か、希望か。それは、みことばのあるか無いかにかかっていました。
1~7節は、創世記のまとめです。8節には、ヨセフを知らない王が起こったとあります。ユダヤ人の迫害が始まりました。9節「見よ、イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い」ユダヤ人は多産であり、強いというのです。
それには深い意味があることではありますが、ユダヤ人たちは長い歴史の中で繰り返し迫害を受けてきました。その中で神の業を発見してきたのです。試練、困難の中で理解する。それは旧約のユダヤ人の姿そのものです。そして、いつの場合も、絶望だけではありませんでした。「ユダヤ人は多産で強い」それは、クリスチャンもそうなのかもしれません。
あるテレビ番組で、神社や仏教について取り上げていました。厄年というのがありますが、それは神社とお寺、どちらでお払いをしてもらうものなのか。答えは、どちらでもいいのだそうです。厄とは、陰陽道と五行(5つの星。今でいう天文学のようなもの。)を併せて出来た暦で出来ているのだとか。統計学的なものも含まれているのでしょう。天災が怖いから何かにすがりたいという人間の願いの表れだと思います。
「問題がないように祈りましょう」聖書はそのようには語りません。何かの法則があって、そこから回避するというものではありません。生きるということは、神の守りの中にあるというのが大前提なのです。何か問題が起こるとしたら、その時こそ神のことが分かるというのが聖書的発想です。ユダヤ人たちは、恐ろしい迫害にあってきましたが、それによって強さを与えられ、大きく成長してきたのです。
日本のクリスチャン達も、戦時中は迫害を受けました。しかし、消えてしまうということは決してありませんでした。過酷な状況にあっても、礼拝を守りつづけました。それこそが、平和への道筋だと考えたのです。クリスチャンはいなくなりません。それは神の深い力が働いているのです。
出エジプト1章のようなことが起こったら、大概の民族は諦めてしまうのではないでしょうか。しかしこの後、モーセという一人の赤ちゃんが与えられ、今のイスラエルが造られていくというその出だしをこれから学ぶことになります。
教会とは、この世にあって、本当に小さな光でしょう。小さな光ですが、決して見逃してはなりません。その光を通して、神様がこの世界を輝く未来へ導いていくのです。絶望している人がいるなら、ぜひ伝えたい。状況が変わらないとしても、生き生きと生きることができる。そこから経済的にも変わっていくでしょう。それを出エジプトで学ぶことが出来ます。豊田市が絶望することは決して無いと分かるのです。教会に集う一人一人は豊田市の光であり、日本の光です。出エジプトがそう語っているのです。
新しい旅立ちの準備
***ヤコブと息子達は自分の家族を連れてエジプトへ移り住んだ。時代は流れ、その時代の人々はみな死に、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。王はイスラエルの民を賢く取り扱おうと考え、過酷な労働を課した。また、ヘブル人の助産婦たちにヘブルの女が出産するとき男の子なら殺すように命じた。しかし助産婦たちは神を恐れ男の子を生かしておいた。王が彼女達を呼び寄せて問い詰めたが、ヘブル人の女はエジプト人と違って活力があり助産婦が行く前に産んでしまうのだと答えた。神は彼女達の家を栄えさせた。王は全ての民に、生まれた男の子を全てナイル川に投げ込まなければならないと命じた。***
今年は1年をかけて、出エジプトを学んで行きます。今、未曾有の経済危機といわれるその真っ只中にあって、私たちが豊田に置かれた意味が何なのかを神様が示してくださっているのではないでしょうか。
しばらく前の中日新聞に、中国の地下教会について書かれていました。大変な状況にあって中国の人々は神の言葉を求め、教会を頼るようになったとありました。要らないものが削ぎ落とされたとき本当に必要なものが見えてくるということがあります。豊田市もそういう時なのかもしれません。持っていたものが無くなっていくときとても心配になります。どうしたらいいのか、不安定な状態になります。それは人間だから仕方がないことです。しかし、そういう場合に、頼るべきところがあるというのは、それがない場合とは全く違ってきます。
中国では、長い間ずっと宣教し続けてきました。その活動によって殺されるかもしれないという、まさに生き死にの中でそうしてきたのです。そのようにして彼らが求めたのは神の言葉でした。生きるとは何か、何をめざすべきなのか。それが分かったとき、初めて「出発」を意識したのです。絶望か、希望か。それは、みことばのあるか無いかにかかっていました。
1~7節は、創世記のまとめです。8節には、ヨセフを知らない王が起こったとあります。ユダヤ人の迫害が始まりました。9節「見よ、イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い」ユダヤ人は多産であり、強いというのです。
それには深い意味があることではありますが、ユダヤ人たちは長い歴史の中で繰り返し迫害を受けてきました。その中で神の業を発見してきたのです。試練、困難の中で理解する。それは旧約のユダヤ人の姿そのものです。そして、いつの場合も、絶望だけではありませんでした。「ユダヤ人は多産で強い」それは、クリスチャンもそうなのかもしれません。
あるテレビ番組で、神社や仏教について取り上げていました。厄年というのがありますが、それは神社とお寺、どちらでお払いをしてもらうものなのか。答えは、どちらでもいいのだそうです。厄とは、陰陽道と五行(5つの星。今でいう天文学のようなもの。)を併せて出来た暦で出来ているのだとか。統計学的なものも含まれているのでしょう。天災が怖いから何かにすがりたいという人間の願いの表れだと思います。
「問題がないように祈りましょう」聖書はそのようには語りません。何かの法則があって、そこから回避するというものではありません。生きるということは、神の守りの中にあるというのが大前提なのです。何か問題が起こるとしたら、その時こそ神のことが分かるというのが聖書的発想です。ユダヤ人たちは、恐ろしい迫害にあってきましたが、それによって強さを与えられ、大きく成長してきたのです。
日本のクリスチャン達も、戦時中は迫害を受けました。しかし、消えてしまうということは決してありませんでした。過酷な状況にあっても、礼拝を守りつづけました。それこそが、平和への道筋だと考えたのです。クリスチャンはいなくなりません。それは神の深い力が働いているのです。
出エジプト1章のようなことが起こったら、大概の民族は諦めてしまうのではないでしょうか。しかしこの後、モーセという一人の赤ちゃんが与えられ、今のイスラエルが造られていくというその出だしをこれから学ぶことになります。
教会とは、この世にあって、本当に小さな光でしょう。小さな光ですが、決して見逃してはなりません。その光を通して、神様がこの世界を輝く未来へ導いていくのです。絶望している人がいるなら、ぜひ伝えたい。状況が変わらないとしても、生き生きと生きることができる。そこから経済的にも変わっていくでしょう。それを出エジプトで学ぶことが出来ます。豊田市が絶望することは決して無いと分かるのです。教会に集う一人一人は豊田市の光であり、日本の光です。出エジプトがそう語っているのです。
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